幼児的願望

幼児的願望とは

幼児的願望とは、子どもでも大人でも持っている甘えたいという愛着のあらわれである。

わがまま、頑固、恩着せがましさ、ナルシシズム、依存性、いつでも褒められたい、注目されたい、求められたい。

幼児的願望が満たされないと、結果としていくつかのことが生まれる。

1つは憎しみの感情に支配される。

大人になれば、周囲の人はその人の幼児的願望を満たさない。

だから、その人は周囲の人を憎む。

してほしいことをしてくれないのだから恨むのは当たり前である。

そのおとなが「してほしい」ということは、幼児がしてほしいと思うようなことなのである。

もう一つは、自分と他人との関係が理解できなくて、幸せな人間関係を形成できない。

幼児的願望を満たされない人は、それに一生を支配されて、長い人生でいつか挫折する可能性が高い。

まず何よりも近い人間関係が上手くいかない。

まず幼児的願望を満たされていないものは、しつこいので嫌われる。

しつこいのは、愛されたいという強い願望と同時に、自分が愛されているかどうか不安だからである。
不安だから常に自分があいされていることを確かめようとする。それが「しつこさ」である。

幼児的願望を持っている人は、いつも不満である。

そして、その不満をいつも我慢しているから、どうしても重苦しい人間関係にならざるをえない。

いつも不満な顔をしていたり、じっと我慢しているようなかおをしていれば、周囲の人はやりきれない。

そこで、たいていの人は逃げだす。

長期間、母親との別離を体験した子供は、それ以後、ちょっとでも置き去りにされることをも拒む、と幼児研究家のボールビーは言う。

しかし、このようなことは大人になるとできない。

いつも自分に注目してほしいという気持ちを、幼児のようにあからさまに表現できない。

だから、注目されないときには我慢するから不機嫌になる。

そして、あからさまに避難できないが、心の底では愛着している人物を激しく非難するようになる。

幼児的願望を持っている人は、自分が一番必要としている人に憎しみを持つ。

愛する人から望むだけ愛されないから、愛する人に敵意を持つ。

そうして、愛憎併存感情に苦しめられる。

こうして、幼児的願望が満たされない人は、公的な社会生活にも、私的な生活にも挫折する。

恋愛にも結婚にも挫折する。

前向きな態度とか、依存する気持ちを直そうとか、事態を改善しようとかということがない。

自分を直す気がない。

幼児的願望の心理

「私は本当は良い子なの。でも学校で大人がいっっぱいイヤなことをランドセルにつめこんでいるの」と言った子供がいる。

頑張っていやなことをいっぱいして無気力になった子供を、大人は「親の気持ちをわかってない」と思う。

しかし、子供は「良いこと」と「悪いこと」をわかっている。

イヤな子は、イヤな子になる理由がある。そこで、「あなたはこういう気持ちなのよね」と気持ちを汲み取ってあげると子供は素直になる。

こうして、話を聞いてくれる人が子供の幼児的願望を満たして、子供を大人にしていく。

対人恐怖症、社交不安障害やうつ病になるような人は、成長する時、側にそういう人がいなかった。

幼児的願望を満たしていない大人は、毎日毎日、心にも体にも鞭打って生活しなければならない。毎日が不満である。

幼児的願望が満たされていないのだから、不満なのはあたりまえである。

「何が不満か?」と聞かれればはっきりとは答えられない。でも、やりきれないほど不満である。

物価が高いという不満ではない。

国の政策に不満というのではない。

恋人から捨てられたという不満でもない。

何か具体的な「これ」という不満ではない。

でも、不満で不満でどうしようもない。

それは、基本的な土台のところでの不満なのである。

だから、特定の誰かに不満をぶつけようがない。

誰にも彼にも不満だという方が正しい。

特定の誰かに不満をぶつけることもあるが、それは八つ当たりである。

幼児的願望を満たされていない大人は、この不満をじっと我慢しなければならない。

だから朝起きてから夜寝るまで不満である。

その不満を我慢するということは、朝起きてから、夜寝るまで我慢するということである。

だからもし爆発しなければ最後には、対人恐怖症、社交不安障害や憂鬱になるしかない。

