お人好しは損をする!そこから抜け出す心理

お人好しは損をする!そこから抜け出す初めの一歩

お人好しとは人に気に入られる為にいい自分を演じてしまうことである。

例えば、郵便屋さんで、列をなして順番待ちをしている中、後から来た人に、「すぐ終わる手続きだから先にやらせてね」と言って割り込まれたらあなたはどうするか。

そういうお人好しの人は実は人生で損をしていることが多い。

ここでは人間関係に焦点を当てお人好しを克服する心理を記してみたい。

自己主張しないお人好しで損する人は、いつまでも自信のない人間でありつづけ、不機嫌からも解放されないであろう

他人に見捨てられる恐怖から、お人好しで損をする人は、他人の期待に無理にこたえることによって、いよいよ自己を空無化する。

いよいよ空無化するから、お人好しで損をする人はいよいよ見捨てられることが恐くなる。

社会的に成功し、何百万もの人間の評価を得ながら自殺する人がいるのは、このためである。

生き方の方向を変えない限り、こういうお人好しで損をする人は自信をもつことができない。

社会的に失敗することによってノイローゼになるお人好しで損をする人も同じである。

自信をもてるかもてないかは、社会的成功、失敗とは関係ない。

他人に好かれようと行動するより、自分を尊敬できるように自ら行動せよ。

他人に好かれることをお人好しで損をする人は人生の目標にすると、ノイローゼになる。

他人が自分をどう思っているかで、自分を評価しようとしたりしていると、いつまでも自信はもてない

他人に好かれようとして、とりつくろう。

そうして”とりつくろう”ことにエネルギーを使いすぎて、肝心のお人好しで損をする自分を豊かにすることができない。

体面を維持することにお人好しで損をする人は疲れ果てて、友人と何かに共感することができない。

他人への思いやりで疲れるのではなく、お人好しで損をする自分の体面の維持で汲々としてしまう。

他人にバカにお人好しで損をする人はされたくない、嫌われたくない、と汲々として疲れ果てる。

そして好かれようとすることをお人好しで損をする人は目標にしたことによって、他人とコミュニケーションをもてなくなる。

他人から自分が行きたくないところに誘われたりした時、断ったら嫌われるだろうと恐れて、いやいや一緒に行くお人好しで損をする人がいる。

自分を誘ってくれた人に嫌われたくないために、自ら自分を嫌いになることを許してしまっているのである

自分のわがままをとおしてもお人好しで損をする人は自分で自分を尊敬できなくなるし、嫌われることを恐れて他人のわがままをとおしても自分で自分を尊敬できなくなる。

大切なことは、他人とのコミュニケーションができるようになることである。

他人に嫌われることを恐れているお人好しで損をする人が、一つ勘違いしていることがある。

他人と会うことをかさねるだけで親しさを増すことができると思っている。

他人に好かれることを目標にしているお人好しで損をする人は、よく人と会う。

しかし単に会うということをかさねるだけでは、親しくはならない。

私たちはある感情を共有することで親しくなるのである

”友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う”という歌があるが、ともに悲しみ、ともに喜んでこそ親しさは増す。

他人に好かれることを目標にしてしまっているお人好しで損をする人は、自分以外の人ならだれにでもよい顔をする。

したがって、お人好しで損をする人はさまざまな性格の人と付き合っているが、本当に親しい人はできない。

人間にはいろいろな種類の人がいる

お人好しで損をする人は全ての人と深く付き合う必要などない。

そんなことをしようとしたら、ノイローゼになってしまう。

自分の姿を偽らずにいれば、その中から親しい人もできるし、一年に一度ぐらい会う人もできるし、一カ月に一度ぐらい会う人もできる。

自分を偽ってお人好しで損をする人は他人に見せていると、その付き合いの深さのさまざまなレベルができてこない。

誰とでも同じような程度の親しさになってしまう。

本当の親友から単なる知人まで、いろいろなレベルの付き合いができていることが望ましい

俗界を離れた詩人から、金儲けに狂奔している人まで、同じように”親しく”付き合っているとすれば、お人好しで損をする人は結局はどの人とも親しくはないということである。

どの人に対してもお人好しで損をする人は自分の本当の姿を偽らずに見せてはいないということであろう。

他人との付き合いで、どの人に対してもオープンになれないというお人好しで損をする人は、小さい頃から、何かこのことを隠さなければ、他人は自分と付き合ってくれないのではないかというものをもっていたのではないか。

