自尊心が低い人が高める心理

自尊心が低い人は誰からも本気で愛されたことがない?

自尊心が低い人は本当は自分を出してしまったほうが愛される

自尊心が低い人は感情を出したほうが好かれる。

適応した自尊心が低い子どもは、愛されるためにはお行儀よくふるまうことだと思い込んでいる。

しかし、無理をしていない子どものほうが「子どもらしいかわいらしさ」がある。

子どもに自尊心が低い親は、過剰な愛を求めて子どもを窒息させるか、逆に子どもを放任してしまう。

つまり、自尊心が低い親は、子どもをどう愛していいのかわからないのである。

愛を知らない。

だから親子の関係でも、自尊心が低い人はどう子どもと対応していいのかわからないのである。

子どもは神経症的な親への対応のしかたのひとつとして、お行儀よくふるまうことを選ぶ

子どもは子どもで、心理的に健康な人から「愛されること」と、その場で無責任な人から「気に入られること」の違いがわからない。

その場で無責任な人から「気に入られること」を、心理的に健康な人から「愛されること」と勘違いしてしまう。

その場で無責任な人から「気に入られること」のあとには何も残らない。

だからこそ自尊心が低い「よい子」は、大人になっても心の底には何も残っていないのである。

外側は格好がついているかもしれないが、自尊心が低い人は中身は空っぽなのである。

心の空虚感を自尊心が低い人はどうすることもできない。

「よい子」は確かに一生懸命生きている

自尊心が低い人はあとに何も残らない。

大人になっても自尊心が低い人は何も残っていない。

その人が困ったときに助けてくれるような人は周囲にひとりもいない。

本気で愛する人もいない。

深い心のつながりを持っている人もいない

自分が本当に好きなものも自尊心が低い人はない。

心にしみる体験も自尊心が低い人はない。

心の支えになるものも自尊心が低い人はない。

もう一度言う。

確かに自尊心が低い「よい子」は一生懸命生きている。

あとに何も残っていない

自尊心が低い「よい子」は無理してお行儀よくふるまった。

しかし自尊心が低い人はただそれだけなのである。

一生懸命に自尊心が低い「よい子」は勉強した。

しかしただ自尊心が低い人はそれだけなのである。

一生懸命に自尊心が低い「よい子」は親の手伝いをした。

ただ一生懸命に親の手伝いをしただけなのである

先生にも友達にも自尊心が低い「よい子」は笑顔で接した。

ただそれだけなのである。

何も自尊心が低い人は残っていない。

無駄を嫌いながらも、自尊心が低い人はそのような無駄な生き方をしてしまっているのである。

周囲の人も、皆「こころ」のない利己主義者であった

しかし「よい子」も同じである。

一生懸命に親の手伝いをしたが、自尊心が低い人はその手伝いに「こころ」が入っていなかった。

一生懸命に笑顔を見せたが、自尊心が低い人はその笑顔に「こころ」が入っていなかった。

それは、気に入ってもらうための自尊心が低い人の笑顔で、自分を守るための笑顔である。

自己執着的笑顔である。

自己保身のための笑顔である。

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自尊心が低い人は本音を言わないからコミュニケーションが成立しない