経済的に恵まれていても、不満な顔をして対人恐怖症、社交不安障害や憂鬱になっているしかなくなる。

この不満な顔は、周囲の人にはなかなか理解できない。

なんでそんなに不満な顔をしているのかがわからない。

不満な顔をしている本人も、なぜか、を周囲の人に説明できない。

夕食のおかずが少ないという不満なら、不満の理由を説明できる。

しかし、何もかも不満となれば、説明は難しい。

しかも、客観的には恵まれている。

幼児的願望が満たされないのに大人として毎日社会生活をするということは、常に本当の自分を隠して生きているということである。

それは大変辛いことである。

ヘビが竹筒に入って長くなっているような生き方をしているということである。

だから、辛いのはあたりまえだけれども、周囲の人はその人がヘビとは思っていない。

だから苦しいということが理解できない。

社会から期待されている役割と、その人の心理的能力とが違うときに、人は苦しむ。

幼児的願望と心理的に健康な人

努力したら「よくやったねー」と言われたい。

周囲の人にはいつも自分の話をしてもらいたい、だから人の話題はつまらない。

いつも自分一人が得をしていたい、でも利己主義とは言われたくない。損するのはいや、でも寛大な人と言われたい。

辛い自分の気持ちを汲んでもらいたい。

いつでも「あなたは正しい」と言ってもらいたい。

無責任でいたい、でも尊敬されたい・・・。

幼い子がある人を好きになったとする。

するとその人が、自分のそばにいてもらいたいときに側にいなければ、その人に不満を感じる。

しかし、その人に側にいてほしくないときには、その人が側にいると不満になる。

幼児的願望とは、とにかく自己中心的なのである。

さらに重要なことは、幼児は「してもらうことがあたりまえ」と思っている。自分のしてほしい何かをしてもらえることが当たり前だと思っている。

幼児的願望とは、無条件に「愛してー」という叫びでもある。

相手に何かを与えるのではなく、与えてほしいという叫びである。

心理的に健康な大人は、他人に背中をかいてもらった、肩をたたいてもらった、マッサージしてもらったなど、何かをしてもらったら「ありがとう」と言う。

普通はいろいろなことをしてもらえば、相手に感謝する。

相手の気持ちを汲み取る人なら「あー、気持ちよくなった、ありがとう。」と付け加える。

しかし、幼児はそれをしない。

してもらっても「気持ちいい」と思うが、教えなければ「ありがとう」は言わない。

それは、してもらえることが自然だからであろう。

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幼児的願望と心理的に破綻する人

子育ての原点は、「子供を育てる」というよりも「子供をかわいいと思う」ことである。

子供は可愛いと思われるから心理的に成長できる。

それなのに、対人恐怖症、社交不安障害やうつ病になるような人は、誰からも「かわいい」と思われないで育った。

周囲の人は、その人を将棋の駒を動かすように働かせた。

それは、家でも会社でも同じである。周囲の人は、その人を自由に動かせる心地よさを味わっていたのである。

対人恐怖症、社交不安障害やうつ病になるような人は、そうした人間関係のなかで心理的に成長することができなかった。

幼児的願望が心の底に残った。

幼児的願望は、幼児期に満たそうとする限り、社会的に問題を起こさない。

幼児が幼児的願望を満たそうとわがままを言うのは当たり前だ、と周囲の人が思っているからである。

しかし、大人になってそれを満たそうとすると、社会的に破綻することが多い。

幼児的願望を持っている人の特徴は、その場で自分を満足させようとすることである。

幼児は待てない。

したがって、幼児的願望が満たされていない「5歳児の大人」は、時間をかけて何かを達成することができない。

したがって、幼児的願望をもった人が、もし遊びたい気持ちを抑えて頑張って努力しても、その努力の成果を今見たい。

そのどりょくが先々の人生で表れてくるというのではダメである。

将来その努力が表れてくると思って、待つことはできない。

だから、もし努力したとすれば「今すぐ賞賛がほしい」となる。

しかし、その場の賞賛は得ても、長い人生の軌道を狂わせてしまう。

