ナルシシストとは

ナルシシストは再び華やかな舞台にあこがれる

自分のカムバックの邪魔になるからというので、同棲している女性を殺してしまった歌手が話題になったことがある。

この歌手がカムバックしようとしているとき、同棲している女性と一緒にいると不機嫌になったのではないだろうか。

再び皆からちやほやされたいと願っている。

そう願いつつ活動をつづけてファンなどが再び少しずつできてくる。

そのファンと会うとき、この女性が一緒に来たらどうなるか。

ファンとの会合に出かけていくのに、この女性が一緒だったらそのあいだ中、この歌手は不機嫌なのではなかろうか。

自分の身勝手な欲求にとって、この女性は邪魔なのである。

自分のわがままなナルシシズムの欲求の満足を妨害しているのがこの女性である。

このナルシシストの歌手は欲求不満になる。

ただいかに身勝手な歌手とはいえ、この女性を責めるわけにはいかない。

頭ではいくら何でも自分のほうがわるいということぐらいはわかっているだろうから。

ナルシシズムはちょうど神経症の原因が甘えたくても甘えられないところにあるように、不機嫌というのも攻撃したくとも攻撃できないところにある。

また一方で心理的にはその人に依存しているナルシシズムという場合もあるだろう

一方でその女性に心理的に依存しているので、その女性といることが精神的に必要でありながら、他方でその女性がナルシシストの自分の身勝手な欲求にとって邪魔になる。

こんな両価的なナルシシズムの状態のとき、人は不機嫌になる。

ナルシシズムはちょうど高校生が親を心理的に必要としながら、同時に自立への願望もある。

依存と独立への葛藤の中で、家がおもしろくなくて、家の中でふてくされているようなものである。

幼い子どもでいえば、プーッとふくれながら、お母さんの手を握っている。

ふつうの人は、今述べた歌手のように邪魔になったからといって相手を殺したりすることはない。

しかしこの歌手と同じくらい心理的に幼稚なナルシシストの人というのはいくらでもいる。

この歌手と同じように他人からちやほやされたいと願っているナルシシストの人はいくらでもいる。

そしてこの心理的に幼稚な歌手と同じように、自分がちやほやされるのに邪魔な存在となる人と一緒にいて不機嫌になっているナルシシストの人もまたいるであろう。

関連記事>>人付き合いが怖いを克服する方法

ナルシシストの内づらはどうしてもわるくなってしまう。

ドン・ファンというタイプの男性がいる

Aという女性とつきあったかと思うと今度はBという女性に移り、さらにCへと心を移していく。

そしてまもなくDという女性にあこがれはじめる。

そしていつもいろいろな女性にもてていたい。

こんなドン・ファンの心理を考えてみると、ナルシシズムの不機嫌や内づらのわるさというものを理解する一助になるのではないか。

Aという女性に恋をした。

しかしBという女性にもあこがれた。

そしてAという女性との関係が定着してしまうと、このAという女性はBとの接近に邪魔になる。

こんなとき、ドン・ファン、ナルシシストは外づらがよく内づらがわるくなる。

そしてBという女性に対してはどちらかというと内気で謙遜をよそおい、Aという女性に対してはAの立場を無視したような身勝手な欲求を持つ。

自己中心的欲求が心の中を支配しはじめる。ナルシシズムである。

エーリッヒ・フロム(新フロイト派の精神分析学者)は、内気と謙遜の背後に人はナルシシズムを隠していることが多いというが、その通りであろう。

外づらのよさの背後にナルシシズムを隠している人がいる。

その隠されたナルシシズムがあらわれたのが内づらのわるさである。

外づらのよさが内づらのわるさに変化したときは、その外づらのよさの背後に隠していたものがあらわれてきたときである

自分のカムバックに邪魔になるといって同棲中の女性を殺した歌手だって、その女性に接近していくときは、ナルシシズムを自分にも相手の女性にも隠していたであろう。

ところがナルシシストは同棲をはじめると、その背後に隠していたものが表面に現われてきてしまう。

身近な人になってくるとどうしても内にあるものがでてきてしまう。

その内にあるものとは、エゴイズムでありナルシシズムであり、母親固着であり、エゴセントリシティ―(自己中心性)である。

神経症者は、パーソナリティに矛盾を抱えている。

冷酷な利己主義者でありながら、同時に行動はときに極端な非利己主義になる。

もちろん本質的には冷酷な利己主義者である。

外づらが極端な非利己主義でありながら、内づらが冷酷な利己主義である。

それが「内づらがわるくて外づらがよい人」である。

ナルシシストはほめられたい

立派な人と思ってもらいたい

ナルシシストはほめられることで自分という存在がある。

ほめられることで自分の存在感を獲得する。

そこで立派な行動をする。

立派な人になる。

仕事で成功する。

行動特性としては立派な人である。

しかしその人の内づらはナルシシズムである。

社会的な言動がどうであれ、心はナルシシズムである

だからナルシシストは傷つきやすい。

そして傷ついて怒る。

怒りを表現できなければ憂うつになる。

不機嫌になる。

だから、心は自分さえよければよい。

他者には無関心。

その結果、ナルシシストは「仕事で成功、人間関係で失敗」といわれる人になる。

「内づらがわるくて外づらがよい」というのも心理的にはナルシシズムと同じである

ナルシシストの外づらのよさは「仕事で成功」の部分である。

それが行動特性である。

「内づらがわるくて外づらがよい」は神経症の一つの症状であるが、同時に特徴でもある。