周囲にはその人を利用しようとする人が集まり、彼が立ち直ることを望んでいないという

そのような観点で人の集団を見てみると、本当に自尊心の低い人の周囲にはひどい人が集まっているのに気づく。

よくもここまでと思うくらい自尊心が低い人には冷たい人が集まっている。

周りにはまともな人がいない。

これでは自尊心は高まらない。

その冷たい人達に自尊心が低い人は気に入られようと、必死になっている。

お互いに「こころ」がない。

コミュニケーションが自尊心が低い人は成立していない。

つまりそこには心の交流がまったくといっていいほど存在しない。

必死に真面目に生きているが、その人生には何も残っていないのである

本当に自尊心が低い人は何も残っていない。

無理なダイエットをすると骨がボロボロになるという。

それと自尊心が低い人は同じである。

「よい子」が大人になって人生を半分以上すぎた頃、その自尊心が低い人生は外側だけで、なかには何もない。

気質として、先にも述べたテレンバッハの言った、メランコリー親和型というものがある。

「メランコリー親和型の人は人に尽くすことによってしか人と接することができない」

普通に人にものを自尊心が低い人は頼めない。

普通に自尊心が低い人はつきあえない。

つきあいには絶えず自尊心が低い人は遠慮している。

なぜそんなに遠慮するのであろうか?

友人に対してさえ「今日、四時に遊びにいっていいか?」と聞けない自尊心が低い人もいる。

先に相手の今日の予定を根堀り葉掘り聞いて、相手の事情を推測したりする

もし何かを申し出て相手に迷惑だったらどうしよう、と自尊心が低い人は恐れるからである。

日本の文化は推測の文化だという。

はっきりとものを頼まないで、自尊心が低い人は相手の言葉からいろいろと推測する。

推測の文化は愛を知らない文化である。

自分が好きで相手が好きならもっとはっきりとものを頼めるし、はっきりとものを言える。

自尊心が低い人はあなたがやりたいと思うことをためらわずにやってみる

なぜそこまで迷惑をかけることを恐れて自分の願望をはっきりと言えないのだろうか?