自分の両親はいつも喧嘩ばかりしている。

また、父はアル中で母は家出を繰り返している。

小学校の頃、そんな家庭に育ち、自分の家のことを知ったら皆お人好しで損をする自分と友達になってくれないのではないかと恐れて、友達にそのことを隠しだしたとする。

そして、そのことをお人好しで損をする人は隠しだしたことによって、自分の本当の感情を他人に偽りだす。

自分の本当の感情を偽りだすことによって、他人と感情を共有することが難しくなる

人によって、それぞれプロセスは異なるとは思う。

しかしいずれにしろ、お人好しで損をする人は他人に見せる自分と実際の自分と、二つの自分をつくってしまうと、他人との深いコミュニケーションは難しくなる。

お人好しは「見せる自分」ばかりが、どんどん大きくなる

自己主張とは、実際の自分と他人に見せる自分を同じにするということにすぎない

自分が統一されて存在していることが、そのまま自己主張なのである。

自分の統合性が保たれていることが自己主張の原点である。

自分が分裂させられている時、お人好しで損をする人は一見、自己主張のように見えることでも、虚勢であったり、わがままであったり、甘えであったり、ねたみであったりする。

”どんなことをしても妥協をしてはならない”

というのは、自分の統合性をお人好しで損をする人はこわすようなことをしてはならないということである。

この点について、私たちはけっして妥協をしてはならない。

この点についてお人好しで損をする人は妥協をすれば、たちまち自信を失うし、他人とコミュニケーションができなくなる。

だからといって、自分の接する人すべてに、実際の自分のすべてを示す必要はない。

だいたい、自分が接するすべての人が自分の実際の姿に関心があるわけではない。

単なる知人程度の人に「実は自分は過去において・・・」などと必要もないのに言い出しても、相手は知りたくもないだろうし、迷惑なだけであろう。

逆に、自分の知っているすべての人にマスクをつけて接するお人好しの人は自信をもちようがない。

世の中には自分の妻に対してさえも、何十年にわたって自分の本当の姿を隠し続け、二つの自分を維持しつづけるお人好しで損をする人もいる。

こういう人は自信をもちようがないから、虚勢を張るしかない

虚勢を張ることに疲れればお人好しで損をする人は、気落ちしてグッタリとし、何をする気にもならないという状態になる。

見せる自分ばかりが大きくなって、本当の自分がいよいよ小さくなってしまったお人好しで損をする人は、城壁ばかりが強大で中には何もない城のようなものだろう。

相手に対する劣等感がお人好しで損をする人にはあるのに、あたかも劣等感などないように振舞えば、どんなに付き合っても親しくはなれない。

いや、そのように振舞えば振る舞うほど、相手とお人好しで損をする自分との間に壁をつくってしまう。

相手と親しくなりたければ、親しくなれるように行動するしかないであろう

親しくなりたいと願いながらも、いよいよ壁を厚くするように行動しているお人好しで損をする人は多い。

相手と親しくなる行動と、自分で自分を尊敬できるようになる行動とは、同じものであるということをお人好しで損をする人は忘れてはならない。

自分の統合性をこわすような言動をすれば、お人好しで損をする人は自分で自分を尊敬できなくなる。

そして結局、お人好しで損をする人は親しい人もできない。

他人との関係を円満にしようとする配慮がありながら、その裏に他人に対する攻撃心を隠している人は多い

他人への敵意を心の底にもちながら、表面上は他人への配慮をしても、お人好しで損をする人は親しくはなれない。

他人に気を遣いながらも、お人好しで損をする人は何も得るところはない。

他人に気を遣うことを、礼儀とか親切とかと合理化しても、結局は他人に嫌われることを恐れているのでは、お人好しで損をする人はいつになっても自信はもてない。

それよりもお人好しで損をする自分の中にある他人への敵意を自覚し、何らかのかたちで発散させることによって、自我の統合性を獲得することのほうが、より建設的である。

自信のないお人好しで損をする人は、小さい頃から正当な怒りを表現できないできている人である。

たとえば、家庭で親の幼児的一体感の愛に苦しめられたお人好しで損をする人である。

愛というのは立派な行為である

だからこそ、情緒的に未成熟な親は、自分の幼児的一体感を満足させるような感情を愛と錯覚して、強引なまでに子どもに自分を受け入れるように要求してくる。

「もっと、もっと」という無限の密着に、お人好しで損をする子どもは息づまる。

しかし”愛”は立派であるがゆえに、「そんなのいやだ」と子どもはなかなか言えない。

陰湿な要求過大の”愛”にからみつかれたお人好しで損をする子どもは、家への怒りを心理的に封じられてしまう。

そして、敵意をうちにやどしながら、自分もまた成長して他人への過度の配慮をはじめる。

敵意をうちにやどしながら、お人好しで損をする人は他人に好かれることを目的に生活をはじめる。

男らしくないお人好しで損をする男というのは、自分が男らしくないということを棚にあげて、他人には男らしさを過剰に要求する。

本当の愛情のない人ほど、過剰な愛を他人に要求する

他人との関係を無理に円満にしようと努力をするお人好しで損をする人は、このような過剰な愛の要求に痛めつけられ、傷つけられてきた人である。

アメリカの心理学者、デヴィッド・シーベリーは”血縁関係につけこまれるな”と言っている。

愛という名のもとに、いかに多くの幼い心が痛めつけられてきたか、

愛という名のもとにいかに多くの抑圧がなされてきたか。

今、お人好しで損をするあなたが自信をもつためには、その抑圧をはらいのけることが何よりも必要なのである。

正当な怒りとは、たとえば小さい頃、自分の世界をもつことを拒否された時に感じるような感情である。

自立への道をふさぐものへの感情、これは正当な怒りである

このような正当な怒りを表現できないで今まできたゆえに自信を失い、お人好しで損をする人は他人に嫌われるのが恐くなっているのである。

正当な怒りを、むけるべき対象にむけること、これが親しい人をつくる本質的な道である。

自分の自立への道をふさいだ者が親であるのに、その怒りを親にぶつけられず、女房にあたっているようなお人好しで損をするビジネスマンは、会社で気疲れし、夜も眠れなくなる。