慈善事業をしているような立派な人がいる。

そういう人が家で家族に暴力をふるう。

ナチスの幹部のような極悪な人の親が、敬虔なクリスチャンということがある。

敬虔なクリスチャンが外づらで、子どもに示す内づらはひどかったのだろう

おそらく彼らの親はナルシシストなのである。

ナルシシストは子どもには関心がない。

でも敬虔なクリスチャンだという。

子どもの言動が自分の評価の障害になれば子供に怒りがわく。

子どもが残虐な大人に成長しても不思議ではない。

一口にナルシシズムといっても、ナルシシズムには二種類がある

社会的に大問題を起こすような「よい子」は、親子ともども皆ナルシシストなのである。

ナルシシストはほめられたい。

ほめられることで自分という存在を確認している。

つまり親も子どもも、心理的に成長することに失敗している。

そう考えないと、いろいろなナルシシズム現象は理解できない。

賞賛を求める、ほめられることを求める。

しかもその特徴は「受身的に」求めることである

これはフロムがいう謙遜の裏に傲慢があるということに通じる。

ナルシシストは、あからさまに優越や才能を誇示しないが、気付かれないように密かに賞賛を求めている。

この種のはもっとも質がわるい。

あからさまのナルシシストのほうがまだ気分がよい。

これを「隠されたナルシシズム」という。

ナルシシストは「私なんか、私のような者が」といいながらも、賞賛を求めている。

肉体的精神的ヒポコンドリーに存在するナルシシズムは、見分けにくいが、虚栄心の強い人のナルシシズムも同じである

ナルシシストは「私のような者が」といいながらも、隠れたるメッセージとして結婚を要求し、しっかりと結婚するような女性である。

自分に対する賞賛を求めるけれど、他者の意見には注意を払わない。

そして軽蔑的な無関心を示す。

無関心で「相手にしていない」というよりも、「私は、あなたのような人を相手にしないわ」という侮辱的な態度の無関心である。

批判に敏感ということはすでに指摘している。

そして隠されたナルシシズムは特に批判に敏感なのである。

さらに、問題は、批判でないことさえも批判と受けとってしまうことである。

おそらくは心の居場所がないのであろう

ナルシシストはどこにいても自分の居場所がない

心がほっとする場所がない。

ありのままの自分でいられる場所がない。

自己陶酔しながらも安心して「ありのままの自分」でいる場所がない。

どこにいても自分でない自分を見せていなければならない。

そうした心の居場所がないナルシシストは、おそらく「他者による自分の評価」にしがみついて生きていなければならない。

自己執着

ナルシシストは自分の心が「まわりの人は自分をどう思っているか」ということに占拠されている。

自我の確認が他者に逃避している。

とにかく自分がよく思われることで精一杯。

人のことを考える心のゆとりがない。

自分の心の居場所があれば、批判に異常に敏感になる必要はない。

批判に対して敏感なのは「隠れたるナルシシスト」である。

「隠れたるナルシシスト」は否定的な感情を内づら化している。

悲観主義者は「隠れたるナルシシスト」である

ナルシシズムは劣等感と優越感が同じコインの表と裏である

ナルシシストは否定的な感情を内づら化しているから、将来を悲観的に見る。

誇大な自我のイメージを持ち、自己陶酔していながらも無意識では「自分は偽物である」と感じている。

意識における誇大な自我イメージと、無意識での「自分は偽物である」という自己イメージの矛盾がナルシシストのパーソナリティである。

ネガティブ・ナルシシズムは、その偽物コンプレックスが表面化したものである

どんなに誇大な自我イメージを持ち、自己陶酔していようとも、心の底では自分は本物でないと感じている。

無意識の領域では自己蔑視が激しい

ナルシシストはだから現実が怖いのである。

うぬぼれながらも心の底では「あいつは俺と違って本物だ」というような劣等感がある。

それがナルシシズムの現実への怯えである。

ナルシシズムは思想家であるカール・ヒルティ―のいう「外で子羊、家で狼」である。

それもナルシシストである。

それは外ではナルシシズムの偽物コンプレックスの側があらわれ、怯えて自信がない

ナルシシストはそこでやたらに迎合する。

家では誇大な自我のイメージの側があらわれて凶暴になっているのである。

家ではナルシシスト、外ではネガティブ・ナルシシストといってもよいだろう。

ナルシシズムは現れ方が正反対であるが、本質は同じである。

救われるためには、自分の無意識に偽物コンプレックスがあるということを認めて、それに直面し、それを乗り越える以外にはない。

内づらがわるくて外づらがよい人も、同じである。

自分の心の底にナルシシズムがあることを認められるか、 認められないかである。

ナルシシストは頑張ってもわかってもらえない

私はこんなに頑張っているのに・・・

「私は悪くない」とか、「私ばかりつらい目にあう」と言う人はナルシシストであることが多く、自分の心の傷を守るために、こう言っているのである。

「私ばかりつらい目にあう」と言っていれば、心の傷を防衛できる。

人は、ナルシシズム的損傷に対する防衛として、被害者の立場をとる。

ナルシシストの「最終的に誰も私を助けていない」という心の底の感じ方が「わたしばかりつらい目にあう」につながる。

アメリカの精神科医ジョージ・ウェインバーグは、世界で最も一般的なフレーズは「誰も私のことをわかってくれない」というフレーズだと言うが、そのフレーズは、それを言う人がナルシシストの気持ちを表わしていることが多い。