幼児的願望を持っている人は、努力したとしても、その場その場の満足を求めてしまう。

先のことを考えられない。

だから、たいていの場合、最後の結果は悲惨である。

世の中には、その場で賞賛を得られても、その行為をすることが将来にマイナスになるということがたくさんある。

その場で賞賛を得られても、周囲の人々の恨みをかって将来は大変なことになるということがある。

でも幼児的願望を満たそうとする人は、それを我慢できない。

その場でその賞賛を得る方を選んでしまう。

たとえば他人の力によってできたことを、自分の力のように人々に宣伝する。

周囲の人から賞賛を得る。その結果、仲間内から「あいつは信用できない」となってしまう。

したがって、幼児的願望を満たしていない大人は、長い期間をとってみると、努力する割には報われないのである。

欲張りな人、今を癒してくれる人を好きになる。

自分の命を守ってくれる人を求めない。自分の命の尊さを知らない。

幼児的願望が満たされていない人は、自分に無理をして努力をしても、地に足の着いた生き方ができない。

人間社会では、最後には地に足の着いた生き方が人に幸せをもたらすのだが、幼児的願望の満たされていない人は、それができない。

一攫千金を夢見る山師などが破たんするのは仕方ないが、遊びたい気持ちを抑えて真面目に働いた人も、「時を待つ」ことができなければ、最後には社会的に破綻する。

社会的に破綻するとは、対人恐怖症、社交不安障害になるとか、アルコール依存症になるとか、犯罪に手を染めるとか、無気力になるとか、うつ病になるとか、家族を養えなくなるとか、自分に相応しい仕事ができなくなるとか、仲間と折り合いが上手くいかなくなるとか、子育てに失敗するとか、社会の中で生きていく能力を失い、生活が破たんすることなどである。

幼児的願望が満たされていない人と子育て

多くの場合、幼児的願望を満たしてくれるのは母親だけである。

その母親が大人だったら、与える喜びを知っているから、幼児的願望は満たされる。

しかし幼児的願望を満たしていない母親は、子どもに自分の気持ちをぶつける。

子どもは母親に気に入れられようとして、自分の気持ちを押し殺して「良い子」になろうと努力する。

だから、「良い子」は幼児的願望が満たされないまま大人になる。

大人になって幼児的願望をあからさまに出したら、恋人は逃げていく。

これがマザコン青年の失恋である。

愛された人だけが人を愛することができる。愛される中で愛する能力が培われる。

しかし、愛されなくても社会的には大人になっていく。

そして、人から何かをもらいたいときにでも、自分が与えなければならない立場になっていく。

したがって、幼児的願望を持って社会的に大人になれば、日々生きるのが辛くなるのは当たり前なのである。

日常生活が辛くて、「じっと我慢」することになるのは当たり前なのである。

人間関係で不満になるのは当たり前である。あの人にも不満、この人にも不満になる。

「こうしてほしい」「ああしてほしい」という気持ちが強い時に、逆に「あれも、これも」と色々なことを相手にしてあげなければならない。

自分の苦しい気持ちをわかってほしい時に、逆に相手の苦しい気持ちを理解してあげなければならない。

自分が泣きたいときに、相手を慰めてあげなければならない。

「オレのこの気持ちをわかってくれー」と叫びたいときに、相手の気持ちを理解してあげなければならない。

これで対人恐怖症、社交不安障害やうつ病にならなければ、ならないほうがおかしい。

この辛い気持ちを誰かがわかってくれれば、あなたは対人恐怖症、社交不安障害やうつ病にもならなくてすんだのである。

先のユカちゃんの母親である。

辛い気持ちを汲み取ってあげる

母親は、「この子は家では、てこでも動かない」と不満を言う。

さらに母親は、「もう私が泣きたい」と悲鳴を上げた。

この母親は、実は幼児的願望がみたされていないままに母親になってしまったのである。

だから子育てがうまくできない。

子どもが言うことを聞かないときに子供を殺したくなるという。

これが、幼児的願望をみたされないままに大人になってしまった者の心理である。

幼児的願望を満たされないままに母親になった者は、がんばっているにもかかわらず、子育てを上手にできない。

そこで「もう泣きたい」と悲鳴をあげるくらい辛い日々になる。