「一日一善」でイライラ体質を改善する
イライラは「被害者」の感情、ということを考えれば、「被害者」らしくない振る舞いをすることによってイライラから脱する、ということが可能になります。
例えば、見知らぬ人に親切にすることのよい点は、「自分にはそんなに親切なところがある」という発見ができるところ。
自分が「自分の意思で」「善をなし、幸せな状況を作ることができる」という発見なのです。
この時点で自分は主役になっています。
イライラしているときは、どうしても心が「被害者モード」になっていますから、やっと座れた席を譲るなんて、「これ以上損をするのか」という気持ちになりがちです。
でも、潔く席を譲って、よい雰囲気を作り出す、というようなシーンは、生活の中であまり多くは体験できないもの。
小さくても、こんな主役クラスの満足を得ることができれば、イライラは忘れていられるはずです。
一見「損」に見えることの中に「得」があるのです。
相手の反応でイライラしてしまう人は
親切にしても喜んでもらえないとすぐに「被害者モード」に陥ってしまう、という人は、人間相手ではなく、例えば落ちている空き缶を拾って捨てる、などという行為がお勧めです。
「なんで空き缶を捨てることくらいきちんとできないんだろう」「なんでこんなに無神経な人がいるんだろう」などと「なんで?」によるイライラを抱え続けるよりも、さっさと自分で拾って捨ててしまったほうが、環境もきれいになりますし、さわやかな気持ちになるはずです。
自分が散らかした空き缶でもないのに「損」だ、と感じる人もいると思います。
もちろん、捨てた人との関係性の中では、確かにこちら側が「つけを払わされている」と言うこともできます。
しかし、より大きな「つけ」は、イライラによって損なわれる自分の時間です。
この例の場合は顕著にわかると思いますが、落ちた空き缶を見ながら何もせずにイライラしているときは、手足を縛られたようなもの。
自ら「環境をきれいにできない」という不自由を作り出して、変えられない現実を前にイライラし続けているのです。
一方、さっさと捨ててしまう、というときには自由があります。
環境を自分の好きなようにコントロールできるとイライラがなくなるのです。
こうして考えてみると、相手が人間の場合にも少し違う見方をすることができます。
席を譲ってあげた相手が感謝しないとしても、少なくとも自分は「席を譲る」という形で美しい環境を作り出すことができたのです。
譲られた本人が失礼な態度をとったとしても、周りで見ている人には「親切な人がいるものだ」という、よい印象を残したでしょう。
そうやって、自分が住むこの環境を、自分好みにコントロールしていくことは可能なのです。
最終的に、この態度は、知っている人に対しても応用していくことができます。
知っている人の場合、どうしても「これだけ尽くしているのだから・・・」という気持ちになってしまうもの。
しかし、知らない人に対して小さな親切をするのと同じように、見返りがなくても与える行為を重ねていくと、自分が作り出したよい雰囲気が結果として周りにも伝わっていくのが感じられると思います。
一人が「被害者モード」から脱すると、それは伝染する力があるのです。
ポイント:イライラで損なう時間は大きな「つけ」。「親切な自分」がよい状況を作り出す。
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自分で文化を創る
例:周りのモチベーションを下げる発言をする上司
「どうせできるわけがない」「うまくいくわけがない」などと言って、せっかくやる気になっている人の足を引っ張るタイプの人は、案外いますよね。
それも上司であれば、気軽に「そういう言い方はやめてくださいよ」などと言えない場合も多いと思います。
また、ネガティブ思考の人は、「そういう言い方はやめてくださいよ」というような指摘をポジティブにとらえられないことが多いですから、自分を否定されたと思って反撃に出てくるかもしれません。
上司からの反撃は面倒なことになりがちです。