「私がこんなにがんばっているのに」という不満がある。

「私がこんなに頑張っているのに、あなたはわからないの」という怒りである。

それは親子の場合もあるし、夫と妻の場合もあるし、恋人同士の場合もあるし、上司と部下の場合もあるし、いろいろとある。

しかし、いずれの場合もその頑張っているのが、ナルシシストの頑張りなのである。

相手の現実は自分の現実と違う。

それがわかっていない。

このように怒っている人は、要するに相手が「いない」。

難しく言えば、「他者の自己化」とでも言うべきことである。

他者は他者ではなく、自分の延長でしかない。

そういう人達の関係は、共生関係といってもよいかもしれない。

お互いに自律性を持った人間同士の付き合いができない。

「私がこんなに頑張っているのに」という頑張りは、相手にとってありがた迷惑な頑張りかもしれない。

自分の現実と相手の現実が違うということを認識できないナルシシストは、人間関係のトラブルが多い。

ナルシシストは自分に「したいこと」があるように、他人もまた「したいこと」があるということがなかなか認められない。

ナルシシストはなかなか変わらない。

ある悩める小学校の先生が、ある人に悩みの相談をしていた。

そして、あるところで怒り出した。

「あなたは、先生という職業がどのくらい忙しいのかを知らないんですか!」と怒鳴った。

怒鳴られた相手は、「これなら周囲の人とトラブルを起こすわ」と思ったという。

「こんなことも知らないのか」という怒りも、時にナルシシストである。

人間は万能ではないから相手の現実からすれば、それは知るに値しないことなのかもしれないという認識ができない。

自分の知っていることは、知るに値することなのである。

自分が知らないことは、知るに値しないことなのである。

これがナルシシスト。

孤独と恐れ

自分のことを相手が理解できないときに、「この人はこのレベル」と思って心の中で相手を断ち切るということがナルシシストにはできない。

そこで相手に怒る。

「許せない」となってしまう。

そしてその感情に振り回される。

それはナルシシストが、自分の現実と相手の現実の違いを認識できないということのほかに、無意識の領域で恐れているからである。

ナルシシストの無意識は「孤独と恐れ」という指摘があるとおり、ナルシシストは孤独で恐れている。

だから相手が自分を称賛して、理解を示さないと怒りを感じるのである。

ナルシシズムが傷つけられた時の怒りはすごい。

ナルシシストは無意識でいつも恐れている。

そのうえに相手を見ていない。

だから常にストレスに悩まされている。

バブーンという獰猛なサルがいる。

そのサルの中にストレスの多いサルとストレスの少ないサルがいる。

ストレスの多いサルと少ないサルとどこが違うかというと、ストレスの多いサルは脅しと脅し以外のジェスチャーの区別がつかない。

ストレスが多いかどうかは、ストレスホルモンのコルチゾールで判断する。

「私ばかりつらい目にあう」と言う人は、自分の人生はストレスに満ちていると思っている。

しかし、その人の人生は客観的に見てストレスに満ちている人生ではない。

その人の無意識が、ほかの人よりも問題を抱えているだけである。

ストレスが多いサルは、脅しと脅し以外のジェスチャーの区別がつかないと前述した。

ナルシシストも相手が実際には恐ろしくないのに、相手を見ていないから怯えている。

ナルシシストは無意識の領域で、孤独と恐怖に怯えている。

ナルシシストは今までの人生で、卑怯な人に脅され続けて生きてきた。

ナルシシストはそこに気がつかない限り、死ぬまでストレスに苦しむ。

ナルシシストは小さい頃に搾取されて生きていた。

愛されなかったから、「人とともに」という生き方ができない大人になってしまった。

どうしても褒めてほしい

ナルシシズムは合理的な判断をゆがめる。

ナルシシストは自分のしていることを素晴らしいと思わなければ生きていけないから、それへの批判は「悪意ある攻撃」だと思える。

好意ある提案や、好意ある説明まで含めて、自分への注意にナルシシストは苛立つ。

それは、その好意ある提案や好意ある説明が、ナルシシストの自己陶酔の妨げになるからである。

