米国のA・エリスという人が提唱した、論理療法という心理学的治療法があります。

論理療法では、出来事そのものがストレスや絶望などを生み出すのではなく、出来事に対する非合理的な思い込み、「べき」思考(信念体系)が引き起こすと考えます。

したがって、その治療法は、非合理的な思い込み、「べき」思考を合理的な思考に変えることが中心になります。

思い込み、「べき」思考により、引き起こされる感情や行動までも変えていこうとするのです。

論理療法では、ABCDEという五つの要素をとりあげます。

A.出来事(Activating event)=事実をあげる

B.信念体系(Belief system)=それについて暗黙のうちに持っている信念を明らかにする。

C.結果(Consequence)=それによって引き起こされた気持ちや行動を明らかにする。

D.反論(Dispute)=非合理的な信念の誤りを明らかにして、正しい信念に置き換える。

E.効果(Effect)=感情や行動が変わる

ここでは、このうちABCについて例をあげて説明します。

A(出来事)「今月中にと頼んでおいたのに、やっておいてくれなかった」

B(信念体系)「あんなにしっかりと頼んだのだから、忘れるなんてありえない。私を困らせるためにわざとしなかったのだ」

C(結果)「いじわるされて悔しい」

さて、この場合の、「忘れることはあり得ない」、だから「困らせるためにわざとしなかったのだ」という思い込み、「べき」思考の信念は正しいでしょうか。

まず、「忘れることはありえない」というのは思い込み、「べき」思考の独断です。

どんな人間でも忘れることはありえます。

百歩ゆずって「忘れることはありえない」としても、だから「困らせるために」という思い込み、「べき」思考のような推測はどうでしょうか。

別な可能性はいくらでもあります。

気になりながらも、忙しさに紛れてできなかったかもしれません。

相手の人が人生上の大きな問題を抱えて、仕事が手につかなかったかもしれません。

頼まれた仕事が気が重くて、つい延び延びになってしまっただけかもしれません。

こうした可能性を無視して「困らせるためにわざとした」というのは思い込みにすぎないのです。

その誤った思い込みが「くやしい」という感情を生んでいるのです。

さらに言えば「わざとやられたから悔しい」と思い込みから自分の心を負の感情で満たすことも、必然的な結びつきではないのです。

思い込みではなく「わざとやられた」のであれば、相手を「心の狭い人」と一笑にふす選択肢もあります。

「かわいそうな人だ。これでは他の人から信頼されないだろうな」と、その人のことを心配してやる選択肢もあります。

ですから、「くやしい」と心乱されることは、その出来事を思い込み、不当に解釈し、そのうえ不当に感情を乱されてしまっている状態なのです。

このように、出来事そのものが必然的に結果を引き起こしているのではないのです。

非合理的な無意識の信念(思い込み)が、マイナスの感情という結果を引き起こすのです。

もう一つ、もっと分かりやすい例をあげておきましょう。

先日、電車内のつり広告を見て話していた女子高校生を、青年がなぐるという事件がありました。

A.(出来事)「女子高生が自分の方を見て、目つきが悪いと言って笑った」
B.(信念体系)「きっと、自分の目つきを悪いと言ったのだ」
C.(結果)「怒りの感情と、なぐるという行動」

ここでは、「目つきが悪いと言った」という出来事そのものではなく、「自分のことを言ったに違いない」という非合理的な思い込みが、「怒りの感情となぐるという行動」を生みだしていることを、説明するまでもないでしょう。

次に、相手が自分勝手な人なのでストレスを感じている、という場合を考えてみましょう。

この場合、あなたが「相手も自分と同じ価値観を持ち、行動すべきだ」と思い込んでいるからストレスなのです。

別な人なのだから、別な価値観で別な行動をして当たり前、そう発想を転換すれば、「自分勝手」という「べき」思考の受け取り方が間違いであることが分かります。

いじわるをされるとか、仲間外れにされるなどの場合も、思い込みがストレスを大きくしている場合が多いのです。

いじめられていると訴える人は、「みんなが私を無視する」とか「みんなでいじわるする」などと言います。

「誰がそうしたのですか?」と丁寧に聞いていくと、思い込みがあり、多くの場合、せいぜい二、三名です。

多くても数名です。

決して「みんな」ではありません。

「そんな二、三名の人を相手にしないで、その他の大勢の人を相手にしなさい」と助言します。

「みんなが仲間外れにする」とか「みんながいじめる」というように不当に一般化してしまい、それでも「みんなに好かれたい」と思い込んでいるから苦痛なのです。

そんな人との付き合いはさっさとやめて、心暖かい人たちだけと付き合えばよいのです。

また、「仲間外れにされた」というので、「じっさいにどのような行動があったのか」と問うと、「最近何となくよそよそしい」とか「それまで楽しそうに話していたのに、自分が行ったとたんに話をやめた」とか、「自分の方を見て、ひそひそなにか話していた」などというものです。

