親しくなることと、安定した関係を維持することは違う
ふりをして演じる演技性の能力が、社会的知性の核となっていることや、演技性を初め、否定的に扱われることの多い自己愛性や反社会性といった能力を上手に活用することが、社会でうまくやっていき、成功するためには、意外に重要である。
では、人を出し抜き、欺く能力や他人を巧みに利用する能力が、社会でうまくやっていくうえで、もっとも重要な能力だと言うのだろうか。
社会適応と相関を示すさまざまな要因を示したデータがある。
プラスの相関を示す要因には、演技性や動作性IQもあげられるが、実はもっと強い相関を示す要因がある。
社会適応ともっとも強い相関を示したのは、安定型愛着である。
逆に、負の相関が強かったのは、回避性の傾向や過敏で傷つきやすい傾向であった。
過敏なためにかかわりを避けようとすることは、社会適応にとって、かなりマイナスに作用してしまうということである。
それゆえ、かかわりを回避し距離をとることで安全を確保しようとするのではなく、演技性や自己愛性の戦略にも学びながら、賢くかかわりをもっていくことである。
しかし、社会適応においても、そうした戦略的な要素がすべてではなく、もう一つの重要なファクターがかかわってくる。
それが、安定した愛着という要素なのである。
巧みに相手に近づき、取り入ったり、相手を思う通りに操縦できたりしたとしても、それが長い目で成果を生むかどうかは、一時的な成功だけで決まるわけではない。
親しくなることと、信頼関係を築くことは別なのである。
本当の成功や幸福は、長続きする安定した信頼関係を築くことでしか得られないことが多い。
打ち上げ花火で終ったのでは、何にもならないのだ。
何かを手に入れることと、幸福になることは違う
一方、幸福度との関係で見ると、グラフは省略するが、生き甲斐や自信、肯定的認知とともに、自分が愛されているという思いや、安全基地となる存在がいるといった愛着の安定性に関係する項目が強い相関を示す。
演技性との相関はずっと弱く、真面目で責任感の強い強迫性の傾向とほぼ同程度である。
幸福になるために、少し寄与するとはいえ、脇役に退くのである。
自己愛性や反社会性は、わずかにだが負の相関を示してしまう。
つまり、幸福に寄与するどころか、足を引っ張ってしまいかねない。
相手をうまく垂らしこみ、接近して親密になり、一時的に自分のものにできたとしても、それは必ずしも幸福を手に入れるということにはならないのである。
幸福は少し別のところにある。
親密になることは、必ずしも安定した幸福な関係を築けるということではない。
親密になることは、その一歩でしかない。
相手を惹き付けるだけでは、後が続かないのである。
その先で問われるのが、長続きする関係を築いていけるかどうかなのである。
そこにかかわるのが、安定した愛着関係をいかにして育んでいけるかなのだ。
孤独な生き方は幸福か
世の中がばらばらになり、人々のつながりも散れじれになる中、孤独な生き方こそ幸福であるといった主張を、昨今よく見かけるようになった。
もちろん孤独がとても性に合い、それを幸福だと感じる人もいるだろう。
ただ、現状をおしなべて見ると、回避的な生き方や孤独な生き方をしている人が、幸福だとはとても言えそうにない。
生まれついて孤独が性に合っているシゾイドタイプの人であれ、あまり幸福だと感じていない人が多い。
幸福度と負の相関がもっとも強かったのは、対人距離や回避型愛着だった。
つまり、対人距離が遠い傾向の人ほど、また回避型の傾向が強い人ほど、あまり幸福ではなかったのである。
それゆえ、親密な関係を避けるよりは、それを持とうとする方が、幸福につながりやすいことになる。
演技性の能力も、そこで必要になる。
ただ、せっかく親密な関係を手に入れても、その先に、もっと大きな関門が待ち構えているのである。
感情の制御は幸福度と関係しない
幸福になるために、これまでさまざまな先人たちが、さまざまな理論を打ち立て、実践してきた。
幸福の理論として、もっとも古くからあり、今日でもそれなりに信奉されているものとして、心の平安こそが幸福を与えてくれるという考え方がある。
仏教で目指す解脱や涅槃といった境地は、さまざまな苦悩やとらわれを脱した状態であり、最高の理想とされる。
また、古代ギリシア・ローマで、大いに人気を博したストア派の哲学では、快楽や欲に支配されない、精神のアタラクシア(平穏)を得ることにこそ、幸福があると考えられた。
仏教では、修行や祈りによって、その境地を得ようとし、またストア派でも、修行や禁欲によって、忍耐心や自制心を高めることが大切だとされた。
昨今、マインドフルネスや瞑想がブームになり、不安やストレスなどへの効果が科学的にも裏付けられたりしているのも、何千年来続く幸福を助ける技術の伝統にしたがったものだと言えるだろう。
