コミュニケーションが苦手とは
コミュニケーションが苦手な人は、人間関係でその人の人生を損している可能性がある。
本当は他人から可愛がられる要素を持っているのに、それを隠して見たり。
ここでは、コミュニケーションが苦手な人が人間関係の中でどう克服していくかの心理を述べてみたい。
コミュニケーションが苦手な心理
スイスの分析心理学者カール・グスタフ・ユングは、コミュニケーションが苦手な心理として「捕えられ、吸い込まれ、包み隠され、飲み込まれることを望む」と述べている。
可愛がられ、包み込まれ、飲み込まれ、世話をされることをコミュニケーションが苦手な人は望む。
いわば「完全保護」の世界である。
一切悩み、煩いのない乳児の状態へのコミュニケーションが苦手な人は強い願望がある。
そこでは、自分から努力する必要がない。
自分から幸せになる意志を持たなくてもいい
コミュニケーションを取るのが苦手とする一切の積極的な辛い姿勢から解放されている。
自分を幸福にするのは、相手の責任である。
自分は自分の人生に、何の責任もない。
しかしこれは、乳児期にみたされなければならない退行願望である。
大人になって、この退行願望を持っていても、誰もそれを満たしてはくれない
しかし現実に多くのコミュニケーションが苦手な人はこの退行願望が満たされていない。
そしてこれが満たされないと、そのコミュニケーションが苦手な人にとって世界はどのように映るのであろうか?
世界がコミュニケーションが苦手な人にとっては「悪意ある冷ややかな世界」と映るのではないか?
ユングによるならば、コミュニケーションが苦手な人は”幼児期の母”を求めているが、どうしても理解してもらえないので、世界をそう解釈するという。
幸せは、待っていればやってくるもの?
世の中には、たくさんの夫婦の葛藤がある。
実際に多くの妻や夫が、配偶者の幼稚さに悲鳴をあげている
そういったことからいっても、このユングの解釈は正しい。
自分の側に何ら努力がなくても、コミュニケーションが苦手な人は、世界が自分に幸せを運んでくることを期待している。
またはその努力の方向性が間違っている。
そしてその期待がかなえられなければ、それは世界が悪いのである。
または、その期待の方向性が間違っている。
つまり自分の側に何ら積極的姿勢がなくても、自分を幸せにする世界が「あるべき当然の世界」である。
または、その積極的姿勢の方向が間違っている
一切の辛い努力からコミュニケーションが苦手な人は、解放されたい。
それは、自分に対して特別に冷たい世界だとコミュニケーションが苦手な人は感じる。
黙っていても自分を幸せにしない現実の世界を、悪意に満ちた世界と感じる。
つまり心理的健康な第三者から見ると正常な世界を、コミュニケーションが苦手な人は、自分に敵対する世界と感じる。
悪意に満ちた世界と解釈する
敵意があると感じていれば、人が何か言うと、コミュニケーションが苦手な人は自分に対する批判ではなくても批判と受け取ってしまう。
そこで、いつも不愉快である。
客観的に見れば何の不満を抱くはずもない事柄に、コミュニケーションが苦手な人は不満を抱く。
楽しいはずの状況にいてもコミュニケーションが苦手な人は面白くない。
そして自分の周囲にいる人を、「冷たい人」と非難する。
カレン・ホルナイの言葉を使えば、コミュニケーションが苦手な人はつねに神経症的要求を持っている。
自分中心に世界が回ってくれないと面白くない
「冷たい人」と非難される人とは、要するに彼に対して幼児期の母を演じてくれない人なのである。
『ピーターパンシンドローム(症候群)』の著者ダン・カイリ―がいうごとく、大人になれないコミュニケーションが苦手な人は現実の世界から逃げる。
自分の周囲の世界を悪意に満ちた世界と感じるがゆえに、いつも周囲が明るく騒がしくないと不安になる。
「周囲の世界が自分に敵意を持っていない」という証拠がコミュニケーションが苦手な人は欲しい。
オーストラリアの精神科医、ベラン・ウルフの表現を借りればコミュニケーションが苦手な人は敵陣にいるスパイの感じ方である。
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コミュニケーションが苦手な人が克服するヒント、なぜピーターパンは、そんなにパーティー好きなのか
母と子どもとの間にも、いろいろなドラマが演じられる
「この母は息子を大人の男性にすることなど、ほんの少しも気にかけていないかのように、倦むことなく献身的に心を配り、息子が大人になり結婚することを阻む可能性のあるものなら、何一つ見逃さず利用する。
母子の間の秘かな陰謀が、一方が人生をごまかすのにもう一方が手を貸すさまが、見える。
罪はどこにあるのか?母か、息子か?
