心のよろいをぬごう

心につけた硬いよろいをぬいでみる

自信には種類があります。

それは、根拠がある自信と根拠がない自信とに分かれます。

これはどういうことかと言うと-世間で言うところの「自信」では、その自信の”根拠となる理由”を外から探して持ってきます。

たとえば、「私はこんなに難しい仕事を成功させた」「あの人にほめてもらえた、評価された」「これだけのすごい成功体験をした」という具合にです。

そして、自分が納得できる”成果”を出せたときに、我々は「自信がついた」と言いますよね。

「そんな自分を少しは認めてあげてもいいかな」と。

もちろん、それによって自分の新たな可能性を信じられるようになることもあるから、とてもすばらしい!

でも、そこばかりに頼ってしまって、そればかりを求めるようになること、つまり、こうした外から持ってきた自信は、心に硬いよろいを身につけるようなもの。

一見すると立派になったようでも、”予期せぬ敵”が攻めてきたり、身につけてから長い時間が経って古くなったりすると、必ず無理がたたって、そのよろいをぬがなくては耐えられなくなります。

すると、自分が以前よりも弱くてダメなやつになったような気がする。

そして、「もっと強くて立派なよろいを着込まなきゃ」と、さらに強力な”自信の根拠”を探しに遠征に出かける・・・。

一度このループに迷い込むと、非常にしんどくて苦しい。

そうではなく、自分の内側から出てくる自信が大切です。

実は、「自信」というものは、外に探しに行かなくても、ちゃんと”自分の内側”にあるのです。

硬いよろいの下の、あなた自身の体の中で、すやすやと寝息を立てて眠っています。

いえ、今まで無理やり寝かしつけてきたのです。

それを見つけて、目覚めさせて、すこやかに育ててあげてほしいのです。

人は自分が思った通りのことを引き寄せる

そのために大切なのは、まず「自分が自分をどういう人間だと思っているのか」に気づくことです。

たとえば、「自分はダメな人間」だと思っていたら、それにお似合いのダメな場所に住みます。

安いものしか買わないし、持たないし、ダメな人としか付き合いません。

ダメな自分には、ダメな場所・もの・人がふさわしいと無意識のうちに思っているから、当たり前のように”ダメな環境”に身を置くようになるのです。

そんなふうに、自分が自分をどう評価しているかで、自分のまわりの環境が決定されていくのです。

それでは、自信を育てるためには、いったい何をすればいいかというと-答えは非常にシンプルです。

山にこもって修行をするとか、たくさんの人とコミュニケーションをとるとか、そういう難しいことは一切必要ありません。

ただ「ものの見方を変える」-それだけでいいのです。

ものごとを様々な角度から眺めてみる

たとえば、ここに円筒状の水筒があるとします。

横から見たら四角ですが、上から見たら丸ですね。

ここで、「今まで自分がずっと四角だと思っていたものが、実は同時に丸でもあったんだ」ときづくだけで、世界はかわります。

この”新しい視点”を手に入れることで、自分の人生の中の誤解が解けるのです。

「AはBなんだ」とずっと思い込んでいましたが、実は「AはBかもしれないけれど、同時にCでもあった」と気づくということです。

今までの我々は、目の前で起こることすべてを、よりによって”一番悪く見える位置”から見ていたのかもしれません。

それを今日からは、一番きれいでハッピーに見える位置や角度から眺めてみるようにする。

それだけで、人生は劇的に変わります。

まず機嫌がよくなって、少々嫌なことがあっても、すぐに忘れます。

「いいこと」が目に入ってくるようになります。

いつもニコニコ、ごきげんでいられるようになります。

それが、「ものの見方を変える」ということです。

苦しいときこそ、現在、いいところを通っている、しるし

「ものの見方を変える」

これをもっと具体的に言い換えると、自分には「ない」と思っているものが、本当は「ある」「あったんだ」と「知る」ことです。

我々の身のまわりで問題が起こるとき、そして、ものごとがうまく流れないとき、そこには共通点があります。

それは、「何かがない」と思っていることです。

典型的なのは、「お金がない」「愛情がない」「魅力(能力)がない」です。

そして、「自信を育てる」とは、この「ない」を「ある」に変えていくこと。

「自分には~がない」から「実は、自分には~がある」に変える-これが「ものの見方を変える」ときの、一番のポイントです。

「ない」を「ある」に変えるときの最大のチャンス、それは「怒り」の感情や「苦手」意識が湧いてきたときです。

「あの人のことが癪に障って仕方がない」「あの人と話すのが苦手で、どうしたらいいかわからない」

そんな相談や愚痴を聞くと、「宝物を引き当てている最中だな」と思います。

ひと山越えると景色が変化する

「今、こんなことで困っているのですが・・・」と悩んでいる人は「現在いいところを通っている」ということです。

どうしてそうなるのかというと人間はいろいろなことに悩んで、山を乗り越えていく生き物だからです。

そして、ひと山越えるたびに、確実になにかがよい方向に動き続けているのがわかります。

だから誰かが何かにつまずいて悩んでいるときは、「今、いいところだね」ということです。

自分の心の大前提を見つめる

休めない、手を抜けない、苦しい。

だって、手を抜いたら、見捨てられる。

手を抜いたら、ここにいられない。

全力でやらなければ、役割を果たさなければ、まわりに見捨てられる。

我々がそんな”恐怖のループ”に入り込んで、苦しみ悩んでしまっているとき。

こんなときは、そもそもの心の大前提が「自分は役に立たない人」になっているから、「頑張ること」で、自分の価値を作ろうとしているのです。

この役割を果たしてやる。

期待に応えてやる。

負けたくない。

期待を超えてやる。

すごいと言わせてやる。

絶対、弱音は吐かない。

そんな頑張り方で、うまくいくこともあるでしょう。

でも、いつか必ず限界がきます。

壁にぶちあたります。

「こんなに頑張っているのに、苦労しているのに、むくわれない」という壁に。

そんなときは、頑張る方向が間違っているのです。

「お金は苦労して儲けるものだ」「働かざる者食うべからず」「働くとは苦しいものだ」「努力は報われる」「苦労を乗り越えて人は成長する」と信じている人は、わざわざそういう苦労する経験をしに行きます。

