無力感とアイデンティティの確立
私たちは母親の胎内で発生し、乳児期、幼年期、児童期を親に依存した状態で育つ。
この親への依存状態で形成した心を元にして、青年期には親の拘束から離れ、自分の心を作っていく。
すなわち、青年期とは、子どもとしてのアイデンティティを脱して、大人のアイデンティティに切り替える時期である。
エリクソンが述べるように、アイデンティティの獲得は、それ以前の発達課題である次の4つを獲得しているとスムーズに進行する。
それは、基本的信頼、自律性、自発性、勤勉性である。
基本的信頼とは要するにこの世界への安心感であり、自律性とは「”自分が”している」という感覚である。
自発性とは「”自分から”している」という感覚であり、勤勉性とは「”自分は”粘り強くがんばれば何事かを達成できる」という感覚である。
実際にはこれらを十分に獲得しているわけではないので、アイデンティティの獲得と同時にこれらを再構築することが発達課題になることが多い。
このとき、「自分が」「自分から」「自分は」という自己主張行動になるので、親の意向とぶつかる。
これが昔から反抗期と呼ばれてきたものであり、反抗とは、従属という子どものアイデンティティを独立という大人のアイデンティティに切り替える作業なのである。
長いこと子どもにとって親は強大な存在であったので、この強大な対象に反抗するには、子どもは自分の力に一定の自信が形成されていなければならない。
だから、自分の力への自信を形成できていない人は、あからさまな反抗をすることができない。
「中学のときのこと。
友達の家に遊びに行ったときに、その友達が父親に反抗して、怒った父親が友達を追いかけまわす、ということがありました。
私は親に口答えするなど考えもしなかったので、ひどくびっくりしました。
同時に、”親に対抗するほどの強さが私にはない”と実感しました。」
親への反抗によって、子どもは自分の力への確信を強めていくという面がある。
反抗して口をきかないとか、自室にひきこもるなどの形をとる人がいるが、これらはいずれも親に直接対抗できない姿である。
このとき、心のなかにあるのは屈辱感であり、惨めさであり、無力感であり、自分に強さを感じることはできない。
アイデンティティの確立の方法はどのようにしたらよいのか。三つある。
アイデンティティの確立の第一には、「理想の自分」と「現実の自分」を間違えないことである
「なりたい自分」と、今のこの「現実の自分」を間違えないことである
睡眠時間は少ない方がいいという考えを持っている人がいる。
それを「トーマス・エディソン症候群」と脳の研究者のホブソンは言っている。
その本の中で、マサチューセッツのエドウィンと言う人について書いてある。
エドウィンは、自分がビジネスで失敗したのは自分の睡眠時間が長いことだと確信している。
エドウィンは、睡眠は時間の無駄だと信じている。
そして、いつでもどこでも眠れて、しかも睡眠時間がすくなくてすんだトーマス・エディソンを自分の理想のモデルにしていた。
彼は、なんとか睡眠時間を減らすことを考える。
そして薬物治療をしようとする。
薬物治療をすれば彼の眠気は取れる。
しかし、その自然な眠りを薬で奪うことの代償を彼は考えない。
著者のホブソンは、 エドウィンから睡眠時間を減らすことを頼まれるが、気が進まない。
ホブソンはエドウィンに、「エドウィンはトーマス・エディソンではない」とわからせようとする。
しかし、エドウィンは理想像に固執して、現実を受け容れていない。
エドウィンの「理想の自分」は、トーマス・エディソンのように睡眠時間が少なくてする自分である。
しかし「現実の自分」は睡眠時間が長い。そこで彼は、「現実の自分」と「理想の自分」の乖離に悩み、イライラして生きる。
もちろん、「現実の自分」と「理想の自分」の乖離に悩む人は、睡眠時間についてばかりではない。
睡眠の質にも、睡眠のとりやすさについても悩む。
眠れない夜に、「あー、なにがあってもぐっすりと眠れるような太っ腹な人間になりたい。」と思う。
眠れないまま明日の仕事のたいへんさを想像して苦しむ。
そして早く眠ろうとしながら眠れない自分にイライラする。
そして、朝になると寝不足で体がボーッとしている。
「あーすっきりとした体で働きたい」と思う。
「なんで自分はこんな些細なことで眠れなくなるのだ」と自らの気の弱さを嘆く。
起きてからも「理想の自分」と「実際の自分」の乖離に苦しむ。
しかし、世の中には神経質な人もいれば、何があっても感じない図太い人もいる。
そこで、「あー、あいつのように何があってもぐっすり寝られるような人間になれればなー」と自らを嘆き、図太い神経の友人を羨む。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには「なりたい自分」と、今のこの「現実の自分」を間違えないことである。
”「実際の自分」を受け容れられない”
「こうなりたい」という自分が「理想の自分」であり、「何で自分はこうなんだ」という自分が「実際の自分」である。
