自分探しの心理

自分探しとは

自分探しをする人

自分探しの本やセミナーの類が巷にあふれたせいか、自分探しはもう古いという声もある。
だが、自分というのは永遠のテーマであって、そんな簡単に決着をつけられるような柔なしろものではない。

自己啓発や自己への気づきをうながすためのセミナーの類が相変わらず人気を集めたり、自分がつかみきれずにカウンセリングに頼る人々が急増していることが、自分探しが今なお多くの人々を悩ませ、また惹きつけるテーマであることを示している。

カウンセリングの事例を見ても、自分がよくつかめないために悩んだり、対人関係や仕事・学業生活に支障をきたすケースが相変わらず目立つ。
不登校や引きこもりの増加や少年犯罪が話題になっているが、これも自分がつかめないことによる不安や焦りが蔓延していることと無関係ではないだろう。

自分探しの途上で路頭に迷っているのは、今や若者だけではない。
40にして戸惑わずなどと言われた時代もあったが、今では人生の折り返し点という意味でのターニング・ポイントをどう乗り切るか、人生の後半に向けてどのように自分の態勢を整えていくかが重大な課題となっている。

さまよえる青年を模して、さまよえる中年と言っても、今やだれも違和感をもたないのではないか。

子どもが独立し、職場で定年退職を迎える60歳後も、それまで自分の支えとなってきた社会的役割を脱ぎ捨てて、老年期に向けてどんな自分の形をとるかを決めなければならないという意味で、大きな危機となる。

こう生きるべきという枠組みが見えない

ところで、こうした迷いや悩みがなぜ生じるのかと言えば、それは個人を有無を言わさずに方向づけてくれる「こう生きるべき」といった枠組みが崩れてきたからに違いない。
個人の一生を方向づける物語文脈の強制力がゆるみ、自由度が高まったということだ。

だけど、僕たちは、何らかの物語的文脈の中に身を置かずにはいられない。
そうしないことには、自分の形が定まらないために、心の安定が得られない。
ステージの幕がすでに上がっているのに、役柄がまだ決まらず舞台の上でおろおろする役者のようなものだ。

人は、つねに物語を求めている。
何か世を騒がす事件が起こると、テレビに釘付けになる。
重大な場面に立ち会っているような気がして、緊張感が全身を貫く。
暴動事件でも、誘拐事件でも、戦争でも、どんな事件にも発端があり、展開がある。
今後さらにどのように展開していくのか、目を離せない。
どんな背景があってこんなことになったのかも興味がつきない。
もちろん、興味本位というのでなく、事件で傷ついた人達に対する同情が込み上げ、涙することもある。

だが、そこには大変な局面に立ち会った者だけが味わう、ある種の充実感がある。
久し振りの充実感。
それは、大きな意味のある物語的文脈の中に身を置くことによって生じる充実感と言えるのではないか。

しかし、ふと我に返ると、そこには全身が弛緩した自分がいる。
自分を貫く意味のある流れがない。
自分を動かす物語的文脈が感じられない。
今、多くの人々を悩ませているのは、この自分を動かす物語的文脈の欠如なのではないだろうか。
物語的文脈が欠けているために、人生の意味が見えてこない。
日々の生活に意味が感じられないのだ。

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本当の自分が見つからない人

生きがい探し

電話が鳴る。
「はい、もしもし」
「やあ、何してる?」
「いやあ、べつに・・・。何か面白いことあったの?」
「いや。面白いことがあったら、こんな電話してるかよ」
「そりゃ、そうだ。なんか、ほんとにだるいよなあ」
「明日、どうする?」
「明日?何かあったっけ?」
「いや、ないから聞いたんだ」
「うん。何かしないと・・・」

学生の頃、親友との間によくこんなやりとりがあったものだ。
貧しい下宿生活の中、電話代だけは豪華に月々数万円使っていた。
今のような電話世代ではないし、その当時としては珍しい電話中毒だったのではないか。
日々の生活に張りを与えてくれる物語的文脈の不在は、すでに四半世紀前から若い世代を悩ましたものだった。
それはモラトリアム世代と呼ばれた。