このような上司は、もちろん「本来あるべき状態」とは違っており、かつコントロール不能ですから、イライラの対象となります。
自分一人であれば、「ここまでネガティブ思考になるということは何か事情があるのだろうな」「こんなことばかり言っていたら、今までもずいぶん嫌われてきたのだろうな」などと頭の中で考えて、この上司を位置づけることはできるでしょう。
しかし、場所は職場。
自分と共に働く同僚たちがいて、その人たちのモチベーションまで下がってしまうのは自分にとっても困ったことになります。
どのようにすれば、主体的に、好ましい影響を周りに及ぼすことができるでしょうか。
「被害者モード」から脱するには自分から
このようなときには、「自分で文化を創る」という考え方をするとよいと思います。
ネガティブなことを言う上司がいると、ついつい皆がその「被害者」になってしまうのですが、まずは自分だけでも「被害者モード」から抜け出し、自由に振る舞うことはできるのです。
それは上司に「対して」行うのではありません。
上司の発言は心の中で「相当なわけあり上司だな」と考え受け流した上で、違う状況のときに同僚や後輩に「この調子ならうまくいきそうだね」「頑張ってくれているから心強いよ」「何かあったらフォローするから言って」などと前向きな声をかけるようにするのです。
すると、周りのモチベーションは上がるでしょう。
これは、自分が「ポジティブな文化」を創っていると言えます。
上司は上司でネガティブな文化を普及させようとしているのですが、こちらはそこから独立したところで、着々とポジティブな文化を創っていけばよいのです。
どちらが人望を集めるか、と考えれば、結果は明らかでしょう。
人は、自分の頑張りを認めてくれる人が好きですし、希望を感じさせてくれる人が好きなのです。
「被害者モード」にとどまっている限り、主役は、嫌な上司。
「あの上司さえあんなことを言わなければ・・・」「隣の課の課長みたいな人だったらよかったのに・・・」などと思っていると、自分のモチベーションも下がってしまいます。
でも、仕事は上司のためにしているのではありません。
経済的な事情で仕事をしているにしろ何にしろ、仕事のために自分の人生の時間とエネルギーを費やしていることは事実。
自分が主役になって、自分が「こう働きたい」と思う姿勢で働くことは常に可能なのです。
それが結果として周りにも影響を与え、自分が働く環境を好ましいものにしていきます。
つまり、自分の環境すら、コントロールしていくことができるのです。
例:口だけで動こうとしない人
こんな人が近くにいてもイライラしがちですが、ここもやはり自分で文化を創ることができるタイミングです。
「なんで口だけなの?」と「被害者モード」に陥ってしまうのではなく、自分は「有言実行」の文化を創ろう、と思えば、ついてきてくれる人は必ずいるでしょう。
そのほうが本来気持ちのよいことだからです。
ポイント:「被害者モード」の環境にいるときは、まずは自分が主役になってみよう。
笑いで「被害者」を脱しよう
最近、お腹の底から笑ったのはいつですか?
今日一日を振り返って、つい笑ってしまったタイミングは何回ありましたか?
「笑い」は、イライラを吹き飛ばす、とてもよい方法です。
そもそも、笑いながらイライラすることは不可能です。
笑っている限り、人はイライラすることができないのです。
ですから、「笑い」に注目することは、脱・イライラの決め手にすらなります。
笑いは、心身に直接の効果を与えます。
笑うことによって全身がリラックスし、イライラしているときとは異なる状態になります。
イライラしているときには、どちらかと言うと、筋肉がこわばり、呼吸も短く荒くなりますね。
笑うと、そのあたりの緊張がすっと解けていくのがわかります。
イライラしているとき、口角を上げて笑った顔を作るだけでも、少しリラックス効果を感じると思います。
できればそんな自分の顔を鏡で見て笑ってしまうとよいでしょう。
笑うと力を感じる
笑うことは、単にリラックス効果があるだけでなく、自分には力があるという感覚ももたらしてくれます。