仕事をしても、運動をしてもすぐに疲れてしまう。
すると、「あー、もっと体力があったらなー」と嘆く。
「もっと体力があればもっと仕事ができるのに、そうしてもっとよいポストが得られるのに。
高い給料がもらえて、もっと快適な生活ができるのに」と嘆く。
そうすると、「なんで俺はダメなんだ」という自己蔑視になるだろうし、おもうようにならない自分に対する怒りにもなるだろう。
自らのふがいなさを嘆きながらも、「こうなりたい」という「理想の自分」への執着を捨てきれない。
そして「こうでなければならない」という強迫感に悩まされることになるだろう。
眠れない自分、体力のそれほどない自分が自分なのだから、しょうがないのだが、その自分が許せない。
だから、内から「こうしなければ、こうしなければ」とせかされる。これが強迫感である。
「こうなりたい」という願望があまりにも強くて、「理想の自分」への執着を捨てられない。
どうしても「実際の自分」を受け容れることができない。
思うように勉強に集中できない。そこで、「もっと集中しなければ、集中しなければ」と焦る。
仕事の成果が思うように上がらない。すると「あー、もっと成果をあげなければ、もっと成果をあげなければ」と焦る。
焦ってもどうにもならないのだが、焦る。でもどうしようもない。
自分でも、焦ってどうなるものでもないと頭ではわかっている。
しかし、気持ちは焦っていよいよ仕事が手につかなくなる。
それが強迫感である。
そして、この強迫感が「不安な緊張」といわれるものである。
人がリラックスできないのは、この強迫感があるからである。
リラックスしようとしても内的に強迫されているから、どうしてもリラックスできない。
おそらく、そこまで「こうなりたい」という願望が強いのは、幼い頃に深く心が傷ついているからだろう。
その心の傷を名声とか権力で癒したいのである。
深く心が傷ついていなければ、そこまで「理想の自分」に執着しない。
”「理想の自我像」に執着する三つの理由”
「理想の自分」と「実際の自分」が乖離している人は、「固有の自分」を忘れている人である。
これが乖離しているときには、その人にとって現実感があるのは「理想の自分」のほうである。「実際の自分」には現実感がない。
一般的な言い方をすればこういう人は「自分がない」
アイデンティティの確立に大切なことは自分の特徴をよく考えて、「スーパーマンになろうとするな」ということである。
「実際の自分」に現実感がないということは、その人に生きる基準がないということである。
つまりどこまでいっても満足しない。
したがって、お金を持っても、権力を持っても、有名になっても「もっと、もっと」になる。
カレン・ホルナイは、「実際の自分」と「理想の自分」との乖離という言葉を使っているが、現実感覚としては「理想の自分」しかないということである。
それは永遠に満たされることがない理想像である。
人が理想の自我像の実現にしゅうちゃくするのには三つの原因がある。
一つは、すでに説明した「実際の自分」に現実感がないからである。
次は、愛情飢餓感である。
なんとしても人からチヤホヤされたいのである。
最後は、復讐的傾向である。
幼い頃の心の傷を癒したい。
それはカレン・ホルナイのいう神経症的野心となって現れるものである。
もちろん、「この三つは根本のところで深く関わりあっている。
彼らは、「理想の自我像」を実現することで過去の心の傷を癒そうとしているのである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには自分の特徴をよく考えて、「スーパーマンになろうとするな」ということである。
”アイデンティティの確立は自己イメージを変えれば焦りはなくなる”
だから、よく観察するとわかることであるが、名誉や財産を求めて欲張りな人は、過去を引きずっている。
はたから見れば「いい加減で、そんな必要ないがらくたの缶カラを捨てろ」と言いたくなるが、本人はそれをしっかりと握って、ガラガラと音を立てながら引きずって歩いている。
人を際限もなく欲張りにしているのは、この「理想の自我像」である。
点で、欲張りな人は深く傷ついている。
「実際の自分」が「理想の自我像」にまで到達していないから、「もっと、もっと」と求めているのである。
そして持っても、持っても、もっと欲しいから、いつも不満なのである。
彼らは、内面の問題を外側の名誉や権力で解決しようとしたところに間違いがある。
「実際の自分」をどう感じているかは、その人の内面の問題である。
「実際の自分」は価値が無いと心の底で感じていれば、その人の内面を変えない限り幸せになることはない。
「実際の自分」をどう感じているかということが、その人の行動に影響を及ぼす。
自分を臆病な価値のない人間と感じていれば、立ち振る舞いは自信のないおずおずとしたものになる。
心の中にある自己イメージ、つまり、自分の心象が変わらないで外側が多少変わっても、不安や焦りはなくならない。
名誉を得るということと自分の心象とは関係ない。そして、人を基本的に動かしているのは心象のほうである。
