従順な”よい子”とすぐに”かたくなる”人

失望されるのが怖いとは

失望されるのが怖い人は、その恐怖から心がすぐかたくなってしまう。

もちろん、誰もが失望されるのは嫌である。

しかし、失望を「見方が変わった」に変更すると怖さはなくなる。

失望されるのが怖くてたまらない人は、健全な自己肯定感が育まれていない。

そういった人は、小さい頃、親に失望され見離される怖さを体験している可能性が高い。

逆に、自己肯定感が高い人は自分はこれでいいんだという確固たる自信を持っているため、失望を感じず、見方が変わったと感じるようになる。

失望されるのが怖い心理

”心のむなしさを何で満たすか”

入社試験であれ、重要な仕事であれ、何かを前にして不安な緊張にかられることがある。

多かれ少なかれ、そういう時は、誰だって失敗するのではないかという恐れを持ち、不安な緊張にかられる。
しかし、その度合いの酷い失望されるのが怖い人と、いざというときに集中できる人とがいる。

この両者の違いは決定的だが、どうしてこの差が出てきてしまうのだろうか。

それは幼い日、周囲が我々に失望したかどうかということから出てくる。

そして、これこそが、この問題を考える出発点なのである。

幼い日、われわれは周囲の人の自分に対する反応によって、自分自身を判断した。
周囲の反応、ことに親の反応は、自分を映す鏡であり、その鏡に映る自分を自分と考える。

失望されるのが怖いか否かは親子関係がキー

幼い日、お腹の調子が悪く、ご飯を残そうとした。

そして、ご飯は残さず食べなさいと親に失望された。

そして、大人になり、ご飯を残さず食べなければと、会食で緊張し、まったく食事が喉を通らなくなった。

幼少の頃、親に失望された人は、自分自身に失望する。

親の期待を実現しそこなって、親に失望された子供は、成長してからも、他人の期待を実現しそこなうと、他人に失望されることの恐怖に、不安な緊張を覚えるのである。

すぐ”かたくなる”人というのは、自分の小さい頃を振り返ってみれば、それを理解できるのではなかろうか。

幼児期に自分の行為ひとつで、他人があからさまに称賛したり失望したりした原体験を持った人がいる。
そのような人は、成長してからも、自分の行為によって自分に対する他人の愛が変化したり失望されると感じてしまう。

部屋を片付けたことで親から誉められ、部屋を片付けずにいたことで親から叱られる。
ここまではどこでも同じである。問題は、部屋を片付けないで叱られた時、叱られたにもかかわらず、それでも子どもが、自分は親に愛されていると感じられたかどうかなのである。

成績が悪ければ親に叱られる。
問題は、成績が悪くて親に「もっと勉強しろ」といわれても、それでも自分は愛されていると感じていたか、そうでなかったかということなのである。
この感じ方の違いが失望されるのが怖い人とそうでない人にとって決定的なのである。

親に落胆され、ためいきなどつかれて、ありありと失望の色をあらわされた子供はは、きっと感じるだろう、自分が愛される条件は、へやをきちんとかたづけることである、いい成績をとることであると。

子どもの頃は誰でも親に叱られる。
問題は、子供が叱られても親に愛されていると確信できていたかどうかということである。

すぐに不安な緊張を覚えて固くなる失望されるのが怖い人、他人の反応に歪んだ敏感さを持つ人、これらの人々は、小さい頃叱られた時、自分は愛されていないのだと感じた人である。

子どもの頃親の言いつけを守り、従順な”よい子”であることが、親の愛を獲得する条件だと感じていた人が、すぐに”かたくなる”のである。

周囲に受け入れられている人が失敗することと、受け入れられていない人が失敗することとは、まったく意味が異なろう。
受け入れられていない人は、失敗するかもしれないと思えば失望されるのが怖いストレスを感じるであろうし、失敗すれば失望に苦しむであろう。

同じ叱るという行為が、どうして子どもに違った影響を与えるのか。

それは親の情緒の成熟の問題である。
つまり、親が自立性を獲得しているか、まだ依存心が強いかということである。

別の言葉でいえば、親が自分の心の満足を他人の言動にもとめているかどうかということである。
親が自分の心の空しさを他人に満たされるのを期待しているかどうかということである。

自分が必要だと思っている者は、他人を懐柔したり脅かしたりしてでも得ようとする人がいる。

親がこのような人間であれば、子供は叱られることによって深く傷つく。

親の必要とする愛を子どもが与えなければならないとき、子どもは失望されるのが怖く自由を感じることができない。
親が自分自身に頼って生きようとしている時、子どもはありのままの自分でいることが許されると感じる。

われわれは大人になってからでも、どうもあの人といると重苦しいというときがある。
それは、押しつけがましい人、つまり、他人の言動によって自分の心の空しさを満たそうとしている人と一緒にいる時である。

子どもは、大人とは比較にならないほど敏感である。
しかも、全く無力である。

自分の生存を全面的に他に依存している人に、心理的に依存された子供の重圧感というのは想像をぜっするものがある。
子どもに心理的に依存する親の内容というものを考えると、寒気さえ感じる。

つまり、そういう親は依存心が強いから、他人の眼を気にする。
自己中心的、利己主義、自分だけが可愛い、卑怯なのである。

しかも、自分の心の空しさを子どもの言動で満たそうとして、子どもにベタベタしながら、それを子どもへの愛と錯覚している。

自分の心の空しさを満たすものを他人の言動の中に求める失望されるのが怖い人は、結局満たされることがないから、いつまでも他人に不満で、かつ心は空しい。

そして、いつまでも満足を求めて他人にまとわりつくのである。

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失望されるのが怖くなくなる方法

失望されるのが怖い人は、親の十字架を背負って生きている。

その十字架を落とすと失望されてしまうと思って生きている。

失望されるのが怖くなくなるには、その十字架を下ろす必要がある。

つまり、親の意志より自分の意志を優先とすることだ。

心理的離乳をし、自律するということだ。

具体的に言うと、緊張してご飯が食べられなくなったら、「今日は食欲がないからこれ以上食べない。」と箸を置くことである。

親ではない他人は、それで失望したりしない。

それが理解できる。

理解できるとは、他人を客観視できるということだ。

他人を客観視できるようになると、失望されるのが怖くなくなる。

そうすると他人との人間関係の距離感がつかめるようになる。

そして、自分らしく楽に生きることができるようになる。

つまり、失望されるのが怖い人がその怖さを乗り越えるには、その抱えている十字架を下ろす勇気が必要なのである。

その勇気を育むコツとしては、なるべく楽な自分を受け入れてくれる人と一緒に過ごすことである。

怖い取引先の人と会食する時は、失望されるのではないかという恐怖を抱くが、気心の知れた友達とコンビニで買った弁当を食べるのは楽である。

弁当を残そうとするなら、貰っちゃうよ、といって箸で笑いながら弁当を取られる。

こういった、楽に接することができる人を安全基地という。

つまり、怖い取引先の人との会食をする時、問題は自分だけではなく、空気を凍らせる怖い取引先の人にもあるということがわかる。

これが客観視というものなのである。

世間はそんな安全基地同士の集合体でできている。

もちろん、嫌な人と付き合わなければならないが、世間の他の人は、一緒にいて楽な人と付き合うような仕組みになっている。

嫌な人とは距離をとるのが普通である。
それが親であってもだ。

しかし、嫌な場面というのは必ず回ってくる。
そういう時は、恐怖に身を任せ、緊張、嫌だよオーラ全快で臨んでもOKなのである。