イライラしている人は「強い誰か」を待つ
イライラは、「無力な被害者」の感情。
そして、イライラのもとにある「べき」は、人を無力化するものです。
これは、いろいろなところで検証することができます。
例えば、世相にイライラしている人は、「誰か強いリーダーが出てきてビシッとしてくれること」を期待している場合が多いものです。
しかし、社会の現実は、「必然としての『本来あるべき状態』」にあって、特定の誰かがその人の考える「べき」をビシッと押しつけたからと言って変わるような性質のものでもありません。
一見変わったようであっても、あとで必ず揺り戻しが来たり、どこかにひずみが出たりするものです。
歴史を見れば、イライラするくらいしかできない、無力化した人たちが「誰か強いリーダーが出てきてビシッとしてくれること」を期待した結果、取り返しがつかない方向に社会が進んでしまい、悲しい結果を生み出した例をいくつも見つけることができます。
自分たちが望んだ「強い誰か」がどんな方向に暴走しようと、それを食い止めることができないのですから、本当に無力なことです。
満足のいかない世相にイライラすることも、「強い誰か」を待つことも、実はどちらも「無力な被害者」の立場での話。
現状をどうすることもできずにイライラするのも、「強い誰か」に全てを委ねるのも、どちらも「コントロールできていない」という意味では同じことなのです。
「無力な被害者」そのものから抜け出さなければ、自分たちが暮らす環境をコントロールすることができないのは、考えてみれば当然のことだと言えます。
これは、大きな社会についてだけでなく、会社などの組織についても言えることです。
ポイント:現状にイライラする、「強い誰か」に依存する、どちらも「無力な被害者」の立場。
自分自身が強い誰かであることに気づく
現状をどうすることもできずイライラするのでもなく、「強い誰か」が全部解決してくれるのを望むのでもない、「もう一つの選択肢」があります。
それは、自分が主体的な存在になること。
その本質は、自分自身が「被害者モード」から抜け出すことです。
それは個人的には役立つけれども、社会にはとても影響を与えないだろう、と思われるでしょうか。
しかし、一人がイライラを解消し「被害者モード」から抜け出すことは、周りの人たちに少なからぬ影響を与えます。
一人が何人かに影響を与え、その何人かのそれぞれが、また何人かに影響を与え・・・というふうに考えていけば、自分の行動は結果として社会にかなりの影響を与えるのです。
ここで「どうせ社会など変わらない」と感じる人は、それが「被害者モード」の感じ方だということを思い出してみてください。
「どうせ」と決めつけるのではなく、まずは自分が「被害者モード」から抜け出す「一人」になろう、と「選ぶ」ことは可能なはずです。
必要なのは、イライラしたり、「べき」で考えたりすることが、自分を無力化すると気づくこと。
そして、本来自分が持っている力を取り戻すために、「べき」を「したい」に変えていくことです。
そうやって一人一人が「主役」になれば、つまり、一人一人が「じぶんこそが『強い誰か』なのだ」と気づけば、生活環境はずいぶんコントロール可能なものになるはずです。
ポイント:自分がまず「被害者モード」から抜け出すと、社会にも好ましい影響を与えられる。