迷惑をかけて自尊心が低い人は嫌われるのが怖い、そして自分が誘ったら相手が喜ぶとは信じられないからである。

つぎに自尊心が低い自分自身、相手から何かを頼まれて迷惑をこうむるのがいやだからである。

遠慮ばかりしている自尊心が低い人は自分が損することがいやなのである。

人一倍損をすることに自尊心が低い人は敏感である。

だからこそ人に迷惑をかけるのも自尊心が低い人は敏感なのである。

メランコリー親和型の自尊心が低い人は表面的にしていることは立派であるが、心の底は利己主義者である。

自分が相手の世話をする気があれば、そんなに相手に気が引けて遠慮ばかりすることはない

自分が相手を世話する気になれば、相手に世話になることができる。

他人からの好意を自尊心が低い傾向の人がやすんじて受けられないというのも同じである。

他人に自尊心が低い自分が好意がないからである。

相手から同じ好意を自尊心が低い自分が求められると困るからである。

自分が人に好意がなくて、そのうえ人の世話をする気がないから、自尊心が低い人は人に世話になることに必要以上に気を使うのである。

世話になることを人への「迷惑」と自尊心が低い人は解釈してしまうのである。

相手に好意を持っている人には、相手のことを何か世話しても、あまり迷惑と感じない

あまりにも遠慮深くて、いつも気が引けている自尊心が低い人は人を信じられないのである。

それだけ人の世話を自尊心が低い人はするのがいやな人なのである。

相手に対して信頼関係があれば遠慮はない。

礼儀はあっても遠慮はない。

相手を信頼していないし、自分の信頼するに値する人間ではないということである

自分が細かい仕事をしているときに、人が来て気が散ったとする。

「あっち行っていろ」という言葉はお互いに好きであるという信頼関係があって言える。

お互いの友情に対する信頼があって言える。

またよく「私なんか」と遠慮しつつ、自分の要求をとおしていく自尊心が低い人がいる。

遠慮しているようであるが、自尊心が低い人は実は大変ずうずうしい。

「あっちいっていろ」という言葉を言える友人を持っている人はそのようなずうずうしさがない

あまりにも遠慮深い自尊心が低い人は信用できない。

他人に「こころ」を開いていない自尊心が低い人は利己主義者であることが多いからである。

たとえば、皆に迷惑ばかりかけていると自尊心が低い人はしきりに言う。

しかし自分が皆にできることを自尊心が低い人はしようとはしない。

ことあるごとに申し訳ないと言いつつも、自尊心が低い人は自分からは動こうとはしないところがある。

怠けていると思われるのがつらいというのは本当なのである

自尊心が低い人は本当につらい。

それは人からよく思われることが自尊心が低い自分の存在を保証することだからである。

そして働くことが自尊心が低い人は価値あること、何もしないことは無価値なことという価値観を持っている。

性格がいいとか、明るいとか、思いやりがあるとかいうことは自尊心が低い彼らにとっては価値のないことなのである。

その価値観の歪みには自尊心が低い人は気がつかない。

相手の気持ちを思いやる心と相手の気持ちに縛られる、自尊心が低い心

自分が、あることを弱点と解釈しているだけで、相手がそれを弱点と思っているかどうかはわからない。

しかし、相手はそれを弱点とは思っていないことがよくあるということである。

それなのに、相手は弱点とは思っていないことを一生懸命しているという自尊心が低い人がいる。

しかも、相手から見ると、自尊心が低い人はそれが隠されていない。

本人がひとりで隠しているつもりになっている。

たとえば、ある人は自尊心が低い自分が臆病であることを隠そうとする。

その自尊心が低い人は、自分が何かを怖がることを「弱点」として解釈している。

しかし、相手はそれを弱点とは思っていない。

誰だって怖いものは怖いのである。

怖がる性質を耐え難いと感じているのは自尊心が低い本人だけである。

相手の人は、怖がる性質を耐え難いとは感じていない

人として当たり前だと思っている。

しかし、自尊心が低い本人は自分が臆病であることを隠そうとしている。

また、隠すことに成功していると自尊心が低い人は思っている。

しかし、臆病を隠してみても、何かを怖がっていることは自尊心が低い本人の表情でわかる。

その自尊心が低い人は、自分の弱点がうまく隠せないと相手から見捨てられると思い込んでいる。

自分の弱点が現れると、相手に受け入れてもらえないと自尊心が低い人は思っている。

その弱点が現れたら見捨てられるなどと自尊心が低い本人だけが勝手に、考えている。

つまり、いらぬ心配を自尊心が低い人はし、いらぬエネルギーの使い方をしている。

そんな愚かなことがよくある。

自尊心が低いあなた、以外の人は誰もそれを「弱点」とは思っていない

ある女性である

その自尊心が低い女性の父親が会社で悪いことをして懲戒免職になっている。

そしてその女性は、自分の父親が懲戒免職になっていることが恋人にわかれば自分は捨てられると思っている。

そして自尊心が低い女性はそれを知られないように必死で父親の話題を避ける。

父親の職業の話を自尊心が低い女性は避ける。

しかし、すでに彼はそのことを知っている。

知ったうえで、自尊心が低い彼女のことを好きになっている。

そして、自尊心が低い彼女を傷つけないように、そのような話題を避けている。

彼女は、彼がそのことを知らないから話題にしないと錯覚している

父親が会社で懲戒免職になったという事実を自尊心が低い彼女は隠そうとすればするほど、その事実が自分の恋愛の障害になるように感じられてくる。

彼女は、父親の懲戒免職という事実を自尊心が低い自分の弱点としたのである。

しかしそれは、その事実を自尊心が低い自分にとって屈辱的に解釈しているにすぎない。

好かれようとして弱点を隠すが、実は弱点を隠すほうが嫌われるのである。

弱点を必死で隠している自尊心が低い人はなんとなくうさんくさい。

弱点を隠す自尊心が低い人は男らしさ、女らしさを勘違いしている。

弱点があっても男らしいし、女らしい

むしろ、弱点を隠すと男らしさ、女らしさが失われる。

人は自分の得意なものがひとつあればそれで充分なのである。

あとは弱点があってもいい。

いや、あるほうが正常である。

それを、あれもなければこれもなければと必死になる自尊心が低い人の姿が、かえって見る人にはあさましく映る。

好かれようとその自尊心が低い人は弱点を隠すことに必死になっているが、現実には逆の効果しか上がらない。

ある二人の男性―人はどちらのタイプに好意を抱くか?

