実際は逆が正しい

”現実を見つめ、「自分」を受け容れて生きる”

「後ろ向け、後ろ!」ということにはいろいろな意味がある。

たとえば、今までくだらないと思っていたことが、立派なことなのかもしれないと思ってみることである。
また逆に、立派だと思っていたことを、くだらないと思ってみることである。

そのように、逆に仮定して実際の行動を始めてみれば、意外に世界が開けてくるかもしれない。

今まで自分を愛してくれていると思っていた人は、実は自分を憎んでいる人であるのかもしれない。

その人は自分を愛してくれていたのではなく、自分をナルシシズムの対象としていただけなのかもしれない。

過保護はは擬装された憎しみであるという。
自分を守ってくれると思っていた人は、実は自分を憎んでいた人なのかもしれない。

逆に、「あの人は冷たい」と思っていた人が、実は、本当に自分を思いやってくれていた人かもしれない。
自我の未成熟な人間は、自我の成熟した人間の態度を冷たく感じるものである。

よく「どうしていいかわからない」という人に会う。
そういう人は、鉄砲を向ける方向が違っているのである。

そういう人は、今まで自分を思いやってくれる味方に銃口を向けて、自分の敵に迎合してきたのである。

自分がきわめて不当であると信じている人間が、もしかしたらきわめて正当なのかもしれない。

自分が自己中心的にしか物事を解釈できないからこそ、不当だと思うだけで、実は、その人はきわめて正当だという場合もある。

また、自分の他人解釈があまりにもワンパターンであることを反省してみる必要もある。

学者は立派で政治家は汚いなどという、ワンパターンな解釈をしてこなかったか。

学者にも立派な人もいれば汚い人もいる。政治家にも立派な人もいるし汚い人もいる。

いずれにしろ、どうしていいかわからないほど悩んでいる人は、今までの自分の他人に対する解釈の仕方を完全に変えてみることである。

今まで自分が完全だと思っていた人は、逆にあなたに完全であることを求めていた人であるかもしれない。
つまり、極めて不完全な人間かもしれないのだ。

抑圧する人間と抑圧される人間がいる時、一般に抑圧される人間の方が完全主義者となる。

抑圧される人間は我慢する。
そして、我慢はすべて美徳であると思っている。

自分の弱さが原因で我慢することは、美徳でなく悪徳である。
自分の強さが原因で我慢することは、美徳である。

愛のための忍耐と、恐れからノーと言えないための忍耐では、同じ忍耐でも美徳と悪徳の違いがある。

自分を抑圧する者を恐れて迎合している限り、不快な我慢の日は続く。
我慢につぐ我慢の連続であろう。

そして、自分を抑圧し、痛めつける人間を恐れて自分自身を裏切った人間は、そのうっぷんを、自分を愛する人に向けて晴らす。
相手が弱いからである。

強い人間は自分を脅かす人間に立ち向かい、不快な我慢をしないから、自分を愛する人間に笑顔で接することができる。

強い人間は弱い者にやさしく、強い者に対しては強い。

しかし、相手を恐れているものにはそれが見えない。
弱い立場にいる自分を抑圧する人間を、恐怖感から強いと思っていたりする。

弱さとは、自分を試す機会を回避することと他人を拒絶することであり、つよさとは、ものごとに挑戦することと他人を受容することである。

強い人は安定し、流動する。
弱い人は硬化しているくせに、だらしなくなる。

怖れている者は人間が見えなくなっているから、弱い人間を強いと思っていたりする。

恐れがある限り、正しい解釈はできない。

黒いカラスを白いと信じようとした日から、不幸は始まる。
黒いカラスを白いと教え込もうとするのはどこの誰だ。
それは、極めて身近にいる人間に違いない。
黒いカラスを白いと信じさせる方が、その人にとって安全だからである。

疑いようもなく正しいと信じ切っていることを疑ってみることから、コペルニクス的転回ははじまる。

どうしようもなく悩み、苦しんでいる者の、意識の上でのものの見方、感じ方は、恐怖によって決定されているのである。

ある人から追放される恐怖、ある人から軽蔑される恐怖。
コペルニクス的転回というのは、単にその恐怖が無かったら、現実はどう見え、どう感じられてくるかということなのである。

自分のものの見方、考え方、感じ方は恐怖によって決定されている・・・ふと、そう思うことはないだろうか。

最後に、どうしても生きることが上手くいかない人に捧げたいのは、やはり次の一文である。

Actually,the opposite is true.
(実際は逆が正しいのである)

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには実際とは逆のことをしてみることである。