その後、「自分とは何か?」とか「どう生きるべきか?」のように、深刻ぶって考えず、軽いノリでささいな日常を楽しむ世代が主流となった。
アイデンティティなんてどうでもいい、とでも言いたげに、深く考えることなく、その時々でやりたいことをして楽しんでいる今風の若者たち。

でも、そんな若者でも、今の自分に満足しているわけではない。
表現の仕方は人によってさまざまだが、こんな生活はほんとうの自分のものではない、何かしなくては、いつかほんとうの自分らしい生き方を見つけなくては、のような思いを胸に秘めているものだ。

何とかしないと

カウンセリングには、不登校や引きこもり、うつ病といった深刻な悩みを抱えてやってくる人もいるが、毎日が充実しない、生きがいが見つからないといった大事な問題ではあるけれども多くの人が感じているごく日常的な悩みを抱えている人もたくさんいる。

ある女子学生は、目標のない方向性を失った生活の中にいる苦しさをつぎのように訴える。

「受験までははっきりとした目標があって、今思えば充実していたんだなって思います。
目標に向かって生活が秩序づけられていました。
でも、大学に入ってからは、部活をしたり友達と飲み歩いたりする怠惰な日々が続くばかりで・・・」

「目標喪失状態っていうのかな、何にもする気がしないし、何をすべきかもわからない、充実とはまったく無縁の生活の中で、倦怠感がものすごくって、身体までがだるくってしようがないっていう感じで・・・」

「何も考えないで、ただ反射的に生きている瞬間のほうが多いんですけど、時々ひとりになって自分と向き合うとき、こんな方向性の見えない生活がいつまで続くんだろうって、ふと不安になるんです。
・・・みんなでいるときの様子を見ている人がいるとすれば、楽しそうに遊び暮らしている軽めの大学生に見えると思うんですけど、ひとりになるとものすごく重たい瞬間に襲われることがあるんです」

「これではいけない、なんとか生活を立て直さないと、なんてちょっと真剣に思ったりもするんですけど、どうしても流されてしまう」

今の生活に意味が見出せないという男子学生三人もそれぞれの言い回しで、自分が置かれている苦境をつぎのように訴える。

「授業に出ていても、何のためにやっているのかわからない。
自分が前進している気がしないんです。
このまま惰性でなんとなく学校に通っていても意味がない。
いっそのこと、思い切って退学して働いたほうが充実するようにも思うんですけど、なかなか思い切れなくて・・・」

「半年くらい前から、休学しながら会社でバイトして、上司からずいぶん頼りにされていて、このまま採用してやろうかといった話も出たりします。
毎日が充実しているし、仕事にも自信がついてきたんですけど、正社員になるのに卒業しておいたほうがよいのかどうかでこのところ悩んでいるんです。

卒業するには、また意味の感じられない単位集めにも精を出さなくてはならないし、そうなると以前の意味の感じられない惰性の日々に戻らなければならないし・・・」

「大学がつまらない。
まわりの学生たちを見ても、活気がないというか、エネルギーが感じられないじゃないですか。
自分もエネルギーを枯らさないように気をつけなくちゃって思うんですけど。

で、この前、宮崎駿のアニメを見て感動しちゃって、アニメにかかわる仕事に就きたいと思うようになったんです。
そのために、大学はやめて専門学校に行きたいと思うんですけど。
でも、将来像がはっきり見えてこないし、大学をやめる決心がなかなかつきません。

このまま大学生活を続けてもしようがないと思うし、そんなごまかしだけの生活は絶対に嫌なんですけど、将来何になれるかがわからないし、展望がもてないので、どうしても不安が先に立って、身動きがとれなくなってしまうんです」

どの悩みをみても、結局のところ、自分を生き生きさせてくれる物語的文脈がみつからないことが、その根元にあるといえる。

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自分探しの心理

自分探しは束の間の安らぎ

「ほんとうの自分」に出会うためのハウ・ツー本に群がる人達がいる。
その気持ちは僕もよくわかる。

だが、大量のハウ・ツー本に答えを見出せない人は、ハウ・ツーを仕込んだところで「本当の自分」などというものにはなかなか手が届かないことの証明となってはいないか。
そもそも「ほんとうの自分」という言い方には、どこかいかがわしさ漂っている。