称賛の言葉が聞けなければナルシシズムが傷つく。

歳をとって、いつもいつも憂鬱な顔をしている人はナルシシストであることが多い。

ナルシシズムが傷つけられた怒りを抑えて、憂鬱になったのである。

美味しい食事を求めていないわけではないが、それ以上に称賛を求めている。

食欲よりもナルシシズムの欲求を満たしてもらいたいのである。

ナルシシストは、「私はこんなすごいことをした」と思っている。

その話を相手が感心して聞かないから不愉快である。

「私はこんなすごいことをした」と思っていなければ、相手の無関心な態度に傷つかない。

ナルシシストは、その種の自慢話が多いのである。

というよりも基本的には、ほとんどが自慢話であると言ってもよいかもしれない。

ナルシシストは「自分はすごい」と自惚れている。

批判は「あなたはそんなにすごくない」ということである。

したがって、批判は「悪意ある攻撃」と受け取る。

ナルシシストはあくまでも自惚れであって自信ではない。

自信には孤独と恐怖感がない。

ナルシシストはどこでわかるかというと、一つにはいかなる批評に対しても過敏であることからわかると社会心理学者エーリヒ・フロムも述べている。

過敏であるがゆえに、気分は常に不安定である。

機嫌がよかったかと思うと、ある一言で急に機嫌が悪くなる。

彼らは謙遜しながらも他人の批評を受け入れない。

謙遜しながらも褒められないと傷つく。

それだからこそフロムが言うように、謙遜の後ろに自己礼賛が隠されているのだということになる。

この隠された自己礼賛が傷つくことの原因である。

ここでナルシシストの勘違いが始まる。

自己存在に障害があると、自分が高い装飾品を持っていると、これ見よがしに周囲の人に見せびらかす。

自己存在感に障害があると、自分が素晴らしい経験をするだけでは不安である。

その経験を他人に確認してもらってはじめて安心する。

このthe sense of selfの希薄な性格者としてあげられるのが、ナルシシストである。

ナルシシストは、常に人に称賛してもらっていないと落ち着かない。

ナルシシストは、「〇〇ちゃんの言う通り」「そうだよね」と、いつも言ってくれている友達がいい。

ナルシシストの努力

こんなに頑張っているのに「自分だけが苦しい」と思っている人は、努力の動機が間違っていることに気がついていない。

ある会社である。

新部長の歓迎会に、巨大なケーキをおみやげに持ってきた人がいた。

おみやげにしては不釣り合いである。

彼女は「このケーキすごい」と言われるために買って来た。

正直に言えば、部長にとっては迷惑なおみやげである。

そのナルシシストは、それで部長に尽くしているつもりでいる。

しかし期待した反応はない。

そこで「私はこんなに尽くしているのに」と部長を恨む。

世の中には、いつまでも相手を恨んで暗い人生を送る人もいる。

皆、「私はこんなにしている」と自己陶酔している。

ナルシシストでない部分が、部長の机の上の花瓶の水を替える。

見えないことだが、見る人は見ている。

その人は、自分の都合のいい時期に夏季休暇を申請すると受け入れられる。

しかしナルシシストは、望みの期間に休暇がとれない。

すると「私ばかりつらい目にあうのか?」と部長に不満になる。

要するにナルシシストは、努力しても期待するほど成果は上がらない。

それは相手の心を見ていないからである。

相手とコミュニケーションができていないからである。

努力はするのだが独りよがりの努力だから、「こうなるだろう」と思うことがなかなか「こうならない」のである。

ナルシシストは自分の売り込みには熱心である。

しかし相手は自分の延長としての相手であって、自分と違う人格を持つ固有の相手ではない。

「他者の自己化」である。

上司はいるのだけれども、自分と分離した固有の存在としての部長ではない。

ナルシシストは自己陶酔と訳されているが、自分がない。

自己不在である。

人は他人と出会ったときに自分にも出会う。

自己中心的な人は、相手の身になって考えるどころか、自分に近づいてきた人がハイエナだか、犬だか、鶏だかわからない。