会社で好かれようとお人好しで損をする人はしながらも、結局は誰も友人ができず、食欲不振にさえ悩むようになる。

身を低めて他人にお人好しで損をする人はとりいりながらも、他人とコミュニケーションできないことの真の理由を本気でさがすことが第一である。

それさえわかれば、身を低めて他人にとりいらなくても親しい人はできる。

外では身を低めてお人好しで損をする人は周囲にとりいりながらも、家に帰って妻子にあたりちらすという見当違いをやっていたら、いつになっても自信は生まれてこない。

お人好しで損をする人は「できないこと」ではなく「できること」に眼を向けてみよう

要するに”できないことをやろうとした人”なのである。

たとえどんなことでも、自分にできることをやろうとした人は自信をもっているはずである。

女性はどんなに頑張っても、素晴らしい男性にはかなわないのではないか・・・男性はどんなに頑張っても、素敵な女性にはかなわないのではないか。

そんなことをお人好しの人は思ってみてもはじまらない。

女性は女性のままで頑張ればよいのである。

女性は女性のままで努力することによって自信を得ていく。

やはり、男性にしろ女性にしろ、努力ぬきに自信を得ることはできないであろう。

努力ぬきに自信はないが、まちがった努力はいよいよお人好しで損をする人にする。

努力すればするほど自信をもってくる人と、努力すればするほどお人好しで損をすることを深刻にする人がいる。

女の人が女のままで努力した時に自信を強め、女の人が女を否定して男になろうと努力した時、お人好しで損をすることを強める。

自己肯定の努力は自信をもたらし、自己否定の努力は無価値感を強める

人間の努力にはこのように二通りある。

必死になっている人にも二種類ある。

基礎をきっちりやろうとして必死になるタイプと、とにかく早く先にいこうとするタイプである。

お人好しで損をする人は、とにかく早く先にいこうとするタイプである。

ところで、どうして自分にできないことをしようとするお人好しで損をする人と、自分にできることをしようとする人とがいるのであろうか。

ことは単純である。

自分にできないことをしようとしてお人好しで損をする人は、自分にできないことをやめようとする決断ができないのである。

自分にできないことをお人好しで損をする人がしようとするのは、それによって自分の優越を示そうとしているからである。

自分にできないことにお人好しで損をする人は固執して自分の優越を示そうとしている限り、言い訳がでてきて、やがては神経症になっていくであろう。

自信は自信を育て、劣等感は劣等感を育てる。

問題の大きい子ほど”問題のない子”に見える

なぜ人は神経症になるほど優越を示すことに固執するのか。

それは、子どもの頃、お人好しで損をする自分を育てた周囲の人にまけているからである。

男の子は女の子に優越しなければならないと教えられてきたかもしれない。

それにもかかわらず、お人好しで損をする人は優越できない不安をかかえて生きてきたかもしれない。

女の子は優越したいという欲求が、男の子のように振る舞うということだったかもしれない。

ことに、親が自分のお人好しで損をする劣等感の解消を子どもによって晴らそうとした時はそうである。

お人好しで損をする子どもは優越を示すことによって、親に気に入られる。

やがて子どもは優越を示さなければ、皆によりよく受け入れてもらえないと思うようになる。

ところが現実には、このようなお人好しで損をする人ほど受け入れてもらえない。

自身も、他人との共同はできない

そして自分が受け入れてもらえず、他人と協同できないのは、自分の中に優越を示さないではいられないようなお人好しがあるためであるとは気づかず、逆にもっと優越を示さなければと勘違いする。

