人が怖い人は理解されない
人が怖くなるような人は、とにかく責任を避ける。
問題を解決することを避ける。
そして今、満足を求める。
人が怖い人の求めているものは「お金を払わないで、物を買う方法を教えてください」ということである。
人が怖い人が心の底で求めているのは、イギリスの精神分析家ジョン・ボウルビィのいう「愛着の有効性」である。
わかりやすくいえば、「母なるものをもった母親が、自分の望むときにそばにいてくれること」である。
だから人が怖い者は、母親にあやしてもらいたい。
育てられたい。
周囲の人がそういう態度でないと嬉しくない。
その態度をはたから見ると、我がままである。
しかし人が怖い者はまだ基本的な欲求が満たされていないだけの話である。
だから周囲からは我がままに見えるが、本人は我がままとは思っていない。
しかし人が怖くなるような人は、その我がままを直接的に表現できない。
人が怖い人は心は欲求不満なのに、行動は我がままでなくなっている。
それで、にっちもさっちも動けなくなっているのである。
我がまま放題で、はたからは「完全にスポイルされた」と見える人もいる。
人が怖くなるような人のほうは、いつも「立派なフリ」をしているが、心の中は立派ではない。
だから「立派なフリ」はエネルギーを消耗させる。
人が怖い者は退行欲求を満足させること以外に、何かをして満足することはない。
人が怖い人は何をしても満足はない。
満足がないということが、人が怖い者の共通した症状である。
退行欲求以外に欲求はないのだから、何をしても満足がないのは、ある意味で当たり前である。
だから好きなものがない。
つまり人が怖い人は周囲の世界に対して退行欲求しかないのに、周囲の世界はその退行欲求を満たしてくれない。
「誰かにあやしてもらいたい」のに、周囲の人はあやしてくれない。
そうなると周囲の人が何をしてくれても、人が怖い人は不満になる。
「これをしてほしい」ということをしてくれないのだから、不満になるのは当たり前のことである。
しかし周囲の人からすれば、「こんなにいい生活をしているのに、何が不満なの?」ということになる。
「こんなにみながしてあげているのに、何が不満なの?」ということになる。
その「してあげていること」が「してほしいこと」ではない。
人が怖くなるような人と周囲の人では、この「ずれ」があるから、人が怖くなるような人はいつもイライラしている。
社会的、経済的に恵まれていても、日常生活はいつもすべて不満である。
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「人が怖い者を励ましてはいけない」本当の理由
普通の人は、励まされている時に「あー、この人は自分に、心の杖を貸してくれているんだな」と思える。
しかし人が怖い人は、その杖さえもムチに見える。
「あやしてもらっている」のではないから。
同じものが人が怖くなるような人には「ムチ」に見えるし、普通の人には「心の支え」に思える。
その「ずれ」を理解しないから、「励まし」が人が怖い者を傷つけるのである。
人が怖い人は自分がしてほしいことは、誰もしてくれない。
人が怖い人にとって日常生活は本人からすれば、我慢の連続である。
人が怖い人はその不満を外に表現できない。
人が怖い人は誰も「私はどうしようもなく不満だ」という、この気持ちをわかってくれない。
こんなときに、もし人が怖い者の退行欲求に理解を示す人がいれば、「あの人だけは、わかってくれる」と思い、「あの人のためなら何でもしたい」という信頼感が生まれる。
その信頼感が生きるエネルギーになる。
ただ、人が怖い人の周囲には、残念ながらそういう人がなかなか現われない。
人が怖い者が何を求めているかがわからない、的確につかめないということは、人が怖い者と周囲の人とが心理的に遠い距離にあるということである。
もちろん人が怖い者のほうも、周囲の人の気持ちに共感できない。
共感できない人が怖い者は心の底で、いつも「ひとりぼっち」という「仲間はずれ意識」に悩まされている。
共感できないから、人が怖くなるような人も周囲の人のために一生懸命に頑張るが、周囲の人がしてほしいことではないことばかりをする。
そこでお互いに一生懸命でも、お互いに相手に不満がある。
だから、お互いに気持ちが打ち解けない。
お互いに求めているものがまったく違うということが、どうしても理解できない。
