同じ体験をしても非寛容なパーソナリティの人の話と、寛容なパーソナリティの人の話は違う。

寛容なパーソナリティは「いい経験をした」と言う。

非寛容なパーソナリティの人は「ひどい目にあった」と言う。

寛容なパーソナリティの人が、フラストレーション・トレランス(欲求不満耐性)は比較的高いようである。

どういう家庭で育っているか。

「寛容な児童は、許容的な雰囲気の家庭に多いようである。

彼らは歓迎され、認められ、愛され、何をしてもいいのだと感じる。

ひどい罰とか気まぐれな罰がなく、いつなんどき頭上に親たちの雷が落ちるかもしれないぞとばかり衝動を警戒しなくてすむ」

寛容な人は寛容になる人間環境で育っている。

自然なコミュニケーションを学習して成長してきた。

「私は悪くない」「私ばかりつらい目にあう」と言うような人は皆、寛容なパーソナリティになる人間環境で育っていない。

自然なコミュニケーションを学習して成長してこなかった。

だから自分は非寛容なパーソナリティだと思っても自分を責めてはならない。

自分を責めても何の意味もない。

自分を責めている間に寛容なパーソナリティの人から幸せになる方法を学ぶ。

非寛容なパーソナリティの人は、心理的に健康な人よりもはるかに試練の多い人生を神から授かった。

「心をすまして、神は自分に何を言おうとしているのか?」を考える。

非寛容なパーソナリティの人は、何か自分の思うように事が運ばないと欲求不満になり、自分はひどく傷つけられたと感じる。

自分が被害を受けたと感じる。

「こうなるべき」と思い込んでいれば、自分が加害者であるにもかかわらず、自分は被害者と感じて不思議ではない。

自分が身勝手な要求をしてトラブルを起こしておいて、あの人のために「こんなに痩せてしまった」と言う。

自分はこのトラブルの責任者ではないと思い込んでいる。