マインドフルネスは決して新しいことではなく、何千年来の伝統の技に立ち返ることなのである。
ただ、その実践は、短期的には効果があることが証明されているのだが、果たして、瞑想により心の平安を取り戻すことで、われわれは本当にこの社会で幸福になれるのかという点に関しては、何ら明らかな答えはない。
もし仏教やストア派の哲学の実践が、人々をそれほど幸福にしてくれるのに役立つのなら、こんなにも不幸な出来事があふれているというのに、どうして人々は、それを続けることを放棄してしまったり、その技が廃れてしまっていたのだろうかという少し意地悪な疑問も浮かぶ。
心をコントロールする能力を手に入れることは、本当に幸福な人生に寄与するのだろうか。
実際に、一般成人を対象にした別の調査で、感情や欲望をコントロールする能力と、その人が、どのくらい幸福に感じているかの関係を調べると、ほとんど相関が見られない。
自分をコントロールできることは、幸福には、あまり関係ないのである。
関係していたのは、自分が肯定的に評価されているかどうかであり、家庭生活の満足度や完全な信頼をもつ存在がいるかどうかであった。
つまり、自分に居場所や安全基地が与えられているかどうかが、より決定的な要因となっていたのである。
そして、そこに関連する能力として上位にランクされたのが、相手の気持ちや意図を読み取り、戦略的に行動する能力である社会的知性であり、相手と気持ちを通じ合う能力である共感性であった。
だとすると、社会でうまく適応するだけでなく、幸福な人生を手に入れるために本当に必要なことは、欲望や感情をコントロールすることではなく、社会的知性や共感性を鍛えて、自分が受け入れられ、愛され、安全基地となってくれる存在を獲得する技術を身に付けることではないだろうか。
それは、言い換えると、安定した愛着関係や信頼関係を築く技を体得するということだと言えるだろう。
心の平安を手に入れる技術を学び、気持ちを整えることも大切だが、もっと必要なのは、愛され、関心を払われ、受け入れられる存在になるためのスキルを高めることなのである。
おろそかにされがちな演技性の能力は、愛され、関心を惹き、庇護を手に入れるための技なのである。
だが、それだけでは、本当の幸福は手に入らない。
それが、本当の幸福につながるためには、変わらずにあなたを愛し、支え続けてくれる存在を手に入れる方法を学ぶということが重要になってくる。
それは、安定した愛着を育む技を身に付けることであり、安全基地を手に入れる方法を修得するということである。
身近な存在の助けになることにこそ救いが
人は無力な状態で生まれ、親の世話によって安心を得、人を信じる心を育んでいく。
それが愛着である。
安定した愛着に恵まれた者は幸運だが、誰もがその幸運に与れるわけではない。
また、幼い日の幸運も、さまざまな不幸によって脅かされる。
誰もが、心のどこかに欠けた部分を抱えて生きているものだ。
人間の一生は、その欠けたパズルのピースを探し出し、一つ一つ埋めていくようなものかもしれない。
少しでも抜け落ちたパズルのピースを見つけ出せたとしたら、それは自分のことではなく、助けを必要としている人にかかわることによってだったということだ。
人は他者との関係の中に自分を見いだしていく。
人は自分のためだけには生きられないのだ。
自分のためだけに生きられる人がいたら、その人はある意味幸せかもしれないが、多くの人は、そんなふうには造られていない。
生きる意味を与えてくれるのは、他者との関係においてであり、その他者がその人にとって安全基地となる存在であれば、それに勝る幸福はないだろう。
安産基地に恵まれない人も、自分が誰かの安全基地になる努力をすることはできる。
一人の人間にできることは、結局そこに尽きるように思う。
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人生とは摩訶不思議なもの
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たとえば、嘘をつくことや盗むこと、暴力を振るうといったことさえも、残念ながら、ときには生き延びるのに役立つのである。
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実際の現実は、少し違う原理で動いている。
となれば、その原理を頭に入れて、世過ぎをしていくしかない。
正直者がバカをみたり、貧乏くじばかり引かせられないためにも。
人々はますます自己愛的になり、自分のことしか考えなくなっている。
ずる賢く、自分勝手な人たちから身を守るとともに、幸福な人生を支えてくれる身近な関係を大切にしていくことである。