相手をじっと見れば相手は毒ヘビかリスかはわかる。

人間は外から見ると同じであるが、心の中は全く違う。

毒ヘビとリスの違いどころではない。

相手の身になって考える人は、同時に自分の身を守っている。

それは自分に近づいてきた人をじっと見て「この人はライオンだ。食べられるから逃げよう」と思うからである。

そして相手を見ないナルシシストは、質の悪い上司にいいように利用される。

嫌な仕事ばかりをさせられる。

そして「私ばかりつらい目にあう」となげく。

他の人は、ずるい上司を見ているから、その上司に深入りしないだけのことである。

心理的に健康な人は、気に入られようとして頑張ったりしない。

お腹がすいたときに、冷蔵庫に首を突っ込めばいいものを、タンスに首を突っ込むようなことをする人が多い。

ネクタイを食べてもお腹は膨らまないのに、それで「私ばかりつらい目にあう」と文句を言っている。

「私ばかりつらい目にあう」となげかないビジネスマンは、相手を見ている。

だから、「この上司はずるい人だ」と心で上司を切っている。

無理していい人を演じない。

努力しても報われない人

ナルシシストの努力とはどういうことだろうか。

ウナギが健康にいいものだと思うと、ウナギの嫌いな人に、無理してウナギをご馳走する。

そして相手にすごいことをしたと思っている。

お腹の空いていない人に、手の込んだお弁当をつくっていってあげるような努力をしている。

お酒は百薬の長だからと、赤ん坊にお酒を飲ませるようなことである。

とにかくナルシシストは相手を見ていない。

相手と自分との関係を考えていない。

お金持ちにお金をあげて、「いい人」と思われると思っている人である。

相手に関心がなくて自分しかないから、自分にとってすごいことをして、相手は感謝するだろうと思っている。

努力しても業績が上がらない人がいる。

そういう人は一度、自分はナルシシストではないかと反省してみる必要がある。

成果の上がらない努力は、相手を見ていない努力なのである。

独りよがりな努力である。

自分は得意になってしていることだが、相手は嫌がっている。

そして社会の中での自分の立場がわからない。

自分を取り巻く人間関係の中での自分の位置がわからない。

皆はその人にそのような努力をしてほしいとは思っていない。

だから努力が実らないのである。

ナルシシストは相手を見ていない。

それは何度も言うように相手に関心がないのだから当たり前と言えば当たり前である。

普通は自分が話をしているときに、相手が自分の話に興味があるかないかを見ている。

そこでコミュニケーションが成立する。

ナルシシストは自分の自慢話をしている。

ナルシシストはその話で相手が自分をすごい人だと思うと思っている。

しかし相手はその自慢話で、その人を嫌な人だと思っている。

この「ずれ」がナルシシストにはどうしても理解できない。

だからナルシシストは長い期間になると、人間関係が悪くなる。

とにかく周囲に質のよい人がいない。

したがってやることなすことが、なかなか上手くいかない。

何事も最後は思い通りにいかない。

そして何よりも人間関係が上手くいかない。

また、自己陶酔しているナルシシストは同じ失敗を繰り返す。

それは現実と接していないからである。

そういう人達は能力がないわけではない。

コミュニケーションの力がないのである。

主役じゃなきゃ嫌な人

またナルシシストとは、所構わず主役になりたい人でもある。

独裁者になりたい人でもある。

ナルシシストにとっては、他者という現実がないから、その集団が自分のものなのである。

その集団を自分が支配できている限りにおいて、その集団のために頑張る。

生産的なエネルギーではないが、ナルシシズムとはエネルギーの源泉である。

そしてナルシシストはその集団が自分のものと感じている限りにおいて、その集団のためにはよく働く。

しかしこれはその集団のために働いているのではない。

あくまでも自分の利益のために働いているのである。

ナルシシストにとってその集団は、自分の持ち物なのである。

だからその集団が自分の思うように動かなくなれば、急にやる気を失い、怠惰になる。

