自己憎悪は優しい人に向けられる

自己憎悪とは、ユニークな自分で他人と接することをせず、背伸びした自分で人と接し続けた結果、生きるのが苦しくなり、自分を嫌いになる自己嫌悪を通り越して自分を憎むようになったことである。

自己憎悪に満ちた人は、その自分に向けられた憎悪に耐えきることができず、他人へとぶつけるようになる。

それは自分より優しい人である。

人はどのような人に自己憎悪を向けるか?

それは自分とかかわりのある優しい人に対してである。

たとえば親が自己憎悪の人である。

そういうときに、子供の中から最も優しい子に憎しみを外化する。

ずるい子とか、きつい子には外化しない。

心理的に外化しやすい子に外化する。

そうなれば当然優しい子に外化するだろう。

親自身が一番甘えている子である。

一番家の仕事をしている子、一番親孝行な子、一番思いやりのある子に、親は自己憎悪を外化する。

そして当たり前のことであるが、その子に対しては、他の子と違っていろいろな要求が多くなる。

他の子には頼らないが、その優しい子にだけ頼る。

依存性は支配性である。

親は自分が依存している子を思うように支配しようとする。

そして当たり前のことであるが、子供は親の思うようにならないときが多い。

そういう時に親はその優しい子を憎む。

一番家の仕事をしている子を憎む。

期待した通りに動かなければ憎むのは当たり前のことである。

そうなると親は自分が憎んでいる子から離れられない。

親は、自己憎悪に陥った親を利用するずるい子にはいい顔をして、必死で働く優しい子を憎むことになる。

そしてその子を嫌いになるが、その嫌いな子が一番大切になる。

親が心理的に依存していない子には支配性が生じないから、憎しみも生じてこない。

「こうしろ、ああしろ」がないから、そのずるい子には自己憎悪が向けられる不満が生まれない。

そのずるい子を嫌いにはならない。

逆に、ずるい子には迎合する。

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自己憎悪の外化

ずるい子には迎合するというと、日常生活の悩みとはあまり関係ないという気がするかもしれない。

しかし決してそんなことはない。

ある母親は、長女が可愛くないと悩んでいる。

次女は可愛くて、末の娘も「可愛くて、可愛くて」と言う。

ところが長女だけは「可愛いとは思えない」と言う。

長女のすること、言うことにだけはなぜかイライラするという。

長女は「手を煩わせる、協調性がない」と母親は言う。

実はこの母親自身に協調性がない。

「この子にはがっかり、クラスで嫌われている」とも言う。

この母親自身が自己憎悪しており、人から嫌われることを恐れているのである。

聞いていくと、この母親は夫と親密な関係ができていない。

実はこの母親は長女を苛めている。

母親の心の中に夫に対して怒りや憎しみがある。

それを、長女を通して出している。

その夫への憎しみを長女に向けて外化している。

だいたい母親が娘を嫌いな時には、夫に対する憎しみがあることが多い。

そして憎しみの対象を絞る。

1人のターゲットに絞る。

長女は優しい。

だから母親は憎しみのターゲットを長女に絞る。

そこで長女にイライラしているときに、じつは「親子の役割逆転」をしている。

母親の方がこの優しい子に甘えている。この優しい子が母親の思うように動かないと母親の怒りを招く。

母親はこの優しい子に愛を求めている。

この子は優しいから、甘えの欲求が満たされていない母親に甘えられてしまう。

この家族の矛盾がこの優しい長女にしわ寄せされて自己憎悪の犠牲になっている。

一番やさしい子だから、そこに家の矛盾がしわ寄せされて、その子に家族皆がイライラしている。

そういう家族の構造に、この自己憎悪にとらわれてしまった母親は全く気が付いていない。

「長女が可愛くない」と言う母親の気持ちに隠されている真実を見つけない限り、悩みはなくならない。

小さい頃から今までの親子関係、されに今の夫との夫婦関係、それらに満足していれば、この母親の不満は長女に向かない。

母親は長女にイライラしない。

心が満足していると、雑草でも「キレイ」と思う。

この長女を通して今までの母親の心の中のものが出てくる。

まさに外化である。

今までの人間関係の不満や、今の夫との関係に不満な心が、娘を「可愛くないなー」と思うことで表現されてくる。

この女性はいろいろなところで「立派なお母さん」を演じてきている。

実はそれがきつい。

さらに「いい妻」も演じている。

こうして自己憎悪に陥ってしまった。

でも頑張っている。

本当の自分を隠しているから、心の中は恐怖感と虚しさに満ちている。

外へ行くと「とても疲れる」という。

