自分を嫌うな

われわれ現代人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな利己主義ではない。
愛他主義の仮面をかぶった利己主義である。

われわれ現代人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな敵意ではない。
敵意を隠した親切である。

われわれ現代人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな憎悪ではない。
愛情に偽装された憎悪である。

われわれ現代人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな自己本位ではない。
他人本位の底に隠されている自己本位である。

このような心の歪みをもたらしている抑圧について述べてきた。
何かを抑圧している人間の感情は複雑である。
感情に明快さがない。

抑圧は人間の感情を両価的にする。
つまり、本当は好きだけど嫌い。
心の底では嫌いだけど好き。

五木寛之は武満徹との対談で次のように言っている。

「自分が嫌だと思っているものが自分の感情の中にあって、それに共鳴した場合、非常な自己嫌悪にかられて、流行歌を聞くと肌にアレルギーのできる人がいます。本当は好きなんだけど、好きだということがいやだということですね。(「創造の周辺」)

本当は好きなのに、それに触れると肌にアレルギーができるほどの反応をしてしまう。
流行歌を聴きたいけれど聴くのが嫌だというのが、両価性である。

ある有名人に憧れている。
憧れていながら反感を持っている。
そんな時、その有名人に接したら権力が欲しいけれど権力を軽蔑している。
権力に反発しながら権力に惹かれている。

ある新聞記者が私にこんなことをいった。「先生方はジャーナリズムを批判しますが、それでも私達が訪ねるのは嫌がりませんね」

自分が軽蔑するものに惹かれる自分。
そんな自分への嫌悪。
自己嫌悪の人は抑圧の人である。
自己嫌悪が激しければ激しいほど抑圧もまた激しいということであろう。

自分が心の底で憧れているものを、絶えず批判している人もいる。

実際の自分は、自分が考えている自分と全く逆の人間であるかもしれない。

大切なのはこの発想である。

自分は何を抑圧しているのか、自分の周囲の人間はなにを抑圧しているのか、そのことを理解することこそが悩みの解決である。
自分の抑圧を意識化することも大切であるが、同時に自分の周囲にいる人間の抑圧を見抜くことも大切である。

敵意や攻撃性を裏に付着させた、柔和な顔に痛めつけられている人のなんと多いことか。欺瞞に満ちた柔和な顔の裏にあるものを見破ることなくして、我々に明日の生はない。

無私な顔をした我執の人と関係し、その犠牲になっていった人のなんと多いことか。

政治の世界においては、民主主義の名のもとに独裁政治がおこなわれることがある。

自由の名のもとに弾圧が行われることがある。

政治思想家たちは、その社会的不正に怒り、時に革命の本を書いてきた。

私がこの本で述べたことは、そのような社会的規模の不正ではなく、個人的レベルの不正である。
ただ「どうしても許せない」という不正に対する怒りは、革命の本を書いた政治思想家の怒りと同じつもりである。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには実際の自分は、自分が考えている自分と全く逆の人間であるかもしれない、という発想を意識することである。