優越を示そうとするからお人好しで損をする人は受け入れられないのに、優越を示せないから受け入れてもらえないと思う。

かくてお人好しはお人好しを呼ぶ。

このような人は、まず親との葛藤が解決しない限り、いつまでたっても、どんなに努力しても、お人好しに苦しむであろう。

自分の子どもで解決しようとした自分の親そのものを克服しない限り、心の安定は得られない

お人好しで損をする人はその心の葛藤を解決した時、はじめて自分の出来ることをしよう、と思うようになるのである。

さらに忘れてならないことは、自信喪失して、生きていくのが苦しくなるようなお人好しで損をする人ほど、親を乗り越えることがいくつになってもできないということである。

つまり親子の関係が歪んでいればいるほど、歪んでいるということをお人好しの本人は恐ろしくて認められない。

”おとなしくてよい子”ほど、親に気に入られようとした子である。

”問題のない子”なのである

問題が大きければ大きいほど、お人好しで損をする子は”問題のない子”に見える。

親に気に入られるために自分を抑えに抑えたお人好しで損をする人ほど、本当の自分が親に処罰されることを恐れているのである。

つまり、親子関係が歪んでいればいるほどお人好しで損をする子どもはその関係から逃れ難い。

心の葛藤の解決を必要としているお人好しで損をする人ほど、心の葛藤から眼をそらす。

それほど親が自分の感情を強力に子どもに押し付けていたのである

まず自分のお人好しで損をする自分で解決しようとせず、自分の子どもで解決しようとした親は依存心の強い親である。

どんなに年をとっていても、お人好しで損をする人は心理的には幼児にちかいのである。

彼は一人歩きのできないお人好しで損をする人なのである。

ここで注意しなければならないのは、お人好しで損をする人の依存心と攻撃心とは関係があるということである。

依存心は何ほどかの攻撃心を含んでいる

そのように子どもに依存するお人好しで損をする親は、子どもに対して攻撃心をもっている。

子どもはそのようなお人好しで損をする親から本当の愛情で愛されることはない。

本当の愛情とは、アンビヴァレントではないということである。

依存心をもつお人好しで損をする親は、一方で子どもに依存しながら、他方で子どもを憎んでいる。

そして、その憎しみを抑圧しているお人好しで損をする人は、どうしても自然な態度で子どもと接することができない。

どうしても”わだかまり”があるし、その”わだかまり”を無理に乗り切ろうとするから、より不自然な態度になる

依存心に強いお人好しで損をする親ほど、子どもの精神的成長を恐れる。

したがって、依存心の強い親をもったお人好しで損をする子どもの精神的成長は、親に好かれたいと思ったところでとまる。

依存心の強い親にとって、”よい子”とは親に心理的に依存しつつ、社会に優越を示すお人好しで損をする子どもである。

親は子供が自立心を持ち出すと、「あの子は冷たくなった」と解釈する。

けっしてあの子も立派に成長してきたとは思わない

依存心の強いお人好しの親にとって”温かさ”とは依存する心以外の何ものでもない。

自律した人間の思いやりは”冷たい”と感じるのである。

そんな依存心の強い親に気に入られようとするから、お人好しで損をする人はできないことをしようとして自信を喪失するのである。

そんな親に嫌われることを恐れるから、お人好しで損をする人は劣等感に苦しむのである。

つまり、依存心の強い親は子どもに過大な期待をする

子どもの器以上を要求する。

そこでその親に気に入られるためにお人好しで損をする子どもは、自分にできないことまでしようとしだすのである。

親の依存心と攻撃心の犠牲になって、お人好しで損をする人におちいっている人は多い。

しかし反省すべきであるのは、そんな親を尊敬し、気に入られようとしたお人好しで損をする自分自身の弱さである。

全世界を回復するためには、親を失わねばならない時がある

独占的親を失って全世界を回復しないのはお人好しで損をする自分が弱いからである。

しかし、それにしても人間とは難しいものである。