ある二人の男性が、同じ女性に好意を持っていた。

ひとりは弱点を隠す男性、もうひとりは弱点を隠さない男性。

その女性とその男性二人が、外国に行く時期がたまたま一緒になった。

べつべつの仕事であるが、たまたま時期だけが一致したのである。

そこで「弱点を隠す男性」はその女性に、外国を「案内してあげますよ」と言った。

そしてもうひとりの「弱点を隠さない男性」は「向こうで一緒に遊ぼうか」と言った。

もちろん、女性の心は「向こうで一緒に遊ぼうか」と言った男性に傾いた。

弱点を隠す男性は、自分の偉さを誇示しようとしたためにかえって嫌われたのである

自分がその外国を知っているということを示したかった。

そして、その女性に対して素晴らしい男性を演じようとした。

しかし、女性は「向こうで一緒に遊ぼうか」と言った男性をすごく男らしく感じたと言う。

弱点を隠す男性を、弱い男性と感じたのである。

その感じ方は正しい。

強いから弱点を認める。

弱いから偉さを誇示しようとする

また、ある男性がある女性を食事に誘ったことがあった。

はじめ、彼女はその男性にそれほどの好意を持っていなかった。

そこで「いろんなことのスケジュールがはっきりしていないから」と答えた。

しかし、そこでその男性は「そう、忙しいのか。残念だな、でも僕はぜひ会いたいんだ」と答えた。

そこで、彼女の気持ちが少し変わった。

なぜか?

その男性が素直に自分の気持ちを話したからである。

そしてその男性は「それじゃあ、時間ができるまで待ってるよ」と言って電話を切った。

彼女はなんとなく自分がはずかしくなった。

「この人は自分の気持ちを素直に言う。この人は素敵だな、大きいな」と感じた

もちろん、やがてこの二人は一緒に食事をした。

もともと、この女性はべつの男性に好意を持っていた。

彼女はその好意を持っている男性から電話をもらった。

そのとき、その自尊心が低い男性は「忙しいけど、少しくらいなら時間はあくけど・・・」という言い方をした。

男性は「食事がしたい」という自分の気持ちを素直に言わなかった。

そのその自尊心が低い男性は、自分がいかに忙しいビジネスマンであるかをしきりに強調した。

「一緒に食事をしてやる」と自尊心が低い男性はまるで言わんばかりの恩きせがましさである。

彼女の気持ちは少し変わってきた

そこで、彼女はなんとなく一緒に食事をする気にならなくなった。

彼女は「まだいつになるかわからないけど、食事をしましょう」と答えた。

そうすると、その自尊心が低い男性は不愉快さを声に表した。

もしその男性に、前の男性と同じように「いろんなことのスケジュールがはっきりしていないから」と答えても、「そう、忙しいのか。残念だな、でも僕はぜひ会いたいんだ」とは答えなかったであろう。

彼はどんなに残念でも「残念だな」とは言わない。

その女性はそのときに「残念だな」と言わない自尊心が低い男性が小さく見えたと言う。

その自尊心が低い男性は、もし彼女に「いろんなことのスケジュールがはっきりしていないから」と言われたら、心の底で傷ついて、怒ったであろう。

彼女は、はじめは会いたかったのである。

その彼女の気持ちを会いたくないというように変えたのは自尊心が低い彼の言動なのである。

彼の「自分はこんなに偉いのだぞ」という態度が、彼女を会いたくない気持ちにさせたのである。

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自尊心が低い人は人を喜ばせて、自分もうれしくなければその好意は嘘である

