自己否定感と無力感を経験することは、耐えがたい痛みとなります。
身体が痛むときもつらいものですが、その痛みはいつか治まるでしょう。
けれど、自分が欠陥品だと信じ込んだとしたら、治るということはありません。
恥じに満ちた自己否定というのは、希望を打ち砕かれた状態なのです。
どうにかして、この耐え難い痛みを和らげなければなりません。
誰かが、あるいは何かが、深い孤独や不安を取り去ってくれないとどうにもならない。
だから私たちは、気分を変えてくれる体験を追い求めるのです。
逃げ場が必要なのです。
特定の活動で自分を忙しくさせていれば、痛みや怖れや、怒りから目をそらしておくことができます。
こうした活動の多くは、別の状況であれば、それがエスカレートして生活のバランスを破壊することがない限り、特に害はないものです。
たとえば運動は、どれが過剰になって身体を壊すようなことさえなければ、健康的な活動です。
人間関係への依存は、ひたすら誰かとの関係の中で自分の価値を確認しようとするものです。
それはつまり、自己否定感をやわらげ本当の自分に向き合うのを避けるために、他人をりようすることです。
セックスへの依存は、痛みから目をそらしたり痛みを和らげるために、性的な刺激を利用するものです。
また、自分の無力感を克服するために間違った方法で力を手に入れようとすることでもあります。
セックスに夢中になることで、私たちはその場だけのぬくもりや見せかけの愛を手にします。
あるいは、性的な行動で怒りを表現することもできます。
こうしたセックスの体験は私たちが愛され価値がある存在だと一時的に保証してくれ、それでようやく、自分が欠陥品だという思い込みと折り合いがつくのです。
セックス依存症者の依存の中心になるものはさまざまで、強迫的なマスターベーション、ポルノへの沈溺、露出癖、わいせつな電話、のぞき、多数の人との性行為、買春、などなどです。
セックス依存症者にとっては、特定の行動が性的な意味を持ちます。
物や人を、自分の性的な妄想を通して見ているのです。
感情そのものにとらわれる場合もあります。
本当の感情に蓋をし、本当の感情を避けるために、ある種の感情に依存していくのです。
怒り中毒になって、すべての感情から逃げるために怒りを使っているかもしれません。
また怖れが私たちを圧倒して、恐怖症や、神経過敏、あるいは不安が人生をコントロールすることもあります。
自分や家族に大きな害を及ぼす行動もあれば、少々やっかいな習慣というぐらいのものもあるでしょう。
ですから程度にもよるのですが、それが痛みから目をそらすための行動である限り、それは私たちの誠実さを妨げ、今を生きる力を損なう危険性があるのです。