日本には神経症の治療法として、世界に誇る森田療法があります。

森田療法では、精神交互作用といって、意識が過度にとらわれてしまっていることが神経症の問題だと考えます。

つまり、通常は外界へ向けられていた注意が、なんらかのために自己意識や身体に向けられると、その部分への感覚が異常に鋭くなり、意識はますますその部分のみにとらわれ集中してしまいます。

このとらわれが、神経症として人を立ち往生させてしまっているというのです。

したがって、この「とらわれ」からの脱却が神経症の治療の柱であると考えます。

そのために、この心理的傾向そのものと直接戦うのではなく、日常生活の活動をきちんきちんとこなしていくなかで、とらわれから自然に離れていくことをめざすのです。

ここにみるように、自分の性格を変えようとする戦いは、自分の意識や行動・身体に注意を集中することですから、かえって「とらわれ」を強化してしまうことが少なくないのです。

性格を変える必要はないのです。

とらわれから脱却することを目指すのです。

私達の心の根底には母胎内で培われた根源的な安心感があるのです。
成育過程でその安心感をベールをかぶせてしまったために、とらわれ、人と接するのがこわいのです。

ですから、自己を守ろうとせず、自身にとらわれず、この根源的な安心感にゆったりとひたろうとすればよいのです。

傷つきやすい性格を変えようとするのではなく、とらわれから脱却し、あるがままの自分で生きようとすればよいのです。

心理療法やカウンセリングも、性格を変えることによって治療しようとするものではありません。

なるほど、「結果」として多少性格が変わることはあります。

しかし、カウンセリングというのは性格を変えることを目標とするものではないし、また性格が変わることが治ることでもないのです。

たとえば、病前性格という言葉があります。

一般に精神的な病気になる人には、病気になる以前から特有の性格がありますが、とらわれやすいなどはこの性格のことです。

うつ病でいえば、生真面目、責任感が強い、几帳面であるなどの性格です。

うつ病が治るということは、この病前性格が変わるということではないのです。

病前性格はそのまま残ります。

とらわれることなくそのままで日常生活が支障なく営まれていくようになることが、病気が治るということなのです。

人間関係に傷つきやすい性格についていえば、こうした性格を持ちながら、そのために日常生活に支障をきたすほど心全体が混乱しないこと―カウンセリングは、このことを追求するのです。

日本カウンセリング学会の理事長である国分康孝氏は、カウンセリングで治るとは、いろいろな悩みをもちながらも、「この現実に踏みとどまれるようになることである」と述べています。

そして、それは、いまある自分をあるがままに受け入れ、自然な自分で生きていくことだというのです(『心とこころのふれあうとき』 1979)。

いまある自分を他の自分に作り変えることは困難です。

しかし、とらわれから自由になり、いまある自分をただそのままに受け入れて自分に素直に生きることなら、それほど難しいことではありません。

カウンセリングは、来談者(相談に来た人)がとらわれている、こうした生活態度をとることができるよう援助するのです。

そのために、来談者が安心して自分を出せ、とらわれから自由になり、あるがままの自分でやっていってよいのだと実感させること、また、素直な自分で安心していられるのだと実感させること、こうした実感を体験させるためにカウンセラーは来談者の心に寄り添ってあげるのです。

カウンセリング場面でのこの安心体験をベースにして、来談者は日常生活のなかにとらわれのない自分でいられる場所を広げていくのです。

性格を変える必要はありません。

性格を変えようとするつらくて絶望的な努力を、楽しいことや本来の自分を成長させる生産的な行動、とらわれからの自由へと向け直していくことです。

無益な忍耐について、当時、ヤクルトの監督だった野村克也氏は実に適切に表現しています(『日本経済新聞(夕刊)』一九九七年二月二十七日)。

「忍耐とは、希望を持つ技術。希望のない忍耐は、無意味です」