過度に自分を責める心、罪責感は、エリクソンがいう早熟な良心の形成に根源があります。
無条件に受容されているという実感をおびやかされるとき、子どもは不安を抱き、親に受け入れられようと努めます。
あるがままの姿では受け入れられないので、相応の子供らしさを抑圧して親の期待に応える「良い子」になろうとします。
これが早熟な良心の形成といわれるものです。
親に受容してもらおう、親の期待に応えようと、幼い子どもは内から発する自然で率直な感情の発露をおさえます。
幼い子どもの無秩序な行動と感情をおさえ、親の期待に応えようと試みます。
しかし、幼い子どもの能力はかぎられているので、親の期待に応えきることは決してできません。
また、精神分析学が明らかにしたことですが、抑圧的な養育者に対して、幼い子どもは憎しみの感情を持ちます。
しかし、それは養育者に絶対に知られてはならない心なので、無意識の心の層へと閉じ込めます。
このようにして、これらの子ども達は、自分の中に表出してはいけない心の部分を多く持つことになります。
自分を守るために、自分の心と行動を強く監視しなければなりません。
しかし、幼い子どもの心は不器用です。
自分のなかにあるこうした心の部分をうまく処理することができません。
幼い子どもは決して親の善意を疑いませんから、親の期待に応えられないのは自分が悪いからだと考えます。
こうして、強い罪責感がつくられてしまうのです。
また、どんなにがんばっても親の期待に応えられないので、不全感を持ってしまいます。
客観的に見て優秀でも、親の期待に応える能力がないと、自己への無価値感を持ってしまうのです。
さらに、罪責感は意識を内面に向かわせ、行動は外界から退却しがちになります。
このため外界へ働きかける機会が制限され、じっさいに自分の能力への自信の形成が妨害されます。
過度の罪責感が、過度の自己意識や不全感、自信のなさなどと常に同伴しているのはこうしたメカニズムによるのです。
罪責感の強い人は、自分の責任を不当に拡大してしまいます。
このため、他の人ならなんでもないことに対してさえも、罪責感を感じてしまいます。
たとえば、電車のなかで座っている自分の近くに障害を持っている人が乗り込んできたとき、誰も席を譲らないのに、自分がいけないのだと罪責感を感じてしまいます。
あるいは、明らかに相手の落ち度であっても、それを指摘することに罪責感を感じてしまいます。
幼い子どもには、親の不快の原因や不和の原因を、不当に自分で引き受けてしまう親の期待に応えられず罪責感を抱く傾向があります。
母親は「私の赤ちゃん」という感覚で子どもを生み、育てます。
そのため母親は、子どもに自分の要求を投影してしまいます。
「私の生きがい」とか、「私を慰め、喜ばせてくれる赤ちゃん」という感じ方は、一種の投影なのです。
このため、母親の気持ちが落ち込んだり不機嫌であると、幼い子どもは無意識のうちに自分に責任があるかのように感じるのです。
夫とのきずなをつなぎとめるために子どもを生み、利用する母親もいます。
こうしたことのために、夫婦のきずなの危機を自らの責任と感じてしまう、親の期待に応えられず罪責感を抱く心理がつくられるのです。
子どものころ、夫婦喧嘩の原因が自分にあると、なんの理由もなく思い込んでいた、罪責感を感じていた人はめずらしくありません。
また離婚した夫婦の子どもたちは、離婚の原因が自分にあると思い込んでいることが少なくないのです(E・ローフス編 円より子訳『子どもが書いた離婚の本』コンパニオン出版 一九八二)。
この点で象徴的な、次のようなコマーシャルがありました。
子どもと釣りに行く約束をしていた朝、父親が風邪をひいて行けなくなってしまいます。
「約束していたのに!」という子どもに、母親が言います。「良い子にしていたら、パパ治るからね」。
幼い子どもは、父親の風邪にさえ罪責感を感じさせられるのです。
そして、風邪が治らなければ、親の期待に応える為、自分のなかの「悪い子」を探しださねばなりません。
さらにいえば、親は善悪の客観的な判断から子どもを叱るだけではありません。
自分の子育ての落ち度を他人から責められることを避けようとして、子どもを叱る親もいます。
この場合、子どもは親の罪責感を引き受けることになります。
たとえば、夫の家族と同居している場合、義父母によって抱かされる罪責感を避けようとして叱るというようなこともあります。
このような場合には、母親ばかりでなく、母親が先取りしてみた義父母の罪責感さえも引き受けさせられることになります。
ダブル・バインド状況では、どちらの行動をとろうとも親の要請の一方を満足させることができないのですから、子どもは親の期待から逃れられない罪責感を形成せざるをえません。
親が欺瞞的に表のルールだけを教え、裏のルールの適用を妨害すると、子どもは過度の罪悪感に悩まされたり、友達関係のなかで浮いてしまう存在になります。
たとえば「嘘をついてはいけない」というルールが教え込まれます。
ところが、この社会では、真実を言うことは自分をかえって苦境に陥らせる場合が少なくありません。
あるいは、真実を言う事は他の人を傷つけることもあります。
このために、人はしばしば真実を語らず、逆に反対の事を言ったりしてその場をやり過ごしているのです。
「嘘も方便」という裏のルールを適当に取り入れてやっているのです。
「正義」という価値についていえば、じっさいに正義を実行できる親はそれほど多くはありません。
たとえば、会社にこれまで多大な貢献をした中高年の社員を会社がリストラしようとするとき、会社の不正義に憤りながらも、実際にこの人を守ろうと立ち上がる人はまずいません。
ところが、こうした大人が、「正しいと思ったら自分が損になることでもするべきだ」と子どもに要求するのです。
西欧では牧師の子どもが、こうした柔軟性のない価値観を持つように育てられがちであると言われています。
そして、こうした育て方がテロリストを生み出している、と分析する人もいます(A・ミラー著 山下公子訳『魂の殺人』新曜社 一九八三)。
日本では教師の子どもに多いように思われます。
いずれも建て前で子どもを養育しようとする傾向が強いからです。
また、柔軟性のない価値観は、その時の気分でひどく厳しかったり、甘くなったりする、気分屋の親によって期待が形成されることもあります。
こうした親のもとでは、いつ厳しい期待を要求されるか分からず、絶えず不安にさらされるので、安全のために厳しい期待にしたがっておく必要があるからです。
裏のルールを適当に使えるような「ルーズさ」が育たないと、自分の罪や失敗を過度に意識せざるをえず、親の期待に罪責感や欺瞞感に苦しめられることになるのです。