例えば、災害や事件などひどい体験に打ちのめされてしまった人は、大きな衝撃の中、「自分は笑える」ということすら忘れてしまいがちです。
でも、何かおかしいことに触れて、つい笑ってしまう、ということが起こると、「自分にはまだものを楽しむ力が残っていたのだ」と思い出すのです。
それがきっかけとなって回復が進むことも少なくありません。
笑いが力につながるものである一方で、イライラは自分を無力化する感情。
イライラしているときの感じ方は「笑ってなどいる場合ではない」というものでしょう。
つまり、私たちはイライラしている間、自分に「楽しむことをゆるしていない」とも言えるのです。
これは考えてみれば変な話です。
私たちは周りの状況や人によってイライラ「させられている」と思っているのに、その上、楽しむことを自分で自分にゆるしていない、ということなのです。
状況がどうであれ、楽しむ自由も能力も、本当は常にあるのです。
イライラしているときに「笑ってなどいる場合ではない」と感じるのは典型的な例ですが、こうやって、イライラは自分の被害者度をさらに強めるものです。
前述したように、イライラと笑いは共存できません。
ですから、まずは、笑って楽しむところから、脱・「被害者モード」を始めてみましょう。
笑うことは、「今」に集中する「身体の使い方」そのものですので、過去の呪縛を解いて気持ちを切り替える効果もあります。
大笑いしたあとには、自分がイライラしていた状況が実は大したことでないように思えたり、自分に嫌な思いをさせた相手が実は「かわいそうな、生きづらい人」だと思えたりするかもしれません。
よく笑ったあとにイライラの世界に戻るのは面倒に感じられて、「もういいや」と思うことも多いでしょう。
何かで大笑いするのもよいことですが、日頃からユーモアを持つというのもイライラ体質を治すためのよい方法です。
ユーモアは、最高レベルの「主体性の発揮」だと言えます。
物事を「おもしろおかしいこと」として自分で位置づけているからです。
ユーモアのある人の生活に笑いがあふれているのは、その人が特に恵まれているからではなく、物事が「おもしろおかしいこと」に見えるよう、自分でコントロールしているからだといえます。
ポイント:笑いはイライラを吹き飛ばす決め手。
小さな「ゆとり」を持つ
この表題を見て、「無理!」とイライラした人もいるかもしれませんね。
ゆとりのある生活は、現代社会に生きる私たちにとって、なかなか難しいもの。
「この仕事さえ終われば・・・」「今抱えていることが一段落すれば・・・」「時間ができたら・・・」と、「いつかゆとりができたら」を夢見つつ、実はそれが実現したことがない、という人は多いのではないでしょうか。
いつまでたっても「ゆとり」ができない自分の生活に、イライラしている人も少なくないと思います。
これは実は当然のことだとも言えます。
「ゆとり」というのは、「しなければならないことの量」の問題という以上に、心の姿勢の問題だからです。
「ゆとりがない」と感じる気持ちは、「被害者モード」に陥っている証拠です。
「忙しいせいで・・・」「時間がないせいで・・・」「やることが多過ぎるせいで・・・」というのは、いずれも「〇〇のせいで・・・」です。
「忙しさ」についても、「被害」と「被害者モード」を区別していくと過ごしやすくなります。
物理的にやらなければいけないことがたくさんあるのは、現実的な「被害」、つまり、大変なことです。
でも、そのことと、それを「被害者モード」で行うこと、つまり常に「余裕がない!」「これさえ終われば・・・」という気持ちでいることは、別のことです。
ゆとりとは自分のための時間
心の姿勢に注目しさえすれば、仕事をやめて田舎で暮らすなどということをしなくても、「ゆとり」はいつでも実現可能です。
ほんの短い時間でよいのです。
ゆっくりお茶を飲む、好きな本を読む、好きな音楽を聴く、などということができれば上々。
このような「自分のための時間」を、自分の意思で持つことが「ゆとり」です。
「さあ、この時間は自分のために使おう」と勇気を出して、その「今」に集中するだけで、「被害者モード」から抜け出す力になります。