おそらく双方だ。
満たされることのない人生と世界への息子の憧憬は、まじめに受け取ってやらねばならない」。
つまり、いつもコミュニケーションが苦手な欲求不満な男性がいるということである。
何をしていてもコミュニケーションが苦手な人は面白くない。
何があってもコミュニケーションが苦手な人は愉快な気持ちになれない。
小さいころの「満たされることのない、人生と世界への息子の憧憬」が、その後の彼の人生に大きな影響を与える。
何があっても面白くない
基本的欲求が「満たされない」以上、生きていることはつねに不愉快である。
慢性的不快感情にコミュニケーションが苦手な人は苦しめられる。
外からの刺激に対するコミュニケーションが苦手な人の反応がそうなってしまった。
刺激の伝わる神経回路が、コミュニケーションが苦手な人はそのようにできあがってしまった。
ダン・カイリーは、ピーターパンがパーティー好きだということを書いている。
心の底で、自分を取り巻く世界を「悪意に満ちた世界」と感じている。
つまり無意識に恐怖感がある
だから、「周囲の世界が自分に悪意を持っていない」という確拠がコミュニケーションが苦手な人は欲しいのである。
だからこそ、自分の周囲の世界はつねに、笑いに満ちて明るくないと不安になる。
パーティーをしていないとコミュニケーションが苦手な人は不安なのである。
普通の人以上にコミュニケーションが苦手な人は明るさを求める。
普通の人以上に、静かな世界を恐れる。
それは、静かな世界は自分に対して悪意を持っていないという証拠を提供しないからである
周囲の人をコミュニケーションが苦手な人は、悪く解釈する。
周囲の人が黙っていると、コミュニケーションが苦手な人は自分に対して怒っているのではないかと恐れる。
他人が不機嫌でなくてもコミュニケーションが苦手な人は不機嫌ではないかと気にする。
「過去の傷」を目の前の何かで取り繕っても・・・
「ピーターパン父親」は、家庭の中がいつも極端に不自然に明るくないと機嫌が悪くなる
不自然な明るさは、コミュニケーションが苦手な人の恐怖感の反動形成である。
カレン・ホルナイも同じようにいっている。
反動形成とは、深く傷ついた心を癒そうとする試みである。
あたりまえの世界を、悪意に満ちた世界と感じる。
正常な現実の世界を、自分に対して冷たく悪意に満ちた世界と感じる
つまり、コミュニケーションの苦手な人は幼児期に自然の願望が満たされなかった。
そこで不満になり、コミュニケーションが苦手な自分の願望を満たしてくれない周囲の世界に敵意と攻撃性を感じた。
その結果、無意識の恐怖感におびえているのがコミュニケーションが苦手な人である。
この無意識の恐怖感が、コミュニケーションが苦手な人の気持ちの根底にある。
これが、日常生活の気持ちが大きく揺れる原因である
コミュニケーションが苦手な人は機嫌がよかったと思うと、ささいな言葉でとたんに不機嫌になる。
とにかく他人の言動にコミュニケーションが苦手な人は超敏感である。
異常敏感性といってよいだろう。
そして超過敏もまた、オーストリア出身の精神分析医、アルフレッド・アドラーにいわせれば「社会的感情の欠如」である。
他者に心理的にコミットしていない
敵意や恐怖感がコミュニケーションが苦手な人は抑圧されている。
そしてその抑圧されている敵意が周囲の世界に投影されて、世界を「悪意に満ちた世界」と感じるようになってしまったのである。
この周囲の世界が敵意に満ちていると感じるようになったことが、コミュニケーションが苦手な人の異常過敏性の原因である。
いずれにしても、コミュニケーションが苦手な人はちょっとした何でもない言葉に過敏に反応する。
コミュニケーションが苦手を克服するにあたって「不自然な明るさ」には、気をつけたほうがいい
アドラーによれば、超過敏、我慢できない、感情的、恐怖心、警戒心と貪欲・・・それらは劣等感と社会的感情の欠如のあらわれである。
貪欲な企業家などは、コミュニケーションが苦手な社会的感情の欠如であるが、同時に深刻な劣等感をもっているのだろう。
その結果、特別にコミュニケーションが苦手な人は不自然なほど明るい世界でないと不安になってしまう。
自殺した子を新聞などが「なぜあの明るい子が」と書く。
自殺した子は怖かったのである。
