自信がないの偽りを見抜く6つの方法

それは本当に自信がないのか?

ここでは自信がないという気持ちとの向き合い方をお話ししていきます。

自信がないという言葉はいろいろな場所で耳にしますが、果たして本当にすべてが、自信がない状態なのでしょうか?

自信という言葉はいろいろな意味で使われるものです。

中には、ほとんど自分と関係のないことについて「自信」という言葉を用いる人もいます。

「明日のお天気、自信がないんだけどね・・・」などと言うとき、それは単なる天気の話で、「明日の天気がどうなるか、確信が持てない」というだけのこと。

単なる、天気予報です。

天気だけではなく、自分の未来についても、単なる「予報」に過ぎないことを「自信」という言葉を用いて語ってしまうことがあります。

次の例を見てください。

例:移動先の職場でうまくやっていけるかどうか、自信がない。

新しい環境に入るとき、こんなふうに「うまくやっていけるかどうか自信がない」と感じる人は多いと思います。

実際に、新しい職場での毎日がどうなるかは、よくわからないもの。

その職場にどんな人がいるか、仕事の内容がどんなふうになるか等、現時点では「未知」なものによって左右されるからです。

ですから、どんなに考え抜いたところで、未来はやはり「未知」なのです。

気持ちを正確な言葉にしてみる

この文章をより正確に言い直せば、「自信がない」のではなく、

「異動先の職場でうまくやっていけるかどうかわからなくて、不安だ」

ということになります。

このように「正確な気持ちに言い直してみる」ことは実はとても重要です。

ここでは、「自信がない」の正体は「不安」ということになるでしょう。

「正確な気持ちに言い直してみる」ことがなぜ重要なのかは、不安という感情について見ていくとわかってきます。

「不安」は状況を知らせるサイン

生物には様々な自己防御機能が備わっています。

もちろん、人間にもあります。

例えば、熱いものに触ると「熱い!」と感じて手を引っ込めますが、こうした身体の感覚は、「その状況が自分の身体にとってどういうものか」を知らせてくれるものです。

熱いと感じるから、手を引っ込めて自分をやけどから守ることができるのです。

身体の感覚が「その状況が自分の身体にとってどういうものか」を知らせる機能を持っているのに対して、感情は「その状況が自分という存在にとってどういうものか」を知らせてくれるものです。

「不安」は、「安全が確保されていないこと」を知らせる感情です。

「不安を感じるから慎重になり、危険を防ぐことができる」と考えれば、それが果たしている役割がわかります。

「異動先の職場でうまくやっていけるかどうか」は、「同僚や上司はどんな人か」「まずはどんな仕事をするのか」等、複数の「未知」の要素によって左右されるため、まったく「未知」なもの。

当然、安全が確保されるわけがありません。

ですから、不安を感じるのは人間としてむしろ当たり前なのです。

つまり、ここで「自信がない」ととらえると、「自分の弱さ」に目が行ってしまうのですが、「不安」という正確な気持ちに言い直してみると、「未知のものへの不安なのだから仕方がないな」と思えるようになるでしょう。

ポイント:どうにもならない不安は、自信のなさとして感じられることがある

「自信のなさ」と「不安」を混同しない

前項の例での「自信のなさ」の正体は、「不安」だということを見てきました。

ここで大切なのは、「不安という感情」と、「自信のなさ」を混同しないことです。

ある状況に関して不安を感じるのは、そこに安全が確保されていない何かがあるからであって、自信が足りないからではありません。

不安を感じる自分を「弱い」「ダメだ」と思わずに、「不安を感じるということは、安全が確保されていない要素があるということだな」と考え、「何かの形で安全を確保できるだろうか」と検討したり、「これはどこまで行っても未知の要素が残るから、この不安は感じるしかない不安だ」と位置づけたりすればよいだけなのです。

「感じるしかない不安」なのであれば、「まあ、ここで不安を感じるのは人間だから仕方がない」と思うこと。

そうすれば、「自分についての感じ方」を損ねずにすみます。

つまり、「不安は感じているけれども、自分についての感じ方は悪くない」という状況を作り出すことができるのです。

そんな状況の中でがんばっている自分に愛おしさを感じることができれば、さらに自分についての感じ方をよくすることができるでしょう。

「不安を持つこと」と「自信を感じること」は両立させられる。

そう言われるとなんだか妙な気がするかもしれませんが、これは事実です。

新しい職場への不安のような、一見「自信のなさ」に感じられるものを、ここでは「なりすましの自信のなさ」と呼ぶことにします。

本当は自信とはなんの関係もなく、自信と共存することすらできるものなのに、「自信のなさ」のような顔をしているという意味です。

こうした「なりすましの自信のなさ」と本当の自信のなさを混同してしまうと、ただ「漠然とした不安」を感じているだけなのに、自分の人間としての価値が落ちたように感じられてしまいます。