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人が怖い人は「結果」ばかり気になる
人が怖い人のおおもとの欲求は、母親があやしてくれることである。
とにかくあやしてほしいということに、気持ちがいっている。
人が怖い人はすべてのことはそのかわりのものだから、何をしてもらっても本当の満足はない。
人が怖い人は「もっと、もっと」になる。
人が怖い人は何をしても真の満足がない以上、何かをしたら、その結果として業績を求めるのは当たり前である。
人が怖い人は何かをする時の目的は価値達成であり、欲求達成ではない。
人が怖い人は「それをしたい」という欲求を達成することではない。
それをしたら価値があるというからそれをする。
欲求達成タイプの人が怖い人は、それをして満足する。
それ以外のことは附随してくれば嬉しいし、附随してこなくてもいい。
人が怖い者は退行欲求が満足したあとではじめて、それ以外の欲求が出てくる。
デートをしても、旅行をしても、映画を観ても、スポーツをしてもそれがなんらかの利益につながらないと満足できない。
人が怖い人は何か物足りない。
人が怖い人はデートをしても、もうひとつ何かが欲しい。
それが価値達成タイプの人のデートである。
デートそのものから満足が得られれば、利益はいらない。
利益がなくても満足しているのが、欲求達成タイプである。
何かを食べて、おいしいだけで満足できる人と、おいしいだけでは満足できない人の違いである。
おいしいものを食べたいというのは欲求である。
そのおいしいものを食べて、それだけで満足するのが欲求達成タイプの人である。
「この満足がなくなっていくことが、人が怖いという病の中心的特徴である」。
人が怖い感情が進行するにつれて、満足の得られない活動が生活全域に広がる。
価値達成タイプの人が怖い人には本当の満足の体験がない。
それがあれば、心の支えになる。
価値達成タイプの人が怖い人にとって、欲求達成タイプの人はある意味で異邦人なのである。
逆も同じである。
人は心が満たされていないと、紙くずひとつ拾えない。
人が怖い人は心に余裕がないと、シャワーを浴びるのも面倒臭い。
タバコの吸い殻を道路に捨てていく人を見ればわかる。
心が満たされていない顔をしている。
歩き方からして欲求不満を表わしている。
しかしそれを片づける人は、心が満足している顔をしている。
心が豊かになってはじめて、部屋の整理整頓もできる。
それ以前の整理整頓は恐怖と不安からである。
部屋を綺麗にしようという気持ちは、心の満たされた人の気持ちである。
人が怖い者が部屋を片付けようとすると、完全に片づけようとする。
その第一の原因は、過程を大切にして生きてこなかったからである。
第二の原因は、人が怖い者の心が満たされていないことであり、その結果、なぜ片付けるかがわかっていないことである。
片づいているほうが気持ちよい。
綺麗なほうが気持ちよい。
普通の人は、できれば気持ちよく生活したい。
シャワーを浴びるのもさっぱりしたいからである。
人が怖い人は五感がわからないから、過程が大切でない。
普通の人はなぜ片付けるのかがわかっている。
片づける目的がわかっている。
だから片づけられる。
さっぱりしたいからシャワーを浴びる。
シャワーを浴びる目的がわかっている。
人が怖くなるような人は自分が何者で、何をするために生きているのかがわからないのである。
部屋を散らかしっぱなしでも御飯をもってきてくれる、怠けていても許される-そんな環境を人が怖い者は求めている。
自分も人も信じられなくなった人が怖い者は、どうしたら甘えさせてくれるのかを毎日考えている。
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人が怖い人と孤独はつながっている
「お金がない」といえば、「そう、大変ね」と理解してもらえる。
しかし人が怖い人が「幼児性が満たされていない」といっても「そう、大変ね」とは理解してもらえない。
つまり人が怖い人は「退行欲求がみたされていない」といっても、「かわいそうに」とは理解してもらえない。
「食欲が満たされていない」といえば、それは大変だとなる。
しかし幼児性がみたされていない人が怖い者は、まだ幼児として甘えながら毎日を遊んでいたいのである。
人が怖い人が本当に望んでいることは、幼児のようにして毎日、無責任に遊ぶことである。
それ以外には、本当に楽しいことはない。