「ピーターパン父親」を持った家庭は不幸である
いつもいつも不自然に明るく騒いでいないと、家族は叱責される。
子どもがいつも明るく笑っていないと、「ピーターパン父親」は不安になるのであろう。
周囲の世界が明るい笑い声で満ち満ちていないと、コミュニケーションが苦手な人は周囲の世界が自分に悪意を持っているように感じてしまうのである。
不自然な明るさを求めるコミュニケーションが苦手な人は、それ以外の場面ではいつも不機嫌である。
そして徹夜のドンチャン騒ぎのパーティーは、無意識の絶望の反動形成である。
「ピーターパン父親」を持った子どもはいつもいつも、大きな声で明るく笑っていなければならない
もちろん「楽しい」などというコミュニケーションが苦手な人の感情は一切ない。
彼らは一切の自然な感情を失って、「父親」から要求される感情を持ったロボットとして生きてきた。
子どもがいつも不自然に明るくはしゃいでいないと、「ピーターパン父親」は不機嫌になる。
おそらく「世界が自分に悪意を持っている」と感じて怖くなってしまうのだろう。
具体的には、周囲の人がはしゃいでいないと、周囲の人が自分に好ましくない感情を持っているのではないかと恐れるのである。
そしてそれが許せなくて、弱い立場の人を睨みつける。
子どもなら恐れで委縮してしまう。
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コミュニケーションが苦手を克服する為に「無理している自分」に気づくこと
自分の感情を見失うまで他人の期待に応えようとする人がいる
上司や同僚に評価され、受け入れてもらうために無理をして働き過ぎるコミュニケーションが苦手な人がいる。
真面目にはたらくことが、認められるために必要なことであるとコミュニケーションが苦手な人は思っているからである。
人から気に入られるために人を喜ばそうとするコミュニケーションが苦手な人は、自分の感情を偽る。
つまらないのにコミュニケーションが苦手な人は「おもしろい」と言う。
嬉しくなくても「嬉しい」と言う
「こんなことをなんで私に頼むのかしら」と、コミュニケーションが苦手な人は内心怒りながらも明るい声で「はい、わかりました」と言う。
好かれたい、愛されたい、ほめられたいから自分を裏切る。
「自分を裏切る」と言って言いすぎなら「無理をする」。
無理をするから、たとえ期待通りに好かれても心の中はスッキリとしていない。
本当は行きたいのにコミュニケーションが苦手な人は「ここに残る」と言う。
本当はおいしくないのにコミュニケーションが苦手な人は「おいしい」と言う。
皆、コミュニケーションが苦手な人が相手の気持ちを推測してのことである。
なぜか欲しいものをコミュニケーションが苦手な人は欲しいと言えない。
欲しくないものをコミュニケーションが苦手な人は欲しくないと言えない。
好きなものをコミュニケーションが苦手な人は好きと言えない。
いやなものをいやと言えない
自分のしたいことをしたいと言って嫌われるのが怖いから、コミュニケーションが苦手な人は自分のしたいこともしたいと言えない。
そしてこのように、自分の気持ちに無理を続けるからコミュニケーションが苦手な人は相手に対して憎しみを持つようになる。
もちろん、この憎しみは、コミュニケーションが苦手な人に意識されることなく無意識に追いやられることもあるし、意識されることもある。
しかし、いずれにしろなんとなくその人といると不快感が出てくる。
人は誰でもひとりでいたいときもある
べつに相手が嫌いなわけではない。
それなのにコミュニケーションが苦手な人は「ひとりでいる」と言えない。
相手と一緒にいたくないとコミュニケーションが苦手な人が言うと、気まずくなるような気がするからである。
しかし、無理をしてコミュニケーションが苦手な人は一緒にいるから気分が重くなる。
なんとなく気持ちがふさいでくる。
気持ちがコミュニケーションが苦手な人は晴れないのである。
相手のことを考えてコミュニケーションが苦手な人はお互い無理をしながらも、かえってお互い不愉快になる。
自分の気持ちに正直にしていれば、一緒にいて気持ちが晴れるのに、気が弱い人はそれができない
なぜ相手にとってコミュニケーションが苦手な人は”都合のいい自分”を演じてしまう?