つまり、本当に自信をなくしてしまうのです。

不安を減らすコツ

なお、未知なものに対する「不安」は、「感じるしかない不安」ではありますが、実は感じないようにすることもできます。

「不安を感じる」のは「DO」に目を向けているからです。

「うまくやっていける」という「成果」は、状況によって変わるものですから、未来の安全を確保することはできません。

そこに危険を察知するセンサーである「不安」が働くのは当然のことです。

しかし、「BE」に注目すると話は違ってきます。

「BE」は状況に左右されません。

例えば、「誠実に生きていきたい」「自分を大切にしたい」という「BE」を大切にしている場合、たとえ異動先の職場がどんなところであっても、やはりその「BE」を大切にし続けられるでしょう。

もしも、異動先になじむという「成果」が上げられなくても、「誠実に生きていきたい」「自分を大切にしたい」という「BE」をよりどころに、また「DO」を選んでいけばよいのです。

そう考えてみると、不安はぐっと減るはずです。

この「DO」は、場合によっては、新しい職場に見切りをつけて転職、というものかもしれません。

そんなときにも、「新しい職場でうまくできなかった」という「成果」だけを見れば自信はなくなります。

しかし、「誠実に生きていきたい」「自分を大切にしたい」という「BE」を大事にした結果、「誠実に、自分を大切にしながら働ける環境ではない」という判断をした、ととらえることができれば、自信を感じながら次に進めるでしょう。

ポイント:不安があっても、自信は感じられる

なぜ人は自信を失うのか?

人生には、「自信を失った」「自信がない」と強烈に感じる瞬間があります。

それは、心が衝撃を受けたとき。

これも「なりすましの自信のなさ」の典型例なので、よく知っておく必要があります。

人間の心は、本当にびっくりするような事態に直面すると、衝撃を受けてしまいます。

例えば、普段通りに出席した職場の定例会議で、突然上司から名指しで「仕事の仕方がなっていない」と注意されたら、心は衝撃を受けてしまうでしょう。

まさか自分が注意されるなどと思ってもいない無防備なときに、みんなの前でこんなにひどい形で注意をされたら、心はギョっとして傷ついてしまうのです。

このように衝撃を受けると、人間の心は、「もう二度と衝撃を受けたくない」というモードに入ります。

その衝撃が、「他人の優れたところ」「自分のダメなところ」に関連したものである場合、「もう二度と衝撃を受けたくない」心は、自分に厳しい目を向けます。

つまり「自分のダメな部分」ばかり見ようとしてしまうのです。

自分に何かしらの「落ち度」があったために衝撃を受けたわけですから、二度と衝撃を受けないためには、自分側を完璧に整えなければならない、という気持ちになるのは当然です。

これもまた、生物としての防御機能の一つです。

職場の会議で上司から注意されれば自分の「落ち度」に目がいくのも当然ですが、自分が注意されたわけでなく、同僚が輝かしい業績を上げた、などという事実に衝撃を受けた場合も、やはり「自分と同期なのにすごいな」「それに比べて自分は・・・」と、自分の「ダメなところ」に目が行ってしまいます。

ここで重要なのは、こうした自信喪失は、「本当の自信」があるかどうか、とは直接の関係がないもので、単に「衝撃への防御反応」に過ぎない、ということです。

これも、強烈な「なりすましの自信のなさ」なのです。

もちろん、日頃から「自信がない」と感じている人ほど、「他人の優れたところ」「自分のダメなところ」に関連したことに衝撃を受けやすい、という傾向はあります。

そのようなことに敏感だからです。

しかし、普段の自分が感じている「自信のなさ」と、衝撃を受けたときに感じる強烈な「自信のなさ」とは、明らかに別の性質のものです。

後者は単なる「衝撃を受けたときの一連の反応」に過ぎず、もともと感じている「自信のなさ」とは無関係で、やがてはおさまっていくものなのです。

例:周りが自分の好きな道で輝いたり、家族を持って幸せそうにしたりしているのに、そうしたとりえのない自分に自信が持てない。

こんな状況も、こうやって書くと、普段から自信が持てていないような気がしてしまいますが、周りが自分の好きな道で輝いたり、家族を持ったりしていることを現在知っているということは、それを「知った」瞬間があったはず。

つまり、そのときに「知るという衝撃」を受けているのです。

するとその衝撃が、「とりえのない自分」というテーマを直撃し、強烈な「自信のなさ」を引き起こします。

たとえ日頃から自分についてなんらかの不全感(足りない感じ)はあるとしても、それが急に、とても強く感じられてくるとしたら、これは衝撃への「一連の反応」にすぎないと言うことができます。