その後また忙しい仕事に戻っても、「被害者モード」にどっぷりつかっていたときとは感じ方が変わっているはずです。
前よりも自分の力を感じながら仕事に取り組めるでしょう。
でも、本当に忙しいときには、文字通り、ゆっくりお茶を飲む時間すらないかもしれません。
「お茶を飲む時間すらない」「最近本なんて全く読めていない」というところにはまっていってしまうと、「被害者モード」になり逆効果です。
そんなときに役立つ考え方は、ある一瞬でよいので、「自分の時間にする」こと。
とても手軽なのが、「きちんとする」ことです。
使った物を元の場所に戻す、というのは、片付け述としてはよく知られていますが、実はそのような実用的な効果にとどまらず、「自分は物のケアをきちんとできている」「自分は身の周りに秩序を作ることができている」という「ゆとり」ももたらすのです。
あるいは、脱いだ靴をそろえる、というようなこともとても効果的です。
「忙しい!」と「被害者モード」にはまってイライラしているときには、「靴をそろえている暇もない!」と感じがちです。
しかし、靴をそろえるのは数秒でできること。
「そんな暇はない!」とイライラしている間にできてしまいます。
すると、「忙し過ぎて何もできない!」という「被害者モード」から、「秩序は自分で作れる」「快適な空間を自分で作れる」主体的な存在になれるのです。
これらは、「今」にいるという観点からも効果的な方法ですね。
ポイントはあくまでも、「ちょっとしたこと」であるところ。
「オフィスを大掃除する」「いらないものを全部捨てる」などという大きな目標を立ててしまうと、それを実現させてくれない現実にイライラするようになってしまいます。
ポイント:ほんの少しだけでよいので、自分の意思で「自分の時間を作る」。
イライラしている他人にはどうしたらよいか
イライラしている人は、不愉快でもあり、怖くもありますね。
その姿は、一般に「攻撃的」に見えます。
しかし、イライラから「攻撃」を感じ取ってしまうと、話がややこしくなります。
萎縮してしまったり、こちらも「反撃」としてイライラしてしまったり、などということも出てくるでしょう。
イライラしている他人に対して、最もうまく関わるにはどうしたらよいのでしょうか。
イライラというのは「無力な被害者」の感情。
周りに向かって「自分ではどうしようもないから、何とかして」と言っている存在です。
人にものを頼むときの「本来あるべき状態」は、何に困っているかを説明してお願いする、というものですが、イライラしている人たちは、そうすることもできず、だだっ子のようにただ周りにイライラをぶつけて「何とかしろ」と言っているだけです。
その本質が「無力な被害者」であることに変わりはありません。
イライラしている人たちの見かけ上の「攻撃」にまどわされることなく、その本質を見つけることが大切です。
「〇〇のせいで・・・」という「被害者モード」から逃れられず、「〇〇」が変わらない限り自分の状態も改善しないと信じている、かわいそうな人なのです。
イライラしている人は「かわいそうな人」と見よう
ですから、イライラしている人を見たら、まずは「いやな人」「怖い人」と見るのではなく、「かわいそうな人」として見るようにしましょう。
「自分の状況を自分で改善することができない、かわいそうな人」ということなのです。
「自分が攻撃されている」と見るのではなく、「相手がかわいそうな人なのだ」と見ることによって、相手のイライラに対して自分が「バリア」をはることができます。
イライラのエネルギーから直接の影響を受けずにすむのです。
また、相手のイライラに対してイライラするのも防げるでしょう。
人がイライラする姿は「本来あるべき状態」からの逸脱。
でも、相手を「イライラしている」と見るのではなく「困っている」と見れば、人間として共感することも可能になるでしょう。
あるいは、「困るのはわかるけど、いくらなんでもそこまでイライラする?」と笑ってしまうかもしれません。
相手のイライラを鎮めるには
そうやって自分の姿勢を定めた上で、相手のイライラを鎮めたければ、自分のイライラに対処するのと同じ方法をとりましょう。