自分を”楽させない”ような現実を次々と巻き起こします。

それは、頑張る方向を、「自分」ではなく「他人」「周囲」「会社」「家族」「社会」・・・つまり、自分ではない誰かに向けていたから。

好きなこと、やりたいことに夢中になると応援してもらえる

誰かのニーズや期待に必死に応えようとするのではなく、自分の「やりたいこと」「好きなこと」に夢中になるから、まわりの人は応援したくなるのです。

結果としてニーズを作り出し、顧客を巻き込むんです。

「好きなこと」に没頭している様子は、まわりからは苦労と我慢をしているように見えることもあるかもしれません。

でも本人にとっては、実はそうではないんです。

今までの自分の頑張りは、好きなことにかけてきたのか、やりたいことに夢中になってきたのか、それを振り返ってみましょう。

ただ、意地を張っていただけじゃないか。

ただ、反発していただけじゃないか。

ただ、意固地になっていただけじゃないか。

「自分には価値がない」という思いから逃げるために、我慢しているだけではないか、と。

頑張るより自分の心を見つめる

役に立たなくても、何もしなくても、喜ばせなくても、あなたには価値があるのです。

それを信じられないから、頑張り続けることを止められず、それなのに結果が出ない、認められない、愛されない。

実はこれまで「頑張ること」で、自分と向き合うことから逃げてきたからかもしれません。

そこにきちんと向かい合ったうえで、頑張らなくても、何かができても、できなくても、自分には価値がある。

自分は愛される人間だ。

自分は愛することのできる人間だ。

そこを信じられたときにはじめて、自分のまわりにある、あふれるほどの豊かさと愛情に気づけるのです。

そのためには、「必死に頑張る」ことを、勇気を持ってやめてみるしかないのです。

夢中になって頑張る

小さな頃に、洋服の一番下のボタンをかけ間違えてしまったとき。

一番下のボタンをかけ間違えたから、胸元までとめてくると、どう頑張ってもおかしくなる。

これと同じようなことが、大人になった僕たちにもよく起こっています。

「頑張っても満たされない」「いくら頑張っても、成果が出ない」という状態です。

そんなヘンテコな服だから、ずっとコートを着て隠してないとカッコ悪い。

近づいたらばれるから、人に近づかない。

こんなみっともない格好では表には出られない、こんな自分ではお金なんてもらえない。

でも、せめて奴隷のように奉仕して頑張ったら、ちょっとぐらいならもらえるだろう。

そう思って、今までは頑張った分「だけ」もらってきました。

一番下のボタン、直しませんか。

「私は、愛されている」に直しましょう。

たった、それだけなんです。

今までかけてきたボタン、一回全部はずして、一番下からとめ直しましょう。

それが「大前提を変える」こと。

それが「今までの努力」をすべて捨てること。

それが「頑張らなくていい」につながる。

それが「どうせ何もできなくても自分は愛されている」ということ。

ひた隠しにはせず、笑い飛ばす

うまくいってないときの自分を、誇れますか。

うまくいかなかった頃の自分を、許せますか。

うまくいってないときの自分を、笑えますか。

ダメな自分、うまくいかない自分、愛されてない自分-そんな自分を、今の自分が笑えたら。

「頑張ったねぇ」「しんどかったねぇ」「カッコ悪かったねぇ」「未熟だったねぇ」「バカだったねぇ」「情けなかったねぇ」「みじめだったねぇ」「恥ずかしかったねぇ」と、笑って言えたら、人生は前に進むのです。

それを言えないで、ひた隠しにして、強がって、自分の足りないところを補おうとして、頑張る。我を張る。

もしくは、それを言えないで、自分をいつまでも卑下している。

頑張るのは、確かに素晴らしいことです。

ただ、その前提として、自分の弱さや、自分のできなさを、認めたうえで楽しんで頑張ることが大切なのです。

夢中と必死の違い

いいことを言ってくれた人がいます。

「夢中」と「必死」の違いだねって。

自分の弱さや自分のできなさを消し去るために、罪悪感、劣等感をエネルギーにして「必死」に頑張る。

笑顔をエネルギーにして、「夢中」になって頑張る。

「夢中」と「必死」では、終わった後の心の充実感が、まったく違います。

あなたは、どちらの”頑張り方”がしたいですか。

うまくいってないときの自分、ダメだった頃の自分、今もダメな自分、頑張っている自分、頑張れない自分・・・。

どれも自分です。

嫌がっても全部自分です。

隠しても全部自分です。

まとめ

心のよろいをはずして素の自分で他人と接すると楽になる。

苦しいときこそ、谷といういい位置を通っている途中。

自分の深層心理にある大前提を見つけ出そう。

夢中になれると心洗われる。