2パターンの外化

”不満な人ほど相手を悪く解釈する”

不満の外化には、積極的な表現と受け身の表現の二通りある。

自分が自分に不満なのであるが、それを直接感じられない。

相手のすることなすこと全てに不満な人がいる。

そういう人は、実は自分が自分に不満なのである。

自分に不満な夫は、奥さんに不満である。

自分に不満な奥さんは、夫に不満である。

自分に不満な先生は、生徒に不満である。

自分に不満な生徒は、先生に不満である。

これが積極的な表現としての外化である。

この関係の中でお互いに助け合うことはない。

協力することはない。

アドラーの言う社会的感情は欠如している。

不満の外化が受け身として表現されると、「相手」が自分に不満であると思って相手に怯え、相手に迎合する。

夫は妻に迎合し、先生は生徒に迎合する。

自分が自分に不満であるというのは、自分が自分を受け容れていないということである。

自分が焦っている。

そのときに「そんなに焦らすな!」と周囲の人に怒ることがある。

自分が偉くなりたい。

その時に両親に向かって「そんなにオレに偉くなってくれと期待するな!」とか「どこまでオレが偉くなれば気が済むんだ!」と怒る。

自分が独立して仕事をするのが怖い。

大企業に就職したい。

そんなときに「親が」大企業に就職しろと言っていると言う。

自分の中の「大企業に就職したい」という気持ちを親に外化してしまう。

親がそれを望んでいると言ってしまう。

周囲が敵意に満ちていると思うのと、そうではないと感じるのでは、日々の生活は天と地ほどの違いがある。

「自分は疑われている」と思っている時には毎日が不安な緊張である。

それに対して周囲の人は自分を疑っていないと思えれば、毎日をリラックスして幸せに生きて行かれる。

毎日が楽しい。

神経症者の敵意などはもともと自分の態度から生まれて来たものである。

「敵意は傷ついた神経症的自尊心と復讐的勝利によってもたらされる」という。

「敵意は名声追求の産物である」
「敵意は自分を他人の上に置こうとするところから生まれる。」
色々と言われる。

著者は「敵意は劣等感から生じる」と思っている。

劣等感とは敵意のある孤独感である。

自分の劣等感と直面することができないで、劣等感から逃げる。

その結果優越感を持ち、そこでさらに敵意は強化される。

そうして次第次第に現実の世界からは隔離されていく。

気が付いた時には一人で敵陣の中にいる。

社会的感情はひとかけらもない。

その結果、その人の人生はトラブルの山になっている。

「私は不運」と言うが、そもそも最初に劣等感の処理を間違ったことが源である。

劣等感に直面しないで優越感ににげたことがトラブルの発端である。

もともと自分の態度や心の姿勢から生じた敵意を、今度は外化して、相手に敵意があると勝手に見なし、その相手の敵意に反応する。

こうしたきげきのような一人芝居をして「苦しい、生きるのが辛い!」と訴えている人がいる。

それが神経症者である。

まさに見ている者にとっては喜劇であるが、演じている者にとっては悲劇である。
最後にもう一度言います。

現実と接することなしに人生の問題を解決することはできない。

人生が生き詰まったときには逆が正しいという言葉がある。

敵と思っている人が現実には味方。

その結果トラブルが山積みになる。

味方と思っている人が現実には敵。

その結果トラブルが山積みになる。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには恐怖と向き合い現実と接することである。