つまり、お人好しの親の自己中心性の犠牲になりながらも、「親だけは自分のことをわかってくれる」「親に可愛がられた」「甘やかしてもらった」と言う人がいるということである。

自己の人格が破壊されていれば破壊されているほど、そのように錯覚する。

自分の感情をもてないほど親に歪められてしまった人は、処罰恐怖から、「親に可愛がられた」と信じようとする

しかし、そうしたお人好しで損をする人が一つ疑問をもつべきことがある。

「もし本当に自分が可愛がられて育ったとしたら、どうして自分はこんなにイライラするのか?」

「もし自分が本当の愛情で育てられたら、どうしてこんなに不安なのか、どうしてこんなに感情が不安定なのか、どうして生きることがこんなに辛いのか?」

そして気付くことである。

”愛してもらった”とお人好しで損をする人は信じなければいきてこられないほどの恐怖にかられて生きてきたのだと。

白を黒と、自分に思い込ませている時、お人好しの人は損をする

依存心と攻撃心とが関係あるとわかれば、家庭内暴力などもわかる

家庭内で暴力をふるって手におえない子どもは、お人好しな子どもなのである。

子どもは、どんなことをしてもらっても満足しない。

十のことをしてもらえば次は二十のことを望む。

そして、それが実現しなければお人好しで損をする人は敵意をもつ。

依存する気持ちと敵意とがお人好しで損をする人は一緒になって、さまざまな悩みをつくりだしてくる。

子どもであれ親であれ、お人好しで損をする人はいろいろな問題をひきおこす。

家庭を閉鎖的な集団にお人好しで損をする親はする。

家の者がそれぞれお人好しで損をする自分の生活をもつことを喜ばない。

子どもはいつになっても自律性を獲得できない

何度も言うように、お人好しの人の依存心はその中に攻撃心を含む。

そしてお人好しで損をする人は閉鎖的な集団の中で、その攻撃心は抑圧される。

家庭一点ばりのお人好しで損をする人の愛情が息がつまるのは、このためである。

そしてこのような家庭は”愛情”を、お人好しで損をする人につねによそおう。

実はいい年をして幼稚な感情をもっているにもかかわらず、自分たちは人間性の豊かな者であると信じる

閉鎖的な集団に生きるお人好しで損をする人々は、貧しい感情生活でありながら、自分たちの人生だけが深く意味をもつと信じる。

しかしこれらのお人好しで損をする集団は、現実に根ざしていないから実にもろい。

人間性、愛情、意味、気持ちなどをお人好しで損をする人はたえず口にしながらも、お互いに不機嫌を押し殺したように憂うつな顔をしていたり、あからさまに不機嫌だったりする。

しかし、逆にそれだけお人好しで損をする人は歪んだ結びつきであるだけに、そこから抜け出しにくい。

歪んでいれば歪んでいるほど、恐ろしくて歪みから眼をそらす

お人好しで損をする人は、今まで自分が愛情と思っていたものは、実は幼児的依存心ではないか、という反省をしてみる必要がある。

今まで自分が”冷たい人”と思っていた人が、実は最も情緒的に成熟した人間ではないか、と考えてみる必要がある。

白を黒と自分に思い込ませている時である。

白を白と認識することで、自分の”にせの自信”がくずれるのをお人好しの人は恐れる。

しかし、現実からお人好しで損をする人が逃げた時、真の自信を喪失するのである。

お人好しの人が本当の愛情を見分ける”コツ”

自分の幼稚な依存心を愛情という名で合理化したり、そのように合理化する人から心理的に独立できない時、私たちは自信を失い、自分が何をやってよいかわからなくなる

そして”にせの自信”を守るため、お人好しで損をする自分にできることをしようとしないで、自分にできないことをしようとする。

つねに周囲の人を喜ばせよう、周囲の人に気に入られるように振舞おうとしてきたからこそ、遂にお人好しの自分にできないことをしようとするようになったのである。

自分にできないことをお人好しで損をする人はしようとしたのは、周囲の人に気に入られるためではなかったのか。

周囲の人に気に入られることによって安心感を得ようという、間違った生き方をしたことで、遂にお人好しで損をする自分にできないことをしようとするようなことになったのであろう。

