”どんどん拡大する抑圧”
われわれは、自分が受け入れることのできないものが自分の中にある時、それを抑圧する。
親への攻撃心なども、親に心理的に依存している限り抑圧される。
親に心理的に依存し、しかも親を恐れている場合は、親の望まぬものは、性的なものであろうと何であろうと抑圧してしまう。
親への恐怖心が、自分の衝動にブレーキをかけるのである。
しかし、ここで最も注意すべきことは、ただ一つの衝動を抑圧し無意識へと追いやることが、他の衝動にも何らかの影響を与えることになるということである。
子供が依存できるのは親だけである。
その親が我執の強烈な人である時、子供は親への攻撃心を抑圧する。
しかし、この抑圧が子供の人格全体、情緒全体に影響を及ぼすということを忘れてはなるまい。
この子にとっては、単に親への攻撃心が抑圧されただけではない。
抑圧は拡大する。
つまり、愛の感情も鈍化する。
抑圧が拡大すれば、物事への興味も薄れてくる。
動物を可愛いと思ったり、山に登りたいと感じたり、美しい音色を聞いて感動したり、文学に興味を覚えたりということは、抑圧の拡大とともになくなってくるであろう。
抑圧が拡大するということは、人間としての成長の可能性を失っていくことであり、そうした点で自然の流れに逆らう。
したがって、イライラしたり、憂鬱になったり、憎しみにかられたり、虚栄心のとりこになったりする。
情緒が成熟し、感情が豊かになり、物事に興味がわくという心の温かい人になるためには、どうしてもこの抑圧を解消するしかないであろう。
抑圧について、第二に注意すべきことは、その結果として出てくる憎悪は、弱いところに向けられるということである。
抑圧せざるを得ない状態に自分を追い込んだ我執の親には、当然憎悪は向けられない。
向けられないから抑圧しているのだから。
結局、弱いところに憎悪を向ける。
自分より強い立場の人間に憎しみを持つことは危険なのである。
強い立場の人間には卑屈になり、部下をいじめぬく。
上役を攻撃することは危険である。
そこで安全な部下を選んで苛め抜くのである。
その苛め方のひとつとして”〇〇べき”論を展開する。”べき”論のような”立派なこと”を主張するのだから、苛められる方はたまらない。言葉の上では立派なことを言っているのであるから反論しにくい。
「下いびりの上へつらい」ということわざがある。
弱い者いじめとは、よくいったものである。
このような場合、すべての部下が苛められるわけではない。
「こいつ弱そうだ、苛めても安全だ、自分の身に危険はない」
といえる相手だけに的を絞って自分のうっ憤を晴らすのである。
また、彼らは実に正確にこの的を絞る術を心得ている。
ずるさは弱さに敏感である。
冷たさも弱さに敏感である。
隠された憎悪も弱さに敏感である。
なぜなら、それらは弱さを必要としているからである。
必要としているからこそ、敏感に弱さを見分けるのである。
抑圧によって生じた苦しみは、弱いものを苛めることで、瞬時忘れられる。
しかし、弱いもの苛めは抑圧の本質的な解決ではないから、年がら年中、弱いものを苛めていなければならない。
企業内だけでなく、いわゆる姑、小姑の嫁いびりなどもそうである。
たとえば、小姑が苦しみを根本的に克服するためには、自分の親に攻撃心を向けるべきである。
そして、それを通して親から心理的に乳離れし、一人前の大人へと成長していくのである。
ところが、子供の抑圧を深化させトラブルを生じさせる親というのは、我執の人であるから、親へ向けるべきものがなかなか親へ向けられない。
逆に親と一緒になって嫁いじめをはじめる。
これで嫁いじめが成功している場合は、小姑はヒステリーにもならない。
ところが、立場が弱いとはいえ、お嫁さんの方が情緒的に成熟していて、思うようにいじめられないと、今度は小姑がヒステリーになる。
お嫁さんが苛め抜かれて精神的におかしくなるか、逆に小姑がヒステリーになるかなのである。
この小姑の心境こそが”くやしさ”なのである。