人のなかに楽にいるためには、そして心おだやかで豊かな人生を送るためには、あるがままの自分を受け入れることです。
性格を変える戦いをするのではなく、傷つきやすい心も含めて、あるがままの自分を受け入れることです。
それでは、あるがままの自分を受け入れることとは、実際にはどうすることなのでしょうか。
あるがままの自分を受け入れるにはまず第一に、いまの自分を好きになることです。
あるがままの自分を受け入れるには弱さ、醜さ、欠点を含めて自分を好きになることです。
あるがままの自分を受け入れるには自分を嫌わないことです。
あるがままの自分を受け入れるには自己嫌悪しないことです。
あるがままの自分を受け入れるには自己否定しないことです。
あるがままの自分を受け入れる、自分が自分を好きにならないで、誰が好きになってくれるでしょうか。
あるがままの自分を受け入れる、人間はすべての人が、その存在自体に価値があるのです。
すべての人間が、選ばれてこの世にいるのであるがままの自分を受け入れるのです。
あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたは、誕生できなかった多くの卵子と空しく死滅していった何億という精子、それらのなかでたった一つ選ばれて誕生してきたのです。
あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたの生命は、何億年という生命の継続として存在しているのです。
あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたの父と母、父と母それぞれの父と母、またその父と母それぞれの父と母―あなたは、数えきれないほど多くの先祖の生命のつながりとして存在しているのです。
そうした生命のつながりのどこかが欠けていたら、あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたはこの世に存在しないのです。
そう考えれば、あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたの生命の重みを感ぜざるをえません。
あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたはただ生きているだけで、それだけで十分すぎる価値があるのです。
さらに言えば、あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたが存在してくれることで親が受けた喜びは、はかりしれません。
あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたは親に負債を背負っていると思う必要はないのです。
あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたが親から受けた恩恵よりも、もっと大きな恩恵を親に与えてきたのです。
さらに、あるがままの自分を受け入れる資格をもつあなたが存在することで、多くの人々との「出会い」が生まれ、それらの人々に豊かな人生の思い出を与えてきたのです。
自分をあるがままに受け入れるということの第二の意味は、自分の素直な心で人と接するということです。
他の人といると、つい本心とは裏腹な行動をしてしまう。
演技してしまう。
仮面を被ってしまう。
あるがままの自分を受け入れるにはそれでよいのです。
あるがままの自分を受け入れるとは、そのように演技してしまう自分も自分。
あるがままの自分を受け入れるとは、そうでないようにしたいと思う自分も自分。
どちらもあるがままの自分です。
どちらでもよいのです。
あるがままの自分を受け入れるにはできるところでやってみる。
あるがままの自分を受け入れるにはつらければ無理に努力しない。
あるがままの自分を受け入れるにはその時々の、自分の心にまかせればよいのです。
人間の心はくもりなく澄みきったものではありません。
あるがままの自分を受け入れる参考として、誰でも人前では多かれ少なかれ演技しています。
あるがままの自分を受け入れる参考として、本当の自分をおさえて、仮面をかぶっています。
あるがままの自分を受け入れる参考として、ずるく立ち回ろうとする心もあります。
あるがままの自分を受け入れる参考として、真の自己とにせよ自己との分裂もあります。
人のなかにいるのが苦痛な、あるがままの自分を受け入れられていない人は、こうした自分の心のなかの葛藤に敏感すぎるのです。
そして、あるがままの自分を受け入れられていない人は、過度に自分だけ潔癖であろうとしていることが多いのです。
そうではなく、「いつでも本当の自分でなければならない」などという、「かくあらねばならない」という考えを捨て去ることです。
こうすると、気持ちが楽になります。
また、こうすると、あるがままの自分を受け入れる一歩として「禁止令にとらわれているな」とか、「いまゲームをしているな」などと、自分がよくつかめます。
それにより、客観的に自分を見ることができ、自己嫌悪に陥ることなく、そうした行動をとる自分を笑い飛ばす心の余裕が生まれてきます。
傷つきやすい性格のために苦しむあるがままの自分を受け入れられていない人は、なにごとにも動じない強い心がほしい、と願います。
しかし、ゆらぎない心は死んだ心にすぎないのです。
豊かで健康な心とは、ストレスを感じなかったり、人間関係で傷ついたりしない鉄のような心ではないのです。
M・フリードマンらが提唱したA型性格を見てみましょう(河野友信監修 新里里春訳『タイプA-性格と心臓病』創元社 一九九三)。
このタイプの人は、人間関係など苦にせず、野心的で、積極的で、競争好きで、いつもエネルギッシュです。
ところが、このタイプの人は、そうでないタイプにくらべて冠状動脈疾患の罹患率が非常に高いのです。
このタイプの人は、成育過程で弱音をはいたり、素直な感情表現をすることを禁じられて育てられ、そのために深層のそうした感情を抑圧していて、あるがままの自分を受け入れられていないためだと考えられています。
あるいは、離人感という現象があります。
専門家の指導のもとで自分の拒食症をみつめた卒業論文を書いたTさんは、一時生じた離人感体験を次のように記述しています。
<朝起きたとき、まず母のことが遠く感じられた。
話をしていても、間に膜が張っているような感じがした。
音も遠く聞こえる。
耳の中が詰まっているような感じがする。
人と話していながら、現実感がなく、「自分を見ているもう一人の自分がいる」という感じがする。
笑っていながらも、じっさいに「おかしい」という感情がわかない。
心の動きがなくなってしまうという感じである。
学校に行ってもいっこうに戻らなかった。
自分の話していることも、目の前にいる相手のことも、すべて夢の中のような感じがした。(中略)すべて夢のなかのようなので、食べてもいらいらするということがなかった。
また、「寒い」とか「疲れた」とかいうこともあまり感じなくなった。(中略)食べていらいらしないといっても、食べることが楽しかったり、とくにおいしいと感じたりするわけではなく、頭の中は真っ白で、ただ食べ物を機械的に口に運ぶという感じだった。>
このように細やかな感情を喪失した心と、敏感さゆえに人との関係に傷つき揺れ動く心と、どちらが人間的に深い体験をしているかは明らかでしょう。
あるがままの自分を受け入れられる第一歩として人間の健康な心とは、もともと揺れ動くものなのです。
あるがままの自分を受け入れるとは、時には悲しんだり、ねたんだり、落ち込んだり、自己嫌悪に陥ったり。
お釈迦様は人生の四大苦として「生老病死」をあげています。
「生きていること」そのものを人生のまず第一の苦しみとしてあげているのです。
あるがままの自分を受け入れられてる第一歩として、生きていくのに心の苦しみはつきものなのです。
あるがままの自分を受け入れるとはその苦しみを感じない心を欲するのではなく、そうした苦しみとうまく付き合っていくことをこそ考えるべきなのです。