まずは、「こういうときってイライラするよね、ひどい目に遭ったよね」とそのイライラを肯定します。
よく、イライラしている人に向かって、「イライラしても仕方ないでしょう」「私は何とも思わないよ」などと教え諭そうとする人がいますが、それは相手をかえってイライラさせるものです。
「イライラしている自分という現実の受け入れ」や、「衝撃をできるだけ早く乗り越えるためには感情を肯定することが必要」というテーマから考えれば、「イライラしても仕方がない」「私は何とも思わない」などという態度そのものが、脱・イライラの妨げになってしまうのです。
相手のイライラを肯定する、というのは、何も相手と一緒にイライラするという意味ではありません。
イライラするのはあくまでも「相手の事情」ですから、こちらが一緒になる必要はないのです。
コツは、イライラする相手を「困っている相手」として見て、「大変だよね」と寄り添うような感覚でいること。
イライラの内容を肯定するというよりも、「大変なときって本当にいろいろな反応が出るよね」という気持ちでいることです。
「〇〇のせいで・・・」と思っている相手から「〇〇」の悪口を言われて同意を求められても、「大変だよね」という枠内におさめるようにすれば、一緒に「被害者モード」に陥らずにすみます。
ポイント:イライラ状態の相手と同化しないで、大変だね、と寄り添うくらいの気持ちを持つ。
イライラを手放したときの快感中毒になる
人間である限り、「イラッとする」ことから完全に自由になる日は来ないと考えておいてよいでしょう。
それは生き物としての人間に備わった自然な防御反応だからです。
また、状況によって、特に衝撃を受けてしまったときには、イライラに陥ってしまう、ということもあるはずです。
実は、このことは、決して悲観的にとらえる必要のないことです。
なぜかと言うと、イライラする回数が多いだけ、それを手放す喜びを体験できる回数も保証されるからです。
イライラをどうにかしたいと考えるとき、私たちの目はどうしても「イライラ」そのものに向きがち。
イライラはもちろん気分の悪い感情ですから、「イライラをどうしたものか」と考えている限り、気分は暗いですね。
でも、「イライラを手放すときの快感」に目を向けてみると、まるで世界が違ってきます。
自分をイライラさせる人は忍耐の先生、などと言われますが、これを「堪え忍ぶべし」というふうに解釈している限り、イライラから解放される日は来ないでしょう。
イライラは我慢すると膨張しますし、「イライラ」させられただけでなく「我慢」までさせられる、ということになると、「被害者モード」が倍になる、ということです。
「イライラの手放し」は無料で体験できるリラックス法
それよりも学ぶ価値のあることは、イライラを手放したときのすばらしい快感。
イライラのエネルギーで自分を締め付けているところから、「まあここでイライラしても仕方ないな」とそれを手放したときのスーッとする快感は、中毒になるほど気持ちがよいものです。
笑うとイライラしていたときの緊張が解ける、というお話をしましたが、何かに笑ってしまわなくても、同じ状態を自分で作り出すことができるのです。
「イライラをどうすべきか」などということとは全く別の次元で、自分を解放することは本当に気持ちのよいもの。
「なあんだ、自分を縛り付けるものなんて、何もなかったんだ」と、のびのびと広がる人生を感じられるはずです。
この感じ方こそが、「力のある主役」の感じ方なのです。
無料でそんなよい気持ちを味わえるのですから、利用しない手はありません。
私たちは、温泉に行ったり、マッサージを受けたり、いろいろな形でリラックスすることが好きです。
イライラを手放すことも、リラックスの一つの方法と考えれば、見え方がぐっと変わってくるはずです。
お金がかからないだけでなく、「今この場で」できる、何ともお手軽なリラックス法なのですから。
しかも、周りから「人間ができている」などという評価を得られる、というおまけつきです。
口論の最中にイライラを手放してみる
このスーッとする感じを最もリアルに体験できるのが、人と対立して、口論などになったときです。
