自分が病気だから、相手の肉体的弱点を思いやることができる

“自分が病気だから、相手の肉体的弱点を思いやることができる”

イソップ物語に次のような話がある。

のどの乾いたシカが、水を呑みながら水の上に映る自分の姿を見て、角が大きくて立派なのを得意に思った。
しかし、足が細くて弱々しいのを哀しく思った。

そこにライオンが現れたので、シカは逃げ出した。
やっと逃げおおせたと思った時に林に入り、角が木にひっかかってしまった。そこでライオンに追いつかれ、食べられる。

自分が格好が悪いと思った足に助けられ、得意になっていた角のために食べられてしまう。

このシカは足が細くて弱々しいからこそシカなのだということに気が付いていない。
だから、細い足を嘆く。
太い足になったらシカはシカでなくなってしまう。

離婚だって同じことである。
離婚をしたからこそ、それからの人生が幸せになれたということがある。

ある高齢者が死ぬ前の日記に、「もし若い頃離婚をしていたら、自分の人生はこんなにみじめではなかったろう」と書いている。

ある人は高校生の頃から耳鼻咽喉科系の病気に悩まされてきた。
高校一年生の時に鼻中隔湾曲症ということで手術を受けた。
鼻の骨が少し曲がっているらしい。
それを削ってまっすぐにしたのである。

そのときに、病院の先生は、鼻の病気については医学は後れていると言われた。
その原因は、鼻は脳の近くにあり、脳とつながっているからだと説明した。
今もそうかどうかは知らない。

それ以後、受験期には蓄膿症になやまされた。
勉強に集中できないのである。
蓄膿症のなかで勉強することがどれほど大変なことかは、なかなか想像しにくいと思う。
受験期が終わっても蓄膿症の苦しみは続いた。

思うに、手術をしても鼻中隔湾曲症が完全に治らないのか、その影響は続いているであろう、大人になってもこの病気に悩まされ続けた。「この病気さえなければ、どれくらい仕事の能率があがるか」と自分の耳鼻咽喉科系の病気をどのくらい恨んだことか。

しかし、あるときふと逆のことが頭に浮かんだ。
「もしかしたらこの病気が無かったら、私は仕事の能力に障害をきたしているかもしれない」と思った。

この病気があるからこそ、人の体についての苦しいみが分かる。
人の肉体的な弱点を思いやる気持ちを持てる。

自分では気が付かないが、このなかなか治らない耳鼻咽喉科系の病気が、その人間関係にプラスになっているかもしれないと思った。

鼻中隔湾曲症は、その人にとっては「シカの足」なのかもしれないと思った。

対人恐怖症、社交不安障害の人は人の弱点を思いやる気持ちを持てるのである。

「理想の自分」と「現実の自分」のコペルニクス的回転”

その人はどれだけ「鼻中隔湾曲症でなかったら」とおもったかわからない。

しかし、その人は鼻中隔湾曲症だからその人なのである。

鼻中隔湾曲症でなければその人はその人ではない。

その人もアンデルセンの童話の人魚姫と同じだと思った。
人魚姫はしっぽがあったから自分なのである。

鼻中隔湾曲症でなければと、いつまでも「鼻中隔湾曲症でない理想の自分」にこだわっていたから、私はアイデンティティーの形成がなかなかできなかったのかもしれない。

「理想の自分」ではなく、「現実の自分」を受け容れる心理的な作業をしているうちに、アイデンティティーは形成されてくるのだろう。

前に「理想の自分」と「現実の自分」の乖離について説明した。
そこの個所をもう一度読んでもらいたい(参照)
睡眠時間の長いエドウィンは、睡眠時間の短いトーマス・エディソンを自分の理想のモデルにしていたという箇所である。

エドウィンは睡眠時間が長いからエドウィンなのである。「エディソンだったらなー」と思うエドウィンは自己不在である。

あなたが「今、なりたい自分」は本当にあなたにとって望ましい自分ではなく、「現実の自分」があなたにとって望ましい自分ということはないだろうか。

私は、「理想の自分」と「現実の自分」の解釈をもう一度考え直すことをあなたに勧める。

それは「理想の自分」と「現実の自分」についてコペルニクス的回転である。

神は人間を不公平に作った。
しかし、その不公平を乗り越える手段も与えたのである。

それが「理想の自分」と「現実の自分」についてのコペルニクス的回転である。

視野の狭い人は、ついつい受け身で物事を受け取る。

視野を広げればあなたは運命を受け容れることができる。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するにはは視野を広げ、コペルニクス的回転をすることである。