名誉のある自分と名誉のない自分では、幸せになる条件はそれほど変わりがあるわけではない。
名誉のある自分であろうが名誉のない自分であろうが、その自分を否定的にイメージしてしまうということが問題なのである。
”自分で自分がわからない”
「なりたい自分」や「理想の自我像」の実現に執着する人には、基準がない。
対人恐怖症やうつ病になるような人にも、基準がない。
基準があるとか、ないということはどういうことだろうか。
いつも好きなウニが今日は食べたくない―この人には基準がある。
あの漬物が食べたい。
何となく甘いものが食べたい―これも基準である。
いつもこれは食べられるのに、今日は食べたくない。
そこで、どうも今日は自分はおかしいとわかる。
それが「ない」ということは、自分の体が自分の体ではないことである。
「疲れた時はこれが食べたい」というものがない―それが基準がないということである。
「これを聞くと元気になる」という歌がない、「これを聞くと涙が出る」という歌がない―それが、基準がないということである。
対人恐怖症やうつ病になる人は、自分で自分が分からない。
歳をとると風邪をひいてもわからなくなる人がいると聞いた。
若い頃持っていた基準を失ったということである。
ある塾で、皆が計算した。
そのとき、決められた時間内に、与えられた本のどこまでするか、目標を一人ひとりが自分で決めた。
「私、ここまで」「私は、ここまで」とそれぞれの子が言った。
しかしある子は、それが言えなかった。その子は計算は速い。
しかし、その子は「ここまでする」と言えない。
言ってしまうと、「できるか、できないか」が気になる。
さらに「人が何というか」が気になる。
その子は、「そこまでしかできないの?あんたは計算が遅いのね」と言われることを恐れる。
これが基準のない子である。
そこで先生が、「偉いね。普通の子は、コップにお水がいっぱいになると「もう、いっぱいになったから、ここまで」と言ってしまうのに、節子ちゃんはお水がいっぱいになって、ジャージャー流れているのに、それでもがまんをして、頑張っているんだよね」と言った。
するとその子は、スーッと満足したような顔をした。
先生はさらに「こういうことも、ああいうことも節子ちゃんは、全部我慢するんだよね」と言った。
それを聞いたら、その子は苦しそうな様子がなくなった。
このような先生は、子供が基準を持てるように教育する。
基準がないから頑張りすぎて無理をする
しかし、対人恐怖症やうつ病になるような人は、幼い頃、そのような先生に出会わなかった。
そして、基準が持てなくて頑張りすぎる。
その子は「こんなに少ないの?」と言われるのが怖い。
そこで、「ここまでできる」と無理をする。
このような子が大人になるとどうなるか。大人になっても無理をして、「ここまでできる」と言う。
相手は、その人が「ここまでできる」と言うから、できると思ってしまう。
無理をしているとは思わない。
そこで「ご苦労様」でおわる。
しかし、無理をした方は、「ご苦労様」ですむのはおもしろくない。
無理をしているからだ。
無理をしている人ほど、認められたい。
しかし、期待するほど認められることはない。
そこで不満になる。
憎しみを持つ。
こういう人は、人が何と言うかが気になって、自分でイエスともノーとも言えない。
別のある子は、先生が「やめなさい」と言ってもやめなかった。
自分でやると言ったところまでやろうとしてやめなかった。
すると、その子の母親は、「この子はけじめが無くて」と言った。
しかし、先生は机の側に座って、その子が「自分でやる」と言ったところまで終わるのを見ていてあげた。
母親は、その子のことを「わがまま」と言った。
その子にとっては、「ここまでする」と言ったところが、能力以上だった。
その子は、自分でやると言ったところまでしようとした。
それはわがままではない。
この場合には実行力である。
その計算の後で先生がご褒美にケーキを出した。
そして「四時まで食べていていいです」と言った。
それが、時間を過ぎてもケーキを食べるのを止めなければ、これはわがままである。
人からやめろと言われたことを止めないなら、わがままである。
しかし、この子に教えることはある。
先生は、「私はこの程度かなというところがわかるようにならなければね」と言った。
すると、その子は、「今度は少し前までにする」と言った。こうして自分の基準を学んでいく。
こうして自分は自分ということが分かってくる。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには少しずつ自分の基準を学んでいくことである。
「人とふれあって生きる」
心の触れ合いが束ねられてアイデンティティになる
第二には、アイデンティティの確立は触れ合いから生まれる
人と触れ合わないで生きてきた人は最後になると、「何だかわけがわからなくなっちゃって」となる。
自分はあの人の妻である。
自分はあの人の息子である。
自分はあの人の母親である。
