”傲慢な人ほど悔しさを味わう”
ところで、自分にとって非現実的な自己の価値が高まるとどうなるのか。
自分は”大変なもの”だとうぬぼれている。
しかし、他人は、”大変なもの”として扱ってくれない。
他人から見れば、うぬぼれている人間の孤独が見えてしまう。
うぬぼれている人間の、「お前なんかにバカにされないぞ」という不安な緊張が感じられるのである。
それが感じられれば感じられるほど、他人には心の底で尊敬する気持ちがなくなっていく。
できればそのうぬぼれている人間とは関係なく生きたいと思う。
うぬぼれとは所詮自己満足であるから、できれば他人に認められたい。
しかし認められない。
そこで、現実の他人との接触は常に我慢ならないものとなる。
ここに現れるのが”くやしさ”である。
うぬぼれている人間が、他人と喧嘩をして負ける。
最後に「くやしい」と絶叫する。
「甘えの構造」では”くやしさ”ということについて、日本人の半官びいきの心理は、この”くやしさ”と密接な関係があると触れている。
日本人が源義経、楠木正成、四十七士、西郷隆盛などの敗残の将のほうに強い親近感を覚えるのは”くやしさ”の為である。
なぜなら、日本人は”くやしさ”の感情を持つと、それと同じ経験をしたと思われる歴史上の人物とじぶんを同一視し、その人物を持ち上げることによって、自分自身のカタルシスをはかっているというのだ。
確かにその通りであるが、残念なのは”くやしさ”を解説しながら、そこに最も深い”うぬぼれ”について触れていないことである。
”くやしさ”は甘えの心理の延長線上にある―そのとおりである。
しかし、より具体的に言えば”うぬぼれ”と密接な関係がある。
”うぬぼれ”が傷ついた時、”くやしさ”があらわれるのである。
そして”うぬぼれ”の感情は、非常に傷つきやすい。
本当は自分に失望している人間がいる。
しかし、その、自分への失望を、意思の力で無意識へと追いやる。
そして、自分の失望から眼をそらしているために、他人を非難してみたり、うぬぼれてみたり、いろいろする。
しかし、現実を無視している以上どうしても現実は自分の思うように動かない。
他人は自分の望むように自分を称賛してくれない、自分と一緒になってある人を非難してくれない。
そんなときに味わうのが”くやしさ”である。そして、他人に自分の心の底にある自分への失望を指摘されようものなら「くやしい!」となる。
「高慢は出世の行き止まり」という。このことわざは、高慢な者は、それ以上に地位が上がらないという意のようである。
しかしこれを心理的に解釈すれば、出世が行きどまると高慢になる、となるだろう。
出世が行どまったのに、そのことを自分で認められなくて高慢になるのである。
したがって、高慢な人は、絶えず”くやしさ”を味わっている。
そして誰かに、自分が認めることのできないでいる現実を指摘されると”くやしさ”が爆発するのである。