”碇を蟻がひくよう”という格言がある

周囲の人に気に入られようとしてお人好しで損をする人はプライド過剰、自意識過剰な人は、力のない小さな蟻が重い碇をひくようなまねだとは自覚していない。

時にはそれぐらいできるのがお人好しで損をする人は当然だとさえ思い、それをすることが他人の期待にこたえる唯一のことのように錯覚している。

他人の幼児的依存心をお人好しで損をする人は愛情と錯覚するから、その愛情を獲得するために、小さな蟻なのに重い碇をひくことが必要と思ってしまうのである。

人間の愛についての根本的な誤解がある。

愛情と幼児的依存心の錯覚は、きわめて危険な錯覚のひとつ

単なる幼児的一体化にすぎないのに、それを愛情と錯覚しているお人好しで損をする人がいる。

幼児的依存、お人好し、幼児的一体化、甘え、これらの感情は、愛情という名で合理化しやすいのである。

ある人が自分の子どもをなくした。

そして何カ月も寝込んでしまった。

自分の子どもをなくして立ち上がれなくなる気持ちは、子どもをもった人であれ、もたない人であれ、よくわかるであろう。

誰だって自分の最大の愛情の対象を失えば、寝込みたくなる。

この人は額にぬれて拭いを当てて、何カ月を寝込んでしまった。

このお人好しで損をする人は、自分は”情の人”であることを狂信している。

つねに、「私は気持ちで生きている」「私は愛情を大切にする男だ」と口にし、二言目には自分の”情”の尊さを主張する

そして、お人好しで損をする自分が子どもをなくして何カ月も寝込んでしまったのは、他の人よりも自分が熱い情をもっているからだと狂信している。

自分は他の親よりも自分の子どもに何倍もの愛情をもっているから、他の親とはちがって何カ月も寝込んでしまったのだと、彼は解釈する。

そして、自分が他の親よりも自分の子どもにお人好しで損をする幼児的一体感を強くもっていたから、他の親とは少しちがった行動をしたとはけっして意識のうえでは思わない。

しかしこのお人好しで損をする人は、死んだ自分の息子のお墓もたてなければ、次の息子が自立して家をでていった時は憎しみしかもたず、その行き先さえ知ろうとしなかった。

次の息子は、お人好しで損をする親が自分への幼児的一体感をもって接してくれることを拒否したのである。

しかし死んだ息子は小さかったから、お人好しで損をする親の幼児的依存心を十分に満足させた。

幼児的依存心と愛情とは、外にあらわれた一つ一つの行動だけでは、実に見分けにくい

しかし幼児的依存心をもっているお人好しで損をする人間の行動には、一貫性が欠けている。

したがってちょっと長い期間その人を観察すれば、その人がお人好しで損をする幼児的依存心の持ち主であるか、愛情深い人であるかはわかる。

しかし、自分がお人好しで損をする幼児的依存心をもっている場合には、愛情と狂信する場合が多い。

今の人のように、お人好しで損をする人は他の人より幼児的一体感をその子どもにもっていたからこそ打撃を受けたのに、愛情があったからと解釈する。

親の子どもに対する愛情と、お人好しで損をする幼児的一体感とは異なる。

どこかでこのように現実に直面することを逃避しているのである。

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喧嘩できない人が本音を言うチャンス

成熟した人間は、そんなに他者に期待するものではない

ある中小企業の社長の話である。

高校を卒業して、一人で死に物狂いで事業をきずいた人である。

自ら”はい上がり派”と称している。

心の温かい人である。

その人は”会社のため”に1年364日働いている。

一年のうちに自分のために休息するのは一日ぐらいと言っていた。

床で寝るのはこの20年間、1日4,5時間であるという。

あとは、眠れる時に眠る。

騒音の中でも眠れる人である。

それだけ会社のために働きながら、従業員には”会社のため”に働くことを期待しない。

「そんなことまで従業員に期待したって無理ですよ」と彼は笑いながら言った。

それでいながら、会社の増資をする時、彼は信頼する数人の従業員に株をわけたのである。

成熟した人間の愛情と、お人好しで損をする親の歪んだ感情とは、これほどちがうのである。