自分はあの人の友達である。
自分はあの会社の社員であった。
自分はあの学校の卒業生である。
人生のそれぞれの時期に、人と心が触れ合いながら生きていれば、それぞれの時期の「自分」というものがある。
それらが束ねられて自分のアイデンティティになる。
しかし、それぞれの時期にひととこころがふれあわないままに生きてくると、人生の最後に来て、「なんだかわけがわからなくなっちゃって」となるのである。
アイデンティティーがあるということは、「わけがわかってる」ということである。
社会の中で自分の位置づけができているということである。
しかし、それは単なる立場だけではない。
あくまでも、そこでの心のふれあいである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには心のふれあいを増やすことである。
死んだあとも心の中にその人が生きている
人間は社会的な立場を与えられても、最後には一人になっていく。
配偶者は死んでゆく。そのときに心が触れ合っていれば、自分は「死んだあの人」と共に生きている。
しかし心が触れ合っていなければ、死んでしまうと、その人はいなくなってしまう。
死んでも心の中にその人が生きているというのが、生前に心が触れ合って生きていたということである。
現実の社会生活で一人になると、本当に一人になってしまうというのが、心がふれあって生きていないということである。
現実の社会生活でひとりになっても、心の中では一人になっていないというのが、心が触れ合って生きているということである。
「時期を待つ」
アイデンティティの確立は早く輝こうとして人生を間違えない
アイデンティティの確立の第三には、時期を考えるということである
イチョウの葉が散って、道は黄金の絨毯になる。
夏の時には、イチョウの良さが分からない。
秋の今は、さくらは枯れていて、誰も見ない。
時期が来れば輝く時がある、時期を待てば。
さくらの時期には、だれもイチョウをを見ない。
でも今、人はイチョウしか見ない。
愛されていない人は、自分がイチョウだか、さくらだかわからないで生きている。
だから、時と場所を考えないで人前で輝こうと努力する。
そして、失敗する。
最後には落胆する。
愛されなかった人にも、実は輝く時期がある。
しかしその時期が分からない。
愛されていなかったのだから、それを教えられていない。
木々を見るがいい。
夏にはその緑が良かった。
冬は枯れ木の方が「冬だー」と共感できる。
冬になれば緑では共感できない。
今の自分の歩き方をしていれば、その歩き方で必ず頂上に行けるのに、もっと早く行こうとする。
焦って、「もっと早く頂上に行く方法はないですか」と人に尋ねる。
赤ちゃんが、大人の歩き方をしたら、少しの時間は歩けるが、すぐに歩けなくなる。
アイデンティティの確立はどん底に落ちた時、本当の愛が見える
私は「冬のベンチが好きである」
冬のベンチが陽をいっぱいに浴びて、光っている。
ベンチは生きている感じがする。
あそこに何人かが座って、話し合ってと、ベンチに物語を感じる。
そんな日溜まりのベンチは、アンティークの感じがする。ぬくもりを感じる。
冬でも、そこには冷たさとか寂しさを感じない。
本当の幸せを感じるのは冬のベンチに座っている時。
本当の温かさを感じるのは冬のベンチ。
春になると人は周りの景色を見てしまうから、ベンチに注意がいかない。
一年中役に立ったものが、冬にひときわ輝いている。
人の心も愛情も、過酷などん底に落ちた時に気が付く。
普段何気なかった人の、あるいは気が付かなかった人の愛に気が付く。
それは辛い時。
夏は「暑い、暑い」で誰もベンチに注意が行かない。
夏は緑に気を奪われているから、ベンチに気が付かない。
冬に気が付くと「こんなベンチがあったのか」と人は思う。
春になるとチョウチョのほうに気を取られてしまう。
ベンチに腰を下ろしてチョウチョを楽しんでいるのだけれども、ベンチに注意が行かない。
ベンチに体を休ませていて、チョウチョを楽しむのだけれども、人は座っているベンチの存在にすら気が付かない。
そんなときに「オレはベンチだ、オレがいるからお前はチョウチョを楽しめるのだ」と不満から騒いでも、人は認めてくれない。
しかし、冬が来れば黙っていても人が認めてくれる。
「朝日の当たる家」という歌が昔あった気がする。「朝日の当たる家」はきっと冬の話である。
苦節十年型の人が生き残る
ビジネスマンであろうが、学者であろうが、芸能人であろうが、新聞記者であろうが、どの世界の人でも長く生き残るのはやはり苦節十年型の人である。
何の苦労もしていない木が枯れていくときには、人は感動しない。
そして、そういう枯れていく木自身は、「緑の木はいいなー」と不平を言っている。
秋を待って紅葉している木はきれいである。
そして冬が来たら「雪に埋もれて、静かに寝よう。」
甘い汁を吸って生きた人の顔と、「苦節十年」で努力した人の顔が違うように、木の顔も違う。
対人恐怖症、社交不安障害の人はその時が来るまで待つことである。