対人恐怖症、社交不安障害の克服する為には

低い自己評価からくる苦しみを逃れようと傲慢になったり、またその苦しみの為に人間関係から退いてしまったり、あるいは、妻子を相手に威張り散らしたりしている人、対人恐怖症、社交不安障害の人は、どうしたらよいのであろうか。

それは、実際の自分を受け容れて入れる人を探すことである。
では、そのように実際の自分を受け容れてくれる人とは、どんな人であろうか。
それは、自分が本当に好きになれる人である。
いままで好きだと思っていた人、今までつきあいたいと思っていた人は、実は本当に好きな人ではなかったのである。

今まで付き合いたいと思っていた人と一緒にいて、何かお互いの間に堅苦しい雰囲気がなかったであろうか、少なくともこちら側には、一緒にいる間中、不安な緊張感がつきまとっていただろう。
なんとなく高まる焦燥感からくる疲れを感じたであろう。

付き合いたいのに、一緒にいると気を張り詰めていなければならない。
一緒にいると楽しいというより、押し殺したような緊張した気分になる。

結局、今までの付き合いは、形式的、表面的でしかなかったのである。

一方でそのつきあいを喜び、他方でその付き合いを拒否する。

このようなアンビバレントなつきあいをしていたのでは、低い自己評価はいつになっても解決しない。

低い自己評価からくるさまざまな悩みは、自分が本当に好きになれる人と付き合うことで、すべて解決がついてしまうのである。

親友と酒を飲むと膀胱炎になるといった人がいる。
親友と酒を飲んでいると楽しくて話に熱中してしまい、トイレに行く時間さえついつい我慢しがちになるから、膀胱炎になるというのである。

親友との話の楽しさに引きずり込まれて、トイレに行きたいのさえ気づかない、あるいはきづいても、いいたい、聞きたいでトイレに行くのをちょっと我慢して時間をついついのばしてしまう。

お互いに、相手に自分の才気煥発ぶりをいんしょうづけようとくろうしていたら、胃を壊すことはあっても、膀胱炎になどならないであろう。

自己評価の低い人の今までの付き合いは、相手に敬意をあらわしながらも、その敬意の裏に敵意を付着させていたのではなかろうか。
だから、どんなに明るく振る舞っても、どこか冷たさをぬぐいきれなかったのである。
政治学者のラスウェルによると、尊敬に対する度を過ぎた要求を持つ人は、繰り返し酒に頼るという。

相手が自分にいろいろな点で服従することを求める、いちいち尊敬の念を表現することを求める、このような人間と酒を飲んでも楽しいわけがない。

相手がどんなに権力をもっていても、こんな人間と酒を飲めば、頭痛がしてくるだけであろう。
相手がどんなに富をもっていても、酒におぼれているような人間の相手をすべきではない。

よく「〇〇と酒を飲んだ」と得意になっている人がいる。そう言っている人も、またその相手の人も、低い自己評価に苦しんでいることがある。
「〇〇と酒を飲んだ」と得意になっている人をよく観察してみるがいい。権威に憧れながらも、その憧れの裏に権威に対する敵意を付着させている。

これで本当に楽しいはずがない。
生きるということは、楽しいことなのである。
ところが、自分の内部で、さまざまなものがぶつかりあうから楽しくないのである。
たとえば権威に対する憧れと、権威に対する敵意がぶつかり合う。
これで楽しいわけがない。

低い自己評価に苦しむ者が、同じく低い自己評価に苦しむ富者や権力者とつきあっても、なんら問題の解決にはならない。人間関係から退くのと本質的には本質的には同じことである。

本当に好きな人と一緒にいるときは、相手にあまりいろいろな要求をもたない。
このことは、自分がいま一緒にいる人を本当に好きがどうかの大切な目安になる。

本当に好きな人と一緒にいれば、一緒にいるというだけで満足し、自分は相手にこういう態度で接してもらいたいといったような要求はなくなるのである。
相手にこういう言葉遣いをしてもらいたいというような要求もなくなる。

だから逆にいえば、服従に対する要求を相手に感じたら、相手は自分を本当に好きではないということである。

本当に好き同士であれば、相互の尊敬と理解はごく自然に生まれてきて、要求という形をとらない。

対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、今いる人間関係は本当に好きな人かどうか一度分析してみることが一歩である。