よく努力していたのは、その集団そのものに興味があったのでも、その集団そのものが好きであったのでもなく、その集団が自分の所有物であったからである。

外向型のナルシシストは、何であってもよいから主役になりたい。

「私はこのことで主役になりたい」というのではない。

どのような領域でもよいから皆の注目が欲しいのである。

また外向型のナルシシストは出しゃばりであり、出たがりやである。

他人が主役になるのが嫌な人は「自分は外向型のナルシシストではないか?」と一度反省してみる必要がある。

外向型のナルシシストはいつも自分が主役になりたいから、結果としてどうしても嫉妬深くなる。

どうしても人の足を引っ張るようになる。

その結果どうしても長期的に見ると人とうまくいかなくなる。

ナルシシストは他人に関心がないからどうしても妬み深く、嫉妬深くなる。

人に関心があれば、その人が成功するまでどのくらい努力をし、どのくらい犠牲を払っているかがわかる。

だから成功した人を妬まない。

しかしナルシシストは他人への関心がないから、人が陰でしている努力が見えない。

そして「自分は努力している」と思っている。

そしてナルシシストは、自分の努力は過大評価する。

ナルシシストが他人の努力を過小評価するというのは、他人に関心がないからである。

他人に関心がないから他人の陰の努力が見えないのである。

ナルシシストが自分の才能をすごいと思うのも、他人に興味がないからである。

他人に興味があれば、他人の才能もわかる。

すごいとわかる。

そこで自分の才能もほぼ客観的にわかる。

それが自分を相対化できるということである。

いずれにしてもナルシシストは最後には社会的に挫折する。

相手を見ていないし、相手の言うことを聞いていないのだから。

ありがた迷惑な存在になってしまう

一般にナルシシストは病弱な人や、実際に病気の人、あるいは知能や、教育程度や、家柄などで自分より劣った相手を選ぼうとするという。

ナルシシストの男達にとって、病弱である女性は自分のナルシシズムが傷つく恐怖を感じさせない。

したがって、ナルシシストの男にとって病弱な女性は魅力がある。

彼女が病弱であることが、彼の傷ついたナルシシズムにとって心地よい。

病弱である女性は、彼の傷ついたナルシシズムの脅威にならない。

ナルシシストの男にとって、相手の女性が健康になっては困る。

実は「私ばかりつらい目にあう」という言葉は、ナルシシストにとって病弱である女性と同じ役割を果たしている。

「私ばかりつらい目にあう」と言っていれば、自分の傷ついたナルシシズムから自分を守れる。

この世の中には相手を不幸な状態に閉じ込めたままで、相手を自分に縛る人がいる。

そして「お前のために俺はどれだけ苦労しているか」と相手をいじめる。

相手を自分から離れられない状態にしたうえで、相手に恩を着せることで相手をいじめる。

これは珍しいことではない。

人は自分の心の葛藤を、他人を巻き込むことで解決しようとする。

それが最も安易な解決方法だからである。

自分が努力して相手を惨めな状態に追い込んで、「自分だけが苦しい」となげく。

いま生きるのが辛い人は、こうした恩着せがましい人にいじめられて生きてきたのかもしれない。

そして今度は、自分が「私ばかりつらい目にあう」と言う人になる。

そして周囲の世界を攻撃する。

この言葉には隠された攻撃性がある。

生徒に好かれないで意気消沈する先生がいる。

この情熱だけの教師というのが、ナルシシストの教師である。

この情熱がナルシシズムのエネルギーなのである。

だから熱心な割には教育の効果は上がらない。

つまりこれらのナルシシストは人を犠牲にしているのだけれども、犠牲にしているということに気がつかない。

逆に自分は人のために尽くしていると思い込んでいる。

そこでどんなに頑張っても教育の効果はマイナスでしかない。

大事なことは、こうして生きているとどんなに努力をしてもその努力が実を結ばない。

それは、現実の自分を大切にするよりも、他人に思ってほしいイメージを繕おうと努力するからである。

またそれを崩さないことに努力を向けるからである。