口論と言えば、一般に目的は「勝つこと」。
こちらの論理に屈しない相手にはイライラしますし、それを何とか打ち負かそうと、イライラのエネルギーを向けていきます。
しかし、口論とは、そもそも意見が違うから始まるもの。
意見の違いを扱う場を、「闘いの場」ではなく、「違う事情を持った者同士の折り合いの場」と考えれば、その目的は「勝つこと」ではなく、「うまく折り合うこと」となります。
その目的からは、イライラのエネルギーは百害あって一利なし。
イライラはコントロールの難しい感情ですし、イライラをぶつけられた側は「攻撃された」ととって反撃してくるでしょう。
無駄なところにエネルギーが浪費されて話がこじれるのも当然です。
こんなときには、お互いにイライラの綱引きをしているようなもの。
本当の意味での「勝者」は、その「綱」からさっさと手を離す側です。
どうやって離すのかと言うと、「ひどい言い方をしてごめんね」「感情的になって大人げなかったね」と謝り、その場を、メンツ中心の「口論」の場から、実質的な成果を得るための「折り合い」の場に進化させればよいのです。
この時点で、謝った側は、軌道修正の立役者。
つまり、場の主役になっています。
謝られたほうは、相手が綱から手を離してしまった以上、もはや綱引きを続けることはできませんから、「こっちこそ言い過ぎてごめん」「いや、わかってくれればいいんだ」などとトーンダウンするはずです。
こちらのもくろみ通り、場の空気が変わった、ということになります。
そのように、その場の空気を支配したという意味でも「勝ち」なのですが、何と言っても、キリキリと張り詰めた綱引き状態からスッと手を離すときの快感は、経験した人にしかわからないもの。
身体中がリラックスして感じるものなのです。
口論は高じるとかなりの緊張状態を作り出しますが、それを手放すときの何とも言えないリラックス感は、なかなか得難い体験となります。
もちろん、ここで譲っているのは「口論」という形式のみであって、自分が主張している内容を譲っているわけではありません。
ましてや、相手の主張をそっくり飲み込む、ということでもありません。
リラックスすれば、「どのように説得すると相手は動くか」をよく考えることもできるでしょう。
相手に何を期待できるかということを現実的に考え、かつ、その伝え方を「自分が困っているからお願い」という形式にすることで、かなりの程度自分の思い通りに相手を動かせるはずです。
イライラしていると「被害者モード」にとらわれていますから、このような主体的な作業はできません。
また、ここでのポイントは、「主体性」だけではなく、「今」でもあります。
口論しているときの私たちは、「過去」からいろいろなデータを引っ張ってきては自己正当化したり、「未来」の心配を訴えては相手を攻撃したりするものです。
形だけ「自分が困っているからお願い」にしようとしても、ついつい頭を「過去」に持って行かれてしまい、「そもそもあなたはあのとき・・・」と戻りがち。
すると、せっかく協力する気になっていた相手は、そこに人格攻撃を感じ取り、一気にやる気を失ってしまいます。
相手と折り合う力を最も発揮できるのは、「今」に集中するとき。
「どうせ」を手放し、「今」目の前にいる相手に直接気持ちを伝えていくことで、思った以上の成果を得ることができるでしょう。
ポイント:あらゆる状況でイライラを手放す。その得難い快感を繰り返し体験してみる。
自分こそが正しい感覚を手放す
自分の心を楽にする方法として、イライラを手放すということ。
また、相手に合わせて自分のべきを調整していくこと。
「べき」が人を無力化するということ。
しかし、全ての「べき」を手放すことにはどうしても抵抗がある。
「べき」は、「正しさ」を守るためにやはり必要なものなのではないか。
そんな気持ちがある人がおられるでしょうか。
「正しさ」は「べき」を作りますから、どうしてもイライラにつながります。
ですから、ここで「正しさ」について改めて考えておきましょう。
そもそも「絶対に正しいこと」などあるのでしょうか?