淋しいから相手を喜ばせようとする

相手を喜ばせることで自尊心が低い人は相手からの好意を期待する。

淋しいと自尊心が低い人は好意の奴隷になってしまう。

相手を喜ばそうとするのは見捨てられる不安があるからである。

恋人を喜ばせようとして自尊心が低い自分の感情を偽る。

喜ばせようとして緊張する。

それは人は喜ばせようとする動機が見捨てられる不安だからである。

相手を喜ばせないと自尊心が低い人は見捨てられると思っている。

実際はそんなことはない。

恋人は相手にそんなことを要求してはいない。

見捨てられると間違って確信し、不安になっている

”Codependents”という言葉がアメリカにある。

自立できない人という意味である。

”Codependents”はまさに見捨てられる不安を持っている人なのである。

”Codependents”の心理的特徴は相手を喜ばせようとすることである。

メランコリー親和型の人も相手を喜ばそうとする。

メランコリー親和型の人も”Codependents”の人と同じように見捨てられる不安を持っているのではないか。

彼らは悪く思われまいとしているから、いつ見ても心配そうに眉間にしわを寄せている

善人に見えるが心の底はずるい。

弱さはどうしてもずるさに通じてしまうからである。

自分のやっていることは正しいと思っているが、自尊心が低い人はおびえている。

気が小さいから、自尊心が低い人は自分の地位を守ることにものすごく神経を使っている。

人への思いやりは自尊心が低い人はない。

あなたはもっと自分に自信を持っていい。

世間の評価を気にする

自尊心が低い人は世間のもの笑いになることを避ける。

恥をかかないために自尊心が低い人は日常生活のあらゆる面で頑張る。

面目がつぶれることを自尊心が低い人は恐れる。

そうなると人は生真面目に仕事をすることが安全なのである。

このようにして、防衛的性格の自尊心が低い人が大人になると世間体を気にするようになる。

恥をかかないように自尊心が低い人はいつも人々に対して防衛的になる。

そこで世間並のことを自尊心が低い人はしようとするようになる。

世間体と防衛的性格は分かちがたく結びついている。

世間とは社会的規範の準拠枠である

それにしたがっていれば自尊心が低い人は外に受け入れられる。

そしてまた、自尊心が低い人は防衛的性格としての発言がタテマエである。

本音は他人に知られては困るとして隠しているものである。

タテマエを守るのが防衛的性格であり、実際のその自尊心が低い人が願っているのが本音である。

このように、防衛的性格になる自尊心が低い人原因はやはり自己蔑視であろう。

自分に自信がないから防衛的になるのである

自分に自信がないから自尊心が低い人は世間の目を気にして真面目にふるまっている。

あるいは自尊心が低い人は見栄をはる。

世間体を気にして自尊心が低い人は行動することが防衛的性格の特徴である

見栄をはるが、自尊心が低い人は体ははらない。

自分を出さないと自尊心が低い人はいつまでたってもおびえていることになる。

相手に気に入られることだけでは人生の問題は解決しない

相手に気に入られても自尊心が低い人は日常生活における「おびえ」はなくならない。

たとえ相手に気に入られたと感じても、自尊心が低い人はいつもおびえていなければならない。

相手に気に入られることで、その自尊心が低い人の心の底の見捨てられる不安がなくなるわけではない。

それが社会学者エーリッヒ・フロムの言う服従の最大の問題点である。

支配服従の関係にあるものは基本的に不安である。

そんなに相手に服従していても、自尊心が低い人は見捨てられる不安から免れるわけではない。

おびえた態度は心の底の見捨てられる不安があらわれたものである。

迎合した自尊心が低い人はいつもおびえている。

迎合する相手が上司であれ、親であれ、友人であれ、配偶者であれ、恋人であれ同じことである

自分が心理的に依存する者に自尊心が低い人はおびえる。

見捨てられる不安のある自尊心が低い人は、相手の意見に反対でも反対と言えない。

