子どもに自信を与える時間とは、子どもからするとどんな時間であろうか。
もちろん安心感のある時間である。
自分に弱点があっても、親は自分を好きであると、子どもが確信できる。
そのような時間である。
そう感じることができるときに、子どもは大きな安らぎを覚える。
これこそが自分に対する自信である。
そんなときに子どもは親に対して温かい、親しい感情を持つのではなかろうか。
「自分が優れた子どもでなくても、親は自分を好きである」。
こう感じることができた子どもは、百億の財産をもらうよりも幸せである。
百億の財産は、子どもに自信を与えることはできない。
しかしこの感じ方は、子どもに自信を与えることはできる。
「相手は”自分が自分であること”以上のことを、自分に期待していない」、こう感じることができてはじめて、人は安心できる。
このような安らぎの体験の積み重ねの中で、自信ができてくるのではなかろうか。
このような安らぎの体験の記憶が幾重にも重なり、大人になったときの自信へと連なっていく。
自信と安心感があるから、人は積極的に仕事ができるのであろう。
人は自分に自信があるから、恐れることなく自分の能力を試されるような機会に挑戦できる。
自分の能力に自信があるから、積極的に挑戦できるのではない。
「自分に能力がなければ自分は嫌われる」と思っている人は、失敗を恐れてなかなか未知の仕事に挑戦できない。
したがって、どんなに能力があっても自信のない人は自信がない。
自信とは、「自分に弱点があっても自分は相手にとって価値がある」と感じられることである。
自分に弱点があっても、相手は自分に会いたがる。
自分に弱点があっても、相手は自分に満足している。
自分に弱点があっても、相手は自分を見捨てない。
子どもは、運動会で一番になって自信がつくのではない。
一番になって「すごい!」という母親の評価では、自分に自信はつかない。
ビリになっても抱きしめてくれるお母さんがいることで、自信がつく。
三番になって、「三番で嬉しい」という母親の感情で、子どもは自分に自信がつく。
母親の評価で自信がつくのではなく、母親の感情で自信がつく。
子どもは「比較しないでほめて!」と言っている。
「ニセの自信」に騙されていないか?
人は親しい人との関係において、自分をそう感じることができなければ、”不安な緊張”からは解放されないであろう。
生きることは辛い。
生きることには困難が伴う。
そのような人生を意欲的に生きていかれるためには、このような自信が必要である。
自分に弱点がないということは、自分に対する自信とはならない。
弱点がない人などいない。
だからそのようにいう人は、弱点を相手に隠しているだけである。
「弱点がないから自分に自信がある」と言う人がもしいるとしても、それは真の自信にはならない。
なぜなら「もしその長所を自分が失ったら、自分は重要な人を失う」という不安から逃れられないからである。
「自分は体力があるから自分に自信がある」と言う男性がいたとしよう。
そして「その体力が女性を惹きつける」と言っていたとしよう。
しかし、いつかは体力を失う。
あるいは何かの事情で、体力を失うかもしれない。
病気になったらどうするか。
この男性は自分に自信があるためには、病気をしてはいけない。
本当の自信とはむしろ、「自分は体力がないけれども、相手に好かれている」という感じ方である。
親しい人との関係においては、いわゆる長所のみが意味あるのではない。
このことが劣等感の強い人は理解できない。
ある人を好きになるというのは、その人が世間的に驚くべき長所を持っているからではない。
前から見える姿だけが人を惹きつけるわけではない。
ボロボロになっている後ろ姿も、人を惹きつけるのである。
長所だけが人を惹きつけるわけではない。
弱点もまた人を惹きつけるのである。
劣等感の強い人は、「親しまれる」「好かれる」ということはどういうことかということが理解できていない。