「現実の自分」は自分が期待した自分ではない。
「現実の自分」は自分が望んだ自分ではない。
「現実の自分」は憧れた自分ではない。
「現実の自分」は自分の親が期待した自分ではない。
「現実の自分」は皆が憧れる自分ではない。
しかし親が期待した人になりたい、皆が憧れる人になりたい、自分が憧れた人になりたいという願望は強い。
その願望が強い時に、どうしても自己憎悪は避けられない。
自己憎悪というのは、それだけ小さい頃の自分の養育者を好きだったということである。
しかしその大好きな養育者の期待をかなえられなかったという、自分に対する落胆である。
その落胆から自分を憎むようになってしまった。
その結果筋違いな憎しみを抱くことがある。
ビジネスパーソンの場合で言えば、たとえば自己憎悪しているしている部下は、自分の養育者との関係で生じた自己憎悪を外化して、上司を無能と憎んでいるということがある。
実は無のなのは自分であり、その無能な自分を許していないのも自分なのである。
それを周囲に外化している。
つまり「あの無能な上司さえいなければ」という前に「そういう偉そうなことを言う自分は誰なのだろう」と考えてみることである。
自己憎悪とはようするに「理想の自分」になれないでいる「現実の自分」をを憎むということである。
どうしても望むポストに就けない、どうしても人が羨む素晴らしい夫婦になれない、どうしても望む業績を上げられない、どうしても望む家を建てられない、どうしても望む職種の仕事に就けない、どうしても望む給料をもらえない等々のときに、自己憎悪に陥っても不思議ではない。
外化はある意味で責任転嫁である。
今自分がこんなに苦しいのは「あの人がこんな人だからだ、あのひとがこんなことをしたからだ」ということである。
外化はここまでくるとノイローゼである。
オーストリアの精神科医ベラン・ウルフは、神経症の特徴は身代わりを見つけることだという。
身代わりとは、本当の原因は自分なのであるが、その自分の身代わりである。
不幸の原因は自分が自分を憎んだことである。しかし自分の不幸の原因を身代わりの者に押し付ける。
そうして自分の不幸の本当の原因を覆い隠してしまう。
本当の悩みの原因は自己憎悪なのに、自己憎悪している人は、それを認めようとしない。
親が子供を殺したり、子供が親を殺したりと言った事件がよく報道される。
親が親自身を憎み、子供が自身を憎んだときに、それは起きてもおかしくない。
お互いに自己憎悪を外化したときに、親は「この子さえいなければ」と思い、子供は「この親さえいなければ」と思う。
お互いに開いてさえいなければ自分は幸せになれると思う。
「相手が悪い」という思い込みをそう簡単に変えることはできない。
なぜならそれは自己憎悪を止めるということだからである。
人を憎む心理には2種類ある。
1つは殴られたとか騙されたとかいうように現実に被害を受けた時、加害者を憎む場合である。
ひどい仕打ちにあって憎しみに燃えている。
そんな時に接した人をよく思うことはなかなかできないで、ちょっとしたことで、その人を憎む。
それに対して心穏やかな満ち足りた時に接した人は憎らしくない。
ところが憎しみに燃えるときというのは、他人から酷い仕打ちに遭ったときばかりではない。
もう一つは、原因が相手にあるのではなく、憎んでいる者の心の中にある。
つまり自己憎悪を外化している場合である。
とにかく自分の心の中にものすごい憎しみがある。
何もかもが上手くいかないで欲求不満の塊になっている。
そんな憎しみの心理状態で自分の周りの世界に接すれば、接する者ことごとくに腹が立つ。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには現実の自分を客観視することである。