反対して見捨てられることが自尊心が低い人は怖いからである。

相手の態度が不愉快でも自尊心が低い人は「やめてくれ」とは言えない。

そう言って見捨てられることが自尊心が低い人は怖いからである。

しかし反対の考えとか、不愉快さがその自尊心が低い人の心の中から消えてなくなるわけではない。

それが不機嫌である

見捨てられる不安のある自尊心が低い人は、自分のしたいことができない。

そして、したいことをできない不満だけはその自尊心が低い人の心に記憶される。

そして、そのような不愉快な記憶が心の底に積み重ねられることによって、自尊心が低い人は相手に対するひそかな敵意へと成長していく。

その結果、自尊心が低い人は相手に対してどうしても素直になれなくなるのである。

あるいは相手と一緒にいても楽しくなくなる。

相手と親しくなる自尊心が低い人の能力の喪失である。

大人になって、その人が見捨てられる不安に苦しむのは相手の問題ではなくて、その自尊心が低い人の問題である。

小さい頃、親におびえていたのは親の心理的葛藤が原因かもしれない

見捨てられる不安を持つ自尊心が低い原因そのものは、温かく親しい親子関係を持てなかったということかもしれない。

親が心理的葛藤に苦しんでいる時に子どもは親との同一化に失敗する。

子どもが親との関係で自尊心が低い見捨てられる不安を持つのは、親の側に原因がある。

しかし大人になって、その自尊心が低い人が相手との関係で見捨てられる不安を持つのは相手が原因ではない。

相手が心優しい人かどうかとは関係なく、その自尊心が低い人は見捨てられる不安を持つ。

そしてこんなことをしたら、あるいはこんなことを言ったら相手との関係は終わりになるのではないかといつもびくびくとおびえている。

たとえ相手がその人を見捨てなくても、その自尊心が低い人は見捨てられる不安におびえている。

アメリカの精神分析医カレン・ホルナイの言う迎合も、エーリッヒ・フロムの言う服従も、彼らの言うごとく人を救わない。

人生の課題を自尊心が低い人は解決しない。

見捨てられる不安を持つときに、迎合することで不安からのがれようとする

そして見捨てられる不安から迎合的な態度をとることで、その自尊心が低い人の見捨てられる不安は深刻化するだけである。

迎合は人生の課題を解決しない。

このことはいくら肝に銘じても銘じすぎではない。

さらに、迎合する時には自分を出していない。

ここが問題なのである。

自分を出せば自信もつくし、好意がなくても生きていけると感じられるようになる。

そして自分を出せば好かれるのである。

あなた自身の”心のモノサシ”でまわりを見ることが大切。

人生の未解決な問題を解決するということは、これまでに述べてきたような逃避のメカニズムを選択するのではなく、孤独を恐れずに自分を選択していくということである

自分の判断で行動し、その結果に責任を負うということである。

そのような行動を積み重ねていくということが、その自尊心が低い人のこれまでの人生の未解決な問題を解決するという事である。

これをしないで頑張っても、自尊心が低い人はなぜか人生は生きにくくなるだけである。

本人にしてみれば「こんなに真面目に生きて、こんなに頑張っているのに」と思う。

どこがおかしいかわからないが、自尊心が低い人はどんどん人生はおかしくなっていく。

努力に努力を重ねながら自尊心が低い人は、なぜかつらいほうへつらいほうへと人生は流されていく。

生きていて楽しいことは何もなくなってくる

偽名現象と言われるものがある。

これなどもなぜかうまくいかない自尊心が低い人々が感じる現象である。

成功しているのに自尊心が低い人は自分の力で成功したとは感じられない。

そこで、何か自分は偽名でも使って生きているような、自尊心が低い人はうしろめたい気持ちになる。

人は本当に有能でも、有能な「ふり」をしたことで、自尊心が低い自分が有能であることが信じられなくなる。

偽名現象である

実際の自分を隠して自尊心が低い人は防衛的になることで、自己不適格感が生じる。