彼らが本当に望んでいることは「お母さんにあやしてもらいたい」ということである。
人が怖い者に楽しいことがないというのは、そういうことである。
人が怖い者は本当にしたいことをして生きていない。
だから生きることがつらいのである。
他人からは、「あんないいことばかりしていて」と見えるかもしれないが、人が怖くなるような人が本当にしたいことは、そのときにしていることではない。
人が怖い者がしているのは、ときに自分の傷ついた心を癒しているかもしれないが、本当にしたいことではない。
だからいくら社会的あるいは経済的にいいことをしていても、少しも楽しくはない。
たとえば立派なことをして誉められる。
でも、それは人が怖くなるような人が本当にしたいことではない。
うつ病者も、もし外の世界に関心がいけば治るのだが、それが難しい。
「お母さんにあやしてもらいたい」という気持ちが強すぎて、他人の幸せに関心がいかない。
他人の幸せを考えて、それを実行する。
それは人が怖くなった人にとって、最も難しいことなのである。
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本当の友達はいますか?
たとえば、ある子どもに本当に好きな人がいる。
その人といると、ありのままの自分でいられる。
その人と遊んでいると楽しい。
その人といると楽しい。
しかしその人は、周囲の人から承認されていない。
その人といると「よい子」になれない。
立派な人になれない。
そこで一緒にいても楽しくない人と一緒にいる。
人が怖い人は楽しくはないが、「よい子」になれる。
人が怖い人は周囲の人から誉めてもらえる。
そこで一緒にいても楽しくない人といる。
人が怖くなるような人は、そんな心理状態で生きてきた。
それが長く続くうちに自分が本当にしたいことは何かがわからなくなった。
それが対人恐怖症者であろう。
自分では誰といると楽しくて、誰といると楽しくないかがわからない。
だから何をしても楽しくないのである。
しかし無意識ではわかっている。
それが人が怖い人であろう。
本当に一緒にいて楽しい人といれば、人が怖いことは治る。
しかし、意識の上では自分が今、誰といれば楽しいのかがわからない。
人が怖くなるような人にとって、嬉しいことと楽しいこととが両立しない。
矛盾している。
人が怖い者は楽しいという体験をあまりにも長いことしていないから、もう何をすれば楽しいかも、楽しいことはどういうことかも、わからなくなっている。
さらに楽しいことを体験する能力そのものを失った。
そして、もしそれをすれば楽しいということがわかったとしても、それをして、今もっているものを失うのが怖い。
心を強くする効果的な方法
小さい頃、「その人に同一化する」ということは、「その人といると楽しいという人といる」ことである。
そういう人がたくさんいれば、青年期には自己同一性の確立ができている。
まさに自我基盤の脆弱とは正反対である。
ところが人が怖い人は小さい頃から大人になるまで、そういう人と一緒にいなかった。
その結果、自我の基盤が脆弱になる。
それ以後は悪循環である。
人が怖い人は自我の基盤が脆弱だから、周囲の人から認めてもらえるような人とかかわっていく。
人が怖い人は一緒にいて楽しくない人と一緒にいることで、自我の基盤がますます脆弱になる。
そして自己疎外される。
その結果、ますます自分の内面の空虚さを補うために、周囲の人が認めてくれるようなことをしようとする。
人が怖い人は楽しいことをしても基本的不安はその場ではなくならない。
これもまた悪循環である。
人が怖い人はその場での安心を求めて内面がどんどん崩壊する。
一緒にいて楽しい人といるか、一緒にいて楽しくはないが自分が認めてもらえる人といるかの選択で、基本的不安がある人が怖い人は、つねに一緒にいて認めてもらえる人といるほうを選択する。
人が怖い人は不安を回避するために楽しいことを放棄する。
しかし楽しいことをすることで自我同一性は確立してくる。
人が怖い者はこの、人としての矛盾を自覚して乗り越える以外にはない。
人が怖くなった段階で、小さい頃からの自分の人間関係をじっくりと反省してみるしかない。
あの人と付き合っていたのは、楽しいからか、それとも周囲の世界から認めてもらいたいからか。
あるいはあの人といるときは、何も成果を求めていなかった、会っているだけで満足していた。
そういう人がどのくらいいるか?