例:自分の人生に自信がないので、他人の幸せや成功を素直に喜べない

これも考えてみれば当然のことと言えます。

他人の幸せな様子が突然視野に入る、他人が成功したというニュースを聞く、というのはいずれも衝撃的な体験となり得ます。

「自分の人生に自信が持てない」という感覚を強烈に刺激されるときですから、素直に喜べたらむしろ異常だと言ってもよいでしょう。

こんなときも、「衝撃を受けたのだから、喜ぶどころではないのは当然」と、それを「人間として当然の反応」と認め、自分の本当の感情と混同しないようにしましょう。

自分の本当の感情と混同してしまうと、「人の幸せを喜べない心の狭い自分」ということになってしまい、自分についての感じ方は悪くなりますから、ますます自信を感じられなくなってしまいます。

しかし、そうではありません。

「人間なのだから仕方がない」のです。

ポイント:その自信のなさの裏に「衝撃」がないかチェック

衝撃から立ち直るには?

衝撃を受けると自信を大きく失ってしまうとお話ししましたが、立ち直り方は案外シンプルです。

それは、「もともとやっていたところに戻る」ということです。

衝撃を受けるまで、自分はそれなりに暮らしていたはずです。

「とりえのない自分に自信が持てない」と言いますが、「とりえのない自分」ということをそこまで強く意識せずに、コツコツと生きていた日常があったはず。

まずは、その日常に戻りましょう。

意識を「今はこれでよい」というところに持って行くのです。

自分の現状を「今はこれでよい」ととらえるのは、前進するのを放棄しているわけではありません。

むしろ、もっとも効果的に前進するためには、「自分はダメだ」と自虐的に自分を追い込むのではなく、「今はこれでよい」と「今」に集中することが必要なのです。

もちろん、キャリアアップにしろ、結婚にしろ、「自分が前進するためには」と、いろいろ考えていくのはかまいません。

ただ、そのように大きなことを考えていくのは、衝撃を受けていないときの方が断然お勧めです。

例えば、大怪我をしたときに、「今こそ運動しなければ!」と、新たに激しい運動にチャレンジしたりしませんね。

運動は怪我が治るのを待ってから、と誰もが考えるはずです。

衝撃は心の大怪我みたいなものです。

精神的なコンディションが悪くバランスが崩れているときにいろいろと考えてしまうと、よい結果は出てきません。

ただ怪我が治ればすむはずのことなのに、回復を待てずに行動や決断をしてしまうと、余計にこじらせてしまうこともあるでしょう。

例えば、人が転職に成功した、という話から衝撃を受けると、「二度と衝撃を受けたくない」モードの頭は、「私だって成功したい」「私も転職しなければ!」という思いに支配されることがあります。

しかし、そのような、きちんと準備も計画もされていない衝動的な転職は、うまくいかないことの方が多いものです。

そして結果として「自分はやっぱりダメだ」とますます自信を失う、ということになってしまいます。

ですから、人が転職したというニュースから衝撃を受けた場合も、まずはもともとやっていた生活に戻り、落ち着きを取り戻す中で、必要であれば将来の転職について考えていく、という順序が最も心の働きに合っていますし、「自分についての感じ方」もよくなります。

つまり、「いいな、転職か。私もいつかしたいけれども、それは今ではないな」と思うだけで、自信を感じられるのです。

ポイント:大きな決断は、衝撃への反応が過ぎてから

衝撃を受けそうな場所は避けよう

衝撃は、予測していないときに突然来るから衝撃なのですが、ときには、「衝撃を受けやすい場所」などというものもあるでしょう。

そのような「場」とどう関わるかを考えておくことも、自信につながります。

「難しい場でも、まあまあなんとかやっていけそうな自分」については、よい感じが持てるからです。

例えば、同窓会や親戚の集まりなど、「たまに顔を合わせて近況報告し合う場」は要注意です。

例:いつまでも独身でいる自分に自信が持てなくて、正月の親戚の集まりに参加できない。

ここで正月の親戚の集まりを避けたくなるのは、一種の防御反応です。

久しぶりに会った人同士の会話は、どうしても「情報のアップデート」がメインになります。

そして、こうした「最近どう?」という話の中でも、特に「おめでたい話」「自慢できる話」に焦点が当たる、という傾向があります。

正月の「おめでたい席」ですから、その度合いはより強いものになるでしょう。

他人の「おめでたい話」を突然聞かされるのは、衝撃的な体験になり得ます。

もともと自分がうまくいっていないと思っている人にとって、「うまくいっている他人」の話を突然聞かされたときの衝撃は、非常に強いものになるはずです。

そこで刺激されるのは、「自分はうまくいっていない」という思いです。

衝撃によって「自信がない」という感覚(なりすましの自信のなさ)を覚える、ということはすでにお話ししましたが、正月の親戚の集まりに行きたくないと感じるのも、一つの「防御反応」なのです。

