「心」のマイナス状態、ストレスを生じさせる刺激は、どんな要因があるのでしょう。
現在の私達の心のマイナス状態、心の病は、ストレス抜きには語れないともいえるでしょう。
ここで、少し突っ込んでストレスと私達の心との関連をお話ししてみましょう。
そして、それはなぜ今日、森田療法が高い評価を受けているかを理解するためにも欠かせないことなのです。
いわゆる「ストレス学説」は、1935年、ハンス・セリエ博士によって主張されました。
生体に強い刺激(ストレッサー)を加えていくと、生体内にさまざまな変化を生じ、それに適応しようとする反応が生まれる―。
セリエは、この状態をストレスと呼んだのです。
さらに、彼はストレスを生じる生理的機能を解説していますが、要するに人間の身体と心は、外部から与えられる有害な刺激を最小限に食い止めるべくはたらいている、と解してよいでしょう。
ストレスを生じさせる刺激には、さまざまな要因が考えられます。
たとえば、胃が悪かったりと、身体に故障のある人は、それ自体がストレスの原因になります。
また、冷房、騒音などの物理的要因も無視できません。
しかし、現代の社会では、対人関係によってつくられてゆく心理的ストレスが重要なものと考えられます。
新しく入った社員は、上司や慣れない仕事に、さまざまなストレスを受けることでしょう。
同僚との競争も、たいへんなストレスになります。
次の異動で、だれが抜擢されるか、はたして上司はおれの実績をどのくらい認めているのか―と決着がつくまでは、イライラのしっぱなし。
この「イライラ」が、そもそもストレスの原因にほかなりません。
外からの刺激に対して、すんなり適応できていない証拠なのです。
かといって、めでたく抜擢され、昇進したとしても、ストレスから解放されるわけではありません。
中間管理職がかかえる、いわゆる「マネージャー病」が待っています。
管理職になれば、それまで以上に会社の組織の締め付けを強く意識せざるをえません。
平の社員なら聞き流すことのできる上からの注文が、一つ一つ気になります。
また、それまでは自分のペースで仕事をすればよかったのに、管理職として部下を統率しなければならないので、つい「今どきの若者は」というグチも出ようというものです。
このようにストレスは、たしかに外部からの刺激、あるいは内部の心理的な刺激から生じますが、それを受ける個体側の要因も考えなければなりません。
つまり、ストレスを生じさせる刺激が千差万別なら、それを受ける側も千差万別なのです。
ごくわかりやすい例をあげれば、ビジネスマンの転勤です。
若い独身者なら、転勤もさして苦になりませんが、家族もあり、ようやくマイホームを手に入れたビジネスマンにとっては、人生の一大事件になりかねません。
同じように、酒の飲める人は、毎夜、接待酒に付き合わされても、ケロリとしていられます。
しかし、弱い人は接待と聞いただけで嫌な気分になり、それが重なればストレスの原因になります。
また、同一人物であっても、タイミング次第で刺激の受け取り方も変わってきます。
身体的には心理的にも弱っているときは、簡単にストレスが重なります。
じつはこれが、現代のストレスを語る場合の重大問題なのです。
現代のストレスの特徴は、つねに単一ストレスではないこと、複合ストレスで、しかも、持続するところにあります。
しかも持続することにその特色があり、しかも同じ刺激を受けても、受ける個人によって受け取り方が違うということになるでしょう。
この個人個人の受け取り方の問題は、つまり、その人の性格と密接なつながりをもってくるのです。
仮に転勤を例にとってみても、いろいろな要素がからんでいます。
まず、会社の問題があります。
このまま定年まで支店勤めになるのではないか。
その間に、ライバルだった同僚が、すいすいとエリートコースを歩むのではないか。
一方、家庭との板挟みにもなってきます。
子どもがちょうど進学期にさしかかっていれば、単身赴任を余儀なくされることもあるでしょう。
中年の一人暮らしという不自由な生活をしいられながら、新しい任地での仕事に適応しなければなりません。
週末になれば、やはり家が心配なので家に帰りたい・・・。
まさに複合ストレスの典型といってもよいでしょう。
こうしたストレスが持続すれば、よほど強靭な心をもっていない限り、なんらかの心のマイナス状態をきたすことは目に見えています。
先のセリエ博士の実験でも、刺激に適応しようとする抵抗は、刺激がえんえんと続くと弱りはてえtしまうことが証明されています。
つまり、現代の日常用語を使えば「ストレスがたまる」という結果になります。
この状態は、心身双方にとりけっしてかんばしいものではありません。
動物の実験では、刺激を与え続けることによって、「ストレス潰瘍」ができることさえも証明されています。