人が怖い者には、おそらくそういう人はだれもいないであろう。
人が怖い人はそんな人と一緒にいてもひとつも楽しくない。
でも認めてもらえます。
こちらはよく自分を見つめてみれば、たくさんいるに違いない。
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その我慢が、大切な人を遠ざけている
人が怖い人はその人といても少しも楽しくない人と、いつも一緒にいた。
「その人とこんなことをしていても、ちっとも楽しくない」。
そういう人といることで、人が怖い人はいつのまにか「この人といても楽しくない」という感じ方すらできなくなった。
本当は「あの人と遊んでいたい」と思う。
でも人が怖い人はその意識を無意識に追いやる。
それで一緒にいても楽しくない人と、楽しそうな仮面をかぶって一緒にいる。
人が怖い人は本当はその人といたくないのに一緒にいるうちに、自分が誰と一緒にいたいのかも、わからなくなる。
本当はまだあの子と、どろんこ遊びをしていたい。
しかしお母さんやお父さんに「よい子」を演じながら、「良い友達」と一緒にいる。
あるいは「立派な人」と一緒にいる。
この年月の積み重ねの中で、「楽しい」という感覚を失った。
親に気に入られるために好きでない人を「恋人」にして、その恋の実現に頑張ったのが人が怖い者。
好きな人との恋の実現に頑張ったのが、逆境に強い人である。
人が怖い人は「あの子といると楽しい」という子といないで、あるいは「楽しい」と思うことをしにないで、周囲の人に気に入られることばかりしているうちに、楽しいという感覚を失った。
このことは大きい。
人が怖い人は物事への興味と関心を失ったのである。
楽しいとは、誰に認められなくても、誰に誉められなくても、何のプラスをもたらさなくても、それでも十分に満足することである。
「あの人といると楽しい」とは、その人といて時間の経つのを忘れ、時間がくると満足しているような人である。
劣等感のある人が怖い人などは、自分の利益にならない人といても、十分には満足しない。
自分の仕事にプラスにならない人といても満足しない。
楽しいとは、何もなくてもその時間に十分満足することである。
別に楽しいイベントがなくても楽しいということである。
旅行をする、食事をするというようなことがなくても、十分に満足することである。
この「楽しい」という体験こそ人生の土台である。
人が怖い者には、その土台がない。
人が怖い者は夢中になって何かに参加したことがない。
人が怖い人は無理しているから疲れる。
人が怖い人はリラックスして話していることがない。
真剣に話すことがなかった。
人との会話がなかった。
人が怖い人は興味のある話に参加した経験がない。
人が怖い人は興味のない話は疲れる。
人が怖い人は興味のあるフリをしているから疲れる。
小さい頃から楽しいという体験があるのとないのとでは、日常生活の感覚が違う。
楽しいという体験があり、楽しむ能力がある人の生活は、ゆとりがある。
急かされてはいない。
今日を楽しく生きていれば、人が助けてくれる。
ときには仕事もくる。
しかし人が怖くなるような人は楽しく生きていないので、助けてくれる人がこない。
楽しいことを達成すると、その上の期待ができる。
人が怖いことを悩ませた非現実的なほど高い期待は、万一達成されても焦りしかない。