行けば衝撃を受けるリスクがあるのですから、その場を避けたくなるのは合理的なことであり、「人間だから仕方がない」ものでしょう。

行かないを選んでもいい

実際にそこに行けば衝撃を受けるリスクが高いのですから、「行かない」というのは一つの立派な選択肢です。

ところが、「行かない」と決めた人が堂々としているかと言うと、そうでもないのです。

「本来行かなければならない場所なのに、行かれないダメな自分」と後ろめたく感じてしまい、自信を失ってしまいます。

しかし、自信はあくまでも心の「あり方」から感じるものであって、「行った」「行かない」という「形」の中にはありません。

「行かない」という「形」に対して後ろめたく思うのではなく、「自分を大切にしたいという心のあり方を保ったことで、自分を衝撃から守れた」と、よい感じ方をすればよいだけのことなのです。

いずれ、親戚に報告したい事柄が出てきたら、そのときには親戚とのつながりを楽しむために参加しよう。

でも、それは今ではない。

「今はこれでよい」というのが、ここでもやはりキーワードとなるのです。

もちろん、正月の集まりに行くという選択肢もあります。

その場合には、衝撃をある程度予測しておくことが必要です。

つまり、ひどく自信を失うことがあってもそれは「一連の反応」に過ぎないのだとしっかり頭に刻んでいくことです。

また、「早く結婚しなくちゃダメよ」など、こちらのあり方についてとやかく言ってくる親戚がいるようであれば、ご自分を守ってください。

こうやって、あらかじめその場の性質を考えて起こりそうなことを予測しておくこと、そして、何かが起こったときの自分の守り方を考えておくことによって、自分についての感じ方をずいぶんよくすることができます。

何を言われて、どれほど深刻に打ちのめされたと感じても、それは衝撃による「なりすましの自信のなさ」であり、自分がもともと感じている「自信のなさ」とは無関係なのだということは頭にしっかりと入れておきましょう。

ポイント:嫌なら、行かない

喪失感とのつき合い方

大切な人を亡くしたり、大切な何かを失ったりしたときも、「自信がない」と感じやすいタイミングです。

特に自分を支えてくれていた人、自分の支えとなっていたものの場合には、その感じ方は、「もう生きていく自信がない」というくらいに強くなる場合もあります。

これも、人間に起こる当たり前の反応です。

私たちは何か大切なものを失ったときに、「悲しみのプロセス」を通る必要があります。

それまで、その「大切な人(もの)」を中心に生きていた人生を再編成する、というのは、それなりに「心のプロセス」を必要とするもの。

ですから、しばらく内向きになり、エネルギーが下がったような状態になって、自分をいたわり態勢を立て直す期間が必要なのです。

一般に「喪の期間」と呼ばれるものも、これにあたります。

こうした場合の、「自信がない」という感じ方は、「悲しみのプロセス」の一環なのです。

ですから、「悲しみのプロセス」が進んでいくと、また感じ方が変わってきます。

「今、周りの人たちやものに支えられている自分」を感じられるようになったり、失った相手に対しても、前とは違った、より深い愛おしさや感謝を感じられるようになったりすることも多いでしょう。

この一連の「悲しみのプロセス」を越えた人は、一般に、自分に対しても他人に対してもより優しく強くなります。

逆に、「自信のある人はメソメソしたりしない」「常に前向きでいなければ」などと「悲しみのプロセス」を軽視すると、新しい自分に脱皮することができなくなってしまいます。

そうやって、傷ついた心を認めないで生きていくと、どこかの時点で心が折れてしまい、「自信」を失ってしまう、ということにもなりかねません。

なお、うつ病など心を病んだときも、症状として「自信がない」と感じることがあります。

これも、「単なる病気の症状」ですから、「なりすましの自信のなさ」。

こう認識しておかないと、病気と本来の自分を混同して、自信を失うことになってしまいます。

うつ病の人は、「そもそも自分が弱いからいけないのだ」と自分を責める傾向にあります。

しかし、人間には限界があるもの。

一定以上にエネルギーを消耗すれば、誰でもうつ病になると言えるのです。

「努力すればなんでも達成できる」と信じ込んでいた人がうつ病になりやすいのは、そういう理由もあります。

自分の弱さ(限界)を受け入れるところに、本当の強さがある。

これは、よく覚えておいた方がよいでしょう。

そして、「DO」で「成果」主体に生きてきた人の心が折れてしまったときは、「BE」に目を向けて、生き方を変えるチャンスにもなります。

そこから本当の強さや自信を手に入れていくことはできるのです。

どんなときにも希望はあります!

ポイント:自信喪失のカラクリを知っておく