文化によって、またそれぞれの事情によって、ものの見方は様々です。
例えば「親を大切にしよう」などというのは一般に「絶対的に正しいこと」であるかのように思われているかもしれませんが、親からひどい虐待を受けてきた人にその「正しさ」を押しつけてしまうと、致命的に傷つけることにもなりかねません。
そんなのは例外だ、と思うかもしれませんが、世の中には例外がたくさんあります。
「絶対的に正しいこと」と言うためには、例外があってはならないはずなのですが、そんなものはなかなか見当たりません。
法律などで規定されているものは、社会的にはそれなりに「絶対的」な位置づけになってはいるものの、その内容は国によってずいぶん異なったりしています。
同じ国の中でも、ある法律を「妥当」と感じる人もいれば感じない人もいます。
つまり、法律などの社会的なしくみも主観の平均値から作られているだけであって、「絶対に正しいこと」と言えるわけではないのです。
自分が感じる正しさという認識を持つ
自分が何かを「正しい」と感じるとき、それを「絶対的に正しいこと」と思い込むのではなく、あくまでも「自分が感じる正しさ」なのだという認識を持っておくことはとても重要です。
もちろんこれは、「相手には相手の感じる正しさがある」という認識と同じことです。
実は、相手とのやり取りの中で自分が望む方向に結論を持って行くためには、この認識が必要です。
「自分こそが(絶対的に)正しい」という感覚を持っている限り、結果のコントロールは難しいでしょう。
確かに、自分が望む方向は自分にとっては「正しい」ことだと言えます。
しかしそれは自分の事情を反映した「自分が感じる正しさ」であって、相手には相手の事情があり、相手が「正しい」と感じることはまた別なのです。
「自分は正しい」ということと「自分こそが正しい」ということは似て非なるもの。
「自分は正しい」の前には(自分の事情からは)というカッコ書きが入りますが、「自分こそが正しい」ということになってしまうと、それが唯一絶対の真理のようになってしまいます。
別の事情を抱えた相手がそれに反発を覚えるのは当然のことです。
それは相手の「正しさ」を否定することになってしまうからです。
「あなたの意見は違うかもしれないけれども、私はこう困っているから、お願い」という頼み方であれば、相手は自分の感じ方も尊重された上でお願いされているのですから、「ここは一肌脱いで協力してあげよう」と思えるでしょう。
自分が「正しい」と思う方向に物事を進めたければ、「自分こそが正しい」をまず手放す必要があるのです。
自分こそが正しいは被害者モードの感じ方
マナーなどもそうなのですが、「べき」とは、「自分こそが正しい」という感覚に基づくものです。
「自分こそ正しい」と思っているから、そうできない相手にイライラするのです。
イライラから解放されるためには、「自分こそが正しい」を手放さなければならない瞬間が必ずあります。
これは、「相手が正しい」と降伏するという意味ではなく、「自分も相手も正しい」と認識する、ということです。
それぞれの事情を考えれば、それぞれにとっての「正しさ」は違って当然です。
そして、どちらが本当に正しいのかを決める必要はないのです。
法律などを決めるときにも「本当に正しいのは誰か」を決めているわけではありません。
あくまでも、共に暮らす社会のルールを作るための「意見の集約」をしているだけであって、そこで決まったことを守るというだけです。
そこで決まったことが「正しい」わけではないのです。
全般に、「本当に正しいのはどちらか」を決めることに意味はありません。
それぞれの人にはそれぞれの「正しさ」があるのが現実であり、それに逆らって「絶対的に正しいこと」という軸を持ち込もうとするからイライラするのです。
実は「自分こそが正しい」と思いたくなる気持ちこそ、「被害者モード」に特徴的な、受身的な姿勢だと言えます。
自分が人生の主役であれば、他人から「正しさ」を認定してもらう必要などなく、ただ自分が正しいと思ったことをしていけばよいはずです。
しかし、人から「正しい」と認めてもらえないと気がすまない、ということであれば、「他人」を主役にした、他者依存的な不安があるのだと思います。
自分は自分の美意識に基づいて生きていく。
他の人は、それぞれの事情を反映して、それぞれの美意識や被害者意識に基づいた行動をとっていく。
それが社会というものの現実であって、そこに決着をつける必要はありませんし、決着をつけることなどそもそも不可能なのです。
現実的に改善したいことがあれば「自分が困っているからお願い」と頼んでいけばよいだけです。