実際の自分に自尊心が低い人は罪の意識を感じる。

それがさらに人に対して迎合的な態度をとらせる。

悪循環に自尊心が低い人は陥っていく。

現実から引きこもり、無反応になる自尊心が低い人がいる。

現実と接しないことで自分を守るのである。

引きこもることで傷つくことから自尊心が低い自分を守る。

現実から隔離された自分の世界を築いてしまえば傷つくことはない。

修羅場から逃げた

人生で解決しなければならないことが自尊心が低い人は何も解決できない。

したがって、このような自尊心が低い人達もいつかは、自分の人生がどうもうまくいかないということに苦しみだす。

幸せには自尊心が低い人はなれない。

生きるのが自尊心が低い人は辛い。

なんだか周囲の人ばかりが、幸せになっていくような気がする。

そして「私は何も悪いことをしていないのに、なんで私の人生ばかりがこんなにつらいのだ」と不満を感じる。

心理的に病んだ自尊心が低い人が味わう感情で、心理的に健康な人には理解できないことの一つに「つらい」という感情がある。

心理的に健康な人は苦しいとか、悲しいとか、淋しいとかいう感情はよく理解できるが、つらいということは理解できない

つらいということは、たとえば燃え尽き症候群の人が、朝、熟睡できないまま目を覚ました時の感情である。

もうこれ以上寝ていられないが、でも起きることもできないというときに味わう感情である。

これ以上寝ていられないのである。

しかし同じようにベッドからおきあがることもできない。

どうすることもできない。

これがつらいという感情である。

心理的に健康な人がベッドから起き上がれないのは、疲れていて「もっと、もっと寝ていたい」からである。

もっと寝られるといえば嬉しい。

また執着性格の自尊心が低い人は、疲れても仕事を休むことができないといわれる。

疲れて自尊心が低い人は仕事ができない。

消耗して仕事の能率は上がらない

自分に自尊心が低い人は鞭打っても仕事ができない。

それなのに自尊心が低い自分に鞭打たねばならない。

そうしないと自尊心が低い人は気がすまない。

倦怠感に苦しめられて、自尊心が低い人は仕事をしたくないのに仕事をしないではいられない。

これがつらさである。

努力に努力を重ね、真面目に頑張って生きてきたのに、このようにつらい人生になってしまう自尊心が低い人がいる。

確かに不運なところはあるが、自尊心が低い人は修羅場を避けたことがその原因である。

まずは、自尊心が低い人は自分の内面と正面から向き合うこと

思想や宗教にすがる人もいる

思想とか、宗教とか、なんでもいいから傷つくことから自分を守るものを見つけて、それによって生きていこうとする自尊心が低い人もいる。

これもまた自尊心が低い人は修羅場から逃げたのである。

その思想が自分を救わないからといって、その思想や宗教に責任があるわけではない。

修羅場から逃げたその自尊心が低い人が悪いのである。

弱い自尊心が低い人は修羅場から逃げて救われる方法を求める。

魔法の杖はその一つである。

現実と接しながら問題を解決しようとすれば傷つく。

そこで現実と接しないでも問題を解決してくれるものを探す。

それが魔法の杖である。

傷つくことを恐れずに現実に正面からぶつかる

それが修羅場であり、自己実現でもある。

自己実現の最大の敵は防衛である。

防衛的な性格に自尊心が低い人がなったときに自己実現は絶望に近い。

防衛的とは、外側から自分をつくるということである。

自己実現とは、内側から生きる型を決めていくということである。

自分の内面と正面から向き合うことなく自尊心が低い人が思想等に逃げて、どんなに勉強しても人生はうまくいかない。

どんどんつらくなっていく

いつも人から責められている感じを持っている被責妄想の自尊心が低い人がいる。

彼らも頑張って生きているのに、なぜか人生がつらくなってしまっている自尊心が低い人である。

最後にもう一度。

迎合は人生の課題を解決しない。

現実に正面からぶつかって自尊心が低い者は修羅場をくぐり抜けなければならない。