本人が事実として確認していない場合が多いのです。

そして、事実を明らかにしていくと、思い込みであることも少なくないのです。

「思い込みかもしれないから、あなたのほうから『ここが気になっているんだけど』と、勇気を持って話しかけてごらん」と指示します。

すると、「あら、別にそんなこと気にしていないわよ。あなたのほうで話しかけなかったから、こちらも話しかけなかっただけよ」という回答が返ってきて、もとどおりの友達におさまった、思い込みだったことも少なからずあります。

自分のほうでなにか弱みを持っているのが気になって、「相手が私を嫌っている」と思い込み、疑心暗鬼になっているのです。

これは心理学でいう投射という心理機制です。

たとえ相手が自分勝手でも、仲間はずれにされても、いじわるされても、それで傷を負ったり、出血したり、死亡するわけではありません。

万が一いじめなどで傷を負ったら、警察に届け出て、事件としてきちんと処理すればよいことです。

仲間外れなどを苦痛に感じるのは、やはりあなたの「べき」思考など、心によるのです。

好きになってほしい、嫌われたくないなどというあなたの承認欲求やプライド、「べき」思考が、苦痛をもたらしているのです。

実際に楽しく生きるためには、好かれるべきなどの思考、全ての人に好かれる必要などないのです。

みんなにプライドを示しておく必要などないのです。

私達は、無意識のうちに非合理的な思い込みや「べき」思考に陥り、そのために不快な感情を持ってしまいがちです。

とりわけ陥りやすいのは、否定的な思い込み、「べき」という思い込み、一般化の思い込みなどです。

否定的な思い込み

・第一志望の学校に入れなかったから、もうだめだ。
・スタイルが悪いから、もてない。
・頭が悪いから、いい会社に入れない。
・創造力がないから建築士になるのは無理だ。
・本当は音楽で食っていきたいが、自分には無理だ。

ここでは、「第一志望の学校に入れなかったから、もうだめだ」という信念について考えてみましょう。

第一志望の学校に入れなかった人で、成功した人はいくらでもいます。

たとえば世界的な版画家であり、芥川賞作家、映画プロデューサー兼監督と多彩な能力を発揮した池田満寿夫氏は、芸大を三回受けて三回落ちています。

亡くなった大女優の杉村春子さんも声楽家を志し、上野の音楽学校を二回受けて入れませんでした。

『子どもの四季』などの作品で知られ、日本芸術院会員にも選ばれた童話作家の坪田譲治氏は、中学入試に二回、高校入試に一回、大学の進級試験に三回、計六回落ちています。

高校入学とか、大学入学などという小さい成功が、より大きな成功や幸せに自動的につながるものではないのです。

べきだという思い込み

・いつでも誰にでも優しくするべきだ。
・どんな人にも誠実であるべきだ。
・いったん決めたことは最後までやり遂げるべきだ。
・なにかしてもらったら、感謝すべきだ。
・なにごとにもまじめに取り組むべきだ。

こうした「べき」思考は、自分をがんじがらめに縛ってしまうことで、不要なストレスをもたらします。

「べきだ」という思い込みは、他の人に自分の価値観を押し付けることでもあります。

他の人も自分と同じように感じるべきだ、同じように行動すべきだ、と思い込みをしてしまうのです。

このため、「べき」思考で自分が我慢していることを他の人が自由に行っているのを見ると、不当だと憤ったり、嫉妬したりしてしまうのです。

他の人に「〇〇するべきだ」という期待を持つのは、他の人をコントロールしようとするすることです。

他の人の心と行動をあなたがコントロールすることはできません。

「べき」という期待を他人に対して持つと、結局、思い通りの事態にならないので、ストレスにいたるのです。

「べき」思考によって、感情を乱されるのは、あなたの勝手な独り相撲なのです。

「べき」思考によって、あなたこそ他の人に心をコントロールされてしまっているのです。

コントロールできるのは、自分の心と行動だけです。

自分とは正反対の感じ方をし、正反対の欲求を持ち、正反対の考え方をする人がいるという事実を受け入れることです。

「べき」思考を脱却して、その人をそのままの姿で受け入れることです。

一般化の思い込み

過度の自己意識を持つ人が、「普通の人は〇〇〇なのに、私は×××」という表現をよく口にします。

これも過度の一般化による思い込みです。

「普通の人」など、どこにもいないのです。

それぞれ異なった個性を持つAさん、Bさん、Cさんがいるだけなのです。

また人間関係が負担な人は、よく「みんなが」とか「他の人は」という言い方をします。

この非合理的な思い込みによって、解決の道が閉ざされ、混乱させられてしまっているのです。

一般化の思い込みに陥らないためには、「誰」が「なに」をしたかという具体的な事実を見ることです。