したがって学校の付き合い、地域、血縁の付き合いなどを避けたい。

買い物に行くのに近所の人に遭わないように時間をずらす。

保護者会の懇談会などで不安な緊張で苦しむ。汗が出る。

先にこの母親が「この子には協調性がない」と嘆いていることを書いた。

実はこの母親自身に協調性がないから、外へ行くと「とても疲れる」のである。

この母親は人と協力して何かをするということができない。

協力はアドラーの言う社会的感情の中心的な概念である。

既に述べた如く、アドラーは社会的感情なしには人生の問題を解決できないと主張する。

「痩せてしまった、頭痛と吐き気が止まらない、吹き出物もすごい、だから外にもほとんど出られない」と母親は嘆く。

嘆くが、その症状に隠されている真実を見つけようとする心の姿勢はない。

自己憎悪というのは無意識に抑圧されて隠れてしまう。

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自己憎悪を生むのは親の歪んだ養育環境から

この女性の父親はギャンブル依存症で、娘であるこの優しい女性に当たっていた。

この女性は父親からされたことを長女にしている。

この女性の父親は母親に暴力をふるっていた。

この女性は小さい頃から頑張って生きてきた。でも何かすべてが上手くいかない。

それは成長の過程で自己憎悪になり、その心理状態が夫との関係の障害になり、さらにその上に今までの不満が積み重なっているから、すべてが上手くいかないのである。

それを長女に外化している。

この女性の自己憎悪が激しければ激しいほど、長女への甘えは激しくなり、しつこく長女に絡み、優しい長女への憎しみも激しくなる。

「親子の役割逆転」をしている母親は優しい子供に甘えられるから、「もっと、もっと」子供に求める。

もっと甘えようとする。

母親は際限もなく優しい子に甘えてくる。

それにこたえようとすれば、子供はスーパーマンにならなければならないから子供もやがて自己憎悪になる。

この女性が自分に対する憎しみを意識できれば、マイナスの感情は消える方向に向かう。

親が自分の自己憎悪の激しさに気が付かないで外化が行われ、その結果、子供が深刻なノイローゼになることは珍しいことではない。

そしてこのような場合には夫婦関係も上手くいっていない。

その人の小さい頃からの自己憎悪が、夫婦関係も壊しているからである。

外化が行われるということは、他の人間関係も上手くいっていないということである。

この女性は、もし社会的あるいは経済的にピンチに陥れば、誰にしがみつくか?
長女にしがみつく。

他の家族も同様である。

ピンチに陥ればこの優しい長女にしがみついて骨までしゃぶる。

この構造を理解できない限り、この女性のマイナスの感情は消えないだろう。

自己憎悪が外化されると自分の心の中の破壊的態度や意図は全て他人から発せられている者として経験される

つまり他人は、この私を憎んでいると経験される。

「そうなると他人に対して復讐的な態度をとるのは当たり前である」

それは他人の敵意から自分を守らなければならないからである。

先に書いた「この子にはがっかり、クラスで嫌われている」等、母親の言うことは自分自身の説明である。

長女は「手を煩わせる、協調性がない」と母親は言うが、聞いてみると具体性がない。

この母親は優しい長女に復讐的になっているのである。

何よりもこの憎悪に満ちた母親自身に協調性がない。

自分の協調性のなさを抑圧して、長女に投影している。

そして長女を「協調性がない」と非難する。

先にも述べた如くアドラーは、社会的感情がなければ人生の問題は解決できないという。
社会的感情の中心的な概念が協調性である。

自己憎悪の克服

自己憎悪の克服方法は、ズバリ自律することである。

自律できていない人はたとえ大人であっても心理的離乳が出来ていない。

すでに親のいない人でも子どもやパートナーに依存してしまっている。

自律するには、家族、職場、近所付き合い、学校など、他人と接する場面で一人暮らしをしているようなイメージをしてみてほしい。

心の一人暮らしである。

そのポイントとしては、他人との心の距離を離すということだ。

自己憎悪を抱く人は神経症的に他人との距離感が近い。

他人との距離を離すには、他人との距離が近くなってきたら、自己主張することだ。

自己主張するということは他人とぶつかる瞬間があるかもしれない。

それは、羞恥心であり、ビクビクしながらであり、恐怖でもあり、不安でもある。

その自己憎悪に陥った人が抑圧しているものを主張することだ。

すると、生きるのが楽になり、自分らしさというものが型にはまってくる。

地に足を着けて立っているというイメージだ。

それこそが自律するということなのだ。