
”「メサイアコンプレックス」の二つの原因”
自殺するほどの劣等感をもちながら、「世界の悩んでいる人を救いたい」などと言うメサイアコンプレックスには二つの原因があると思っている。
一つは、優越への願望が強いと言うメサイアコンプレックスである
メサイアコンプレックスの人は「世界を救いたい」と言うほどに、人に優越したいのである。
だから、メサイアコンプレックスの人は優越できない自分に深刻な劣等感を持つ。
もう一つは、アイデンティティーが確立していないメサイアコンプレックスである
自分は隣人一人救えないから、とても人類を救うことなどできないと思っているのが、心理的に健康な人である
それなのに、メサイアコンプレックスの彼らはなぜ深刻な劣等感をもちながら、「世界を救う」などと言うのだろうか。
それは、劣等感を持っている「この自分」がないからである。
自分とは「この体を持った自分」である。
自分とは「この心を持った自分である。
この親やこの兄弟を持った「この自分」である。
いつも現実から逃げている「この自分」である。
臆病な「この自分」である。
人の為に尽くすのが嫌な「この自分」である。
いつも得しよう、利益を得しようとしている「この自分」である。
この腕を持った「この自分」である。
煮魚の嫌いな「この自分」である。
この体力のない「この自分」である。
この気の弱い「この自分」である。
この顔の「この自分」である。
こういう友達がいる「この自分」である。
この性質の「この自分」である。
この利己主義の「この自分」である。
このセンスの「この自分」である。
この食欲の「この自分」である。
この声の「この自分」である。
この身長の「この自分」である。
この年齢の「この自分」である。
なかなか寝付けない「この自分」である。
すぐに落ち込んでしまう「この自分」である。
メサイアコンプレックスを持つ彼らは、そうした「この自分」には現実感がない
他ならぬメサイアコンプレックスの人はこの自分自身に現実感がない。
もし、「この自分」に現実感があれば、世界の悩める人を救いたいとは言わない
メサイアコンプレックスを持つ人は、自分が何者であるかが理解できていない。
その「現実の自分」のメサイアコンプレックス、「この自分」に現実感がない。
だから「世界を救う」という途方もない言葉がメサイアコンプレックスの人からは出てくるのである。
青年期の課題であるアイデンティティーの確立がメサイアコンプレックスの彼らはなされていないのである。
自分と他人の間の自我の境界がメサイアコンプレックスの人はない。
同じようなことが、メサイアコンプレックスの人はかつて人口に膾炙した「モラトリアム人間」にも当てはまる。
大人になりたがらない若者達である。
彼らも、いくつになっても自己限定することができない。
自分は一商社マンだとか、自分は一新聞記者だとか、メサイアコンプレックスの人は自分を限定していないで、いつも夢みたいなことを言ってる人がいる。
就職をしないで大きな事ばかり言っている人もいれば、就職しても、それが自分の本来の職業だと自分を限定していけないメサイアコンプレックスの人もいる。
メサイアコンプレックスの人はいつになってもそれは仮の職業なのである
フリーターもメサイアコンプレックスの人のようにおおきなことは言っていないが、アイデンティティーが確立されていないのではないか。
救世主は存在しない
人は、ときに自分の心の問題を、人を巻き込むことで解決しようとする。
それなのに心の葛藤を解決しようとしている人自身は、「相手のため」と思っていることがある。
人を救いたいという「メサイアコンプレックス」。
深刻な劣等感を持っている人は、ときに人を助けたがる。
劣等感が、「人を救う」という仮面をかぶって登場している。
自分が悩んでいるのに「人類を救いたい」などという、常軌を逸した事を言う。
メサイアコンプレックスは、本当は相手を犠牲にして自分が救われようとしているのに、言葉としては「相手のため」にしていることになる。
「苦しい、つらい!」と叫ぶ人が、人を犠牲にして生きていることがある。
こういう人に、巻き込まれた人はたまらない。
善意や愛や正義を掲げて絡むからしつこい。
断っても、断っても絡んでくる。
人は無力感をもつと、感謝されたい。
そこで相手のために何かをして、感謝されようとする。
メサイアコンプレックスのような心理から、「人のために」頑張っている人がいても、人付き合いの苦痛が治ることはない。
自分が溺れそうになっているときに、人を助けられない。
「人を助けたい」と思っているのに人間関係がうまくいっていないときには、自分が溺れていることを認めることである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには自分のメサイアコンプレックスに気付くことが一歩です。