ポイント:「自分こそが正しい」を手放して、じぶんなりの「美意識」を求めていけばよい。
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脱・イライラのステップは、まずは理屈が腑に落ちる→「やってみたい」と思う→難易度の低い時にやって見て、「できる」「こちらのほうが気持ちがよい」という感覚をだんだんつかんでいく→より大きなイライラにも挑戦していく、という形で進めていくものです。
それは一種のトレーニング。
筋肉を鍛えるのと同じことで、筋トレの仕方がわかったからと言って、急に大きな筋肉がつくわけではありません。
「現実を受け入れる」ことは、脱・イライラの最初のステップです。
「現在の自分にはこれくらいしか筋肉がない」と現実をうけいれた受け入れた上で、「これからもコツコツやっていこう」と思えれば、それでよいのです。
イライラについても全く同じことです。
それでも、トレーニングの仕方を知っているのと知らないのとでは大違いです。
時間の経過に伴い、その違いはどんどん大きくなってくるでしょう。
現実という壁に「変われ、変われ」と身をぶつけながらボロボロの「被害者モード」の人生を歩むのか。
それとも、「イライラしないほうを選ぶ」という人生の羅針盤を持って生きていくのか。
もちろん後者のほうが、主役クラスの人生を、のびのびと過ごせるようになっていくでしょう。
その違いを作るのが、「イライラは無力な被害者の感情」「イライラする先に未来は開けない」「イライラを手放しても損をしないどころか、得をする」ということを知っているかいないか、ということになるのです。
脱・イライラの本質は、「無力な被害者」から抜け出して「力のある主体」になること。
主体的な存在になるということとは、「べき」から脱出して、自分で決めたり楽しんだりするということです。
つまり、脱・イライラについても、「イライラを手放すべき」と考えるのではなく、「イライラを手放したい」と思うことなのです。
また、「べき」であれば完璧主義に陥ってしまいがちですが、主体的に取り組むのならつまみ食いでも全くかまわないのです。
現時点の自分が「ここなら納得」と思うところだけ、つまみ食いしてみましょう。
「イライラを手放してみるとどうなるか、試してみよう」「いったん相手には事情があると考えてみて、自分の気持ちを観察してみよう」と実験してみることも主体性を取り戻す一つの方法です。
実験する余裕は「被害者」にはないものですから、「試してみよう」と思う時点でその人は「主役」ということになります。
それでもイライラするときは心に傷がある可能性がある
イライラを手放すことを「絶対に不可能」と感じたり、今までの内容に強い警戒心を抱いたりするのであれば、それは過去からの心の傷との関連が深いのかもしれません。
特に、些細なことで、ひどくイライラし、そのイライラが長時間持続して手放せない、というタイプの人は、心の傷から来るイライラである可能性が高いです。
虐待やいじめなどによって人から傷つけられてきた人は、自分を必死で守って生きています。
深刻な心の傷を受けるような環境は、強い「衝撃」の連続です。
常にピリピリと警戒態勢でいなければ、生き延びられません。
それは虐待下のような異常な環境では生き延びるための唯一の道だったと思いますが、今の日常生活においてはむしろ非適応的で、自分を不幸にする姿勢になってしまっているでしょう。
「すぐキレる人」などと思われて対人関係がうまくいかないことも多いですし、自分でも感情コントロールが難しくて生きづらさを感じているかもしれません。
あるいは、ほとんどの人に対して警戒的になってしまうため人を避けて生きることになり、本来であれば楽しめるはずの機会から自らを遠ざけてしまっているかもしれません。
心身に刻まれてしまっているこれらのパターンは、ここまでの経過を考えれば仕方のないことですから、まずは現状を肯定するところから始めることが必要です。
心の傷から来る強いイライラが現在の自分にあるということを受け入れ、大変だった自分をいたわる(「被害」を認める)と同時に、かつて自分を傷つけた人から刷り込まれたパターンに従って生きるのではない、「もう一つの選択肢」があるのだ、ということを知っていきましょう。
もう一つの選択肢とは、ありのままの自分でのびのびと生きていく、というものです。
「無力な被害者」としての人生から「力のある主体」としての人生に自らが転じることを、骨の髄から理解できる体験になっていくと思います。
ポイント:過去に受けた心の傷の存在を受け入れてからのびのび生きる「もう一つの選択肢」を知っていく。