今の自分の生活に満足できない、なんか充実感がない、もっと生きているといった実感がほしい。
そうした思いは多くの人が抱えているものだ。
そう思うのなら、まずは動いてみることだ、などとよく言われる。
もちろん、そこで充実に向けて一歩踏み出すことができればよいのだが、人間というのはどうも惰性に流される。
生活を変えるというのは、非常に大きなエネルギーを要することなのだ。

だいいち、どう変えたら自分の日々の生活に張りが出てくるのかわからない。
それに、試しに何かをしてみたからといって、いきなり充実し始めるなどということは、めったにない。
生活の充実というものは、そんな手軽に手に入れられるものではない。

充実にたどり着くまでには、地道な努力の積み重ねを必要とするのがふつうだ。
そこに根気が必要とされる。
だが、自分にあったものかどうかわからないのに、地道な努力を積み重ねていく気力はなかなか湧かない。

どうもパッとしない。
このままでは自分の人生という感じがしない。
そうかといって、どう動いたらよいのかわからない。
そんな混乱と不安の中にある人にとって、「どこかに本当の自分があるはず」「いつかほんとうの自分にきっと出会えるはず」と思うことは、ある種の救いとなる。

今はとりあえず納得のいかない日々を送ってはいるものの、これはほんとうの自分のあり方ではない、自分はこんなものではない、いつかもっと自分らしい生活に出会えるはず。

今の自分にふと物足りなさや疑問を感じるときに、そのように考えることで、現実逃避的な安らぎが得られる。
「ま、とりあえず今は、これでいいか」と安易な姿勢に安住し続けるときの口実に使える。

惰性に流される自分、意欲の乏しい自分、意志の弱い自分、取り立てて誇れる能力のない自分、情けない自分、思い通りにならない自分、持て余し気味の自分。

こういったものは、どれもほんとうの自分ではないのだ。
そう思い込むことで、気持ちが軽くなる。
何かが変わるわけではないけれど、束の間の安らぎが得られる。

このように、どこかに「ほんとうの自分」があるはずといった自分探しの物語は、充実した生活を組み立てるのが難しい多くの人達にとって、ひとつの救済装置として機能しているわけだ。
けれども、こういった自分探しの物語に安住しているかぎり、自分らしい生活や充実した日々を手に入れることはできない。
やはり、今ここで動き出さない限り、何も変わっていかない。

このままただ流れに身を任せているだけで、いつか突然「本当の自分」にめぐり会える。
そんな妖しげな魅力を放つ物語から抜け出して、今ここで自分づくりのための動きを起こすことが大切なのだ。

自分もいつかは本当の自分が見つかる

いつか「本当の自分」に巡り会えるはず。
だから、いまのところは何か物足りないけど、まあいいか。
そんな感じでごまかしていては、自分の中に何ら建設的な変化を期待することはできない。
けれども、現実逃避的な安らぎが得られるということはある。
その意味では、ある種の救いになっているわけだ。

しかし、このところそうした幻想がもちにくくなっているということがないだろうか。
本当の自分がどこかにあるはずといった希望的観測よりも、「自分がどこにもない」「自分がどうにも見つからない」と絶望的な思いにとらわれ、悲壮感や焦りを生じるような時代の空気が強まっているような気がする。

今生きている自分よりもっとすばらしい本当の自分がどこかにあるはず、いつか巡り会えるはずのように希望がもてれば、現実にさえない生活を送っており、情けない自分に直面せざるを得なくても、何とか凌いでいくこともできるだろう。
だが、そうした希望がもてないとき、今現に生きている空虚な生活、そうした日常に埋もれているさえない自分がすべてということになる。
いつかそこから抜け出して自分が輝き出すときがきっとくる。
そういった希望的観測が成り立たない。

そんな心理状況の中、自分の中の衝動が露出しやすくなる。
キレるというのも、そうした閉塞感によるところが大きいのではないか。
自分が空虚だとか、空白だとか、空っぽだとかいったセリフも目立つが、こうした感覚も、どこかにもっと充実した本当の自分があって、いつかこの虚しい生活から抜け出すことができるといった希望がもてれば、適当にやり過ごすこともできるだろう。
しかし、そのような希望がもてないとき、自暴自棄な行動につながりやすい。