真面目に働くこと以外にも、コミュニケーションが苦手な人はいろいろと好かれるためのことをする。
たとえば従順であることがコミュニケーションが苦手な人は好かれるために必要と考える。
忠誠と真面目である。
残念ながら、従順な人が必ずしも相手から尊ばれるわけではない
それはまことにコミュニケーションが苦手な人は人生の悲劇とも言うべきであろう。
相手に好かれ、尊敬され、とうとばれるために自分を犠牲にしながら、コミュニケーションが苦手な人は結局は相手から都合のいい存在としか扱われない。
好かれるためのコミュニケーションが苦手な人は行為によって相手から軽く見られる。
しかも何度も言うように、それらのコミュニケーションが苦手な人は無理をしているのである。
気に入られよう、気に入られようとするコミュニケーションが苦手な人の姿勢は、ずるさに通ずるから尊敬を得られないのである。
好かれようとして明るくふるまう人がいる
しかし、コミュニケーションが苦手な人は本当に明るい性格なわけではない。
不安の防衛としての明るさである。
明るい「ふり」をしている。
そのような防衛的性格としての明るい性格のコミュニケーションが苦手な人は、前から見ると、とても明るく明朗である。
しかし、後ろ姿がコミュニケーションが苦手な人はものすごく淋しい。
前から見るのと後ろから見るのとではコミュニケーションが苦手な人はこれほど違うのかと、その違いに驚く。
見る人が見るとそれがわかる
そして、その淋しい後ろ姿こそ、そのコミュニケーションが苦手な人の本当の姿なのである。
そのコミュニケーションが苦手な人の心の底を表現しているのは、その淋しい後ろ姿なのである。
防衛的性格のコミュニケーションが苦手な人は悩んでいる。
だから明るくコミュニケーションが苦手な人はふるまっても夢がない。
悩んでいるとコミュニケーションが苦手な人は夢を追えない。
そこが本当に明るい人と、明るい「ふり」をするコミュニケーションが苦手な人との違いである。
「悩み」を隠すためのコミュニケーションが苦手な人の”明るいふり”はあなたをダメにする
「関心をひくための明るさ」は防衛的性格としての明るさである
アメリカの心理学者マズローの言葉を使えば、欠乏動機で生きている人である。
つまり基本的な欲求が満たされないので、それを満たそうとして生きているコミュニケーションが苦手な人である。
マズローによれば、人はビタミンCを求めるように愛情を求めている。
それが欠乏するとコミュニケーションが苦手な人は神経症になる。
これらの恐れをコミュニケーションが苦手な人は利用して親が子どもを育てることがある。
親が子どもに言うことをきかせるためにこの恐れを利用する
その結果、子どもは生きることを恐れるようになる。
そしてこの恐れこそ、コミュニケーションが苦手な人をいつまでも依存的にしておく原因であろう。
恐れを利用して子どもを育てる親は、自分がどのようにひどいことを子どもにしているかを気づいていない。
よく、よちよち歩きしかできない子どもの手をとり「あんよは、おじょうず」と言って子どもを歩かせている母親がいる。
母親が手を離したら子どもは歩けない
心理的にはコミュニケーションが苦手な人はこの手と同じものが大人になっても必要なのである。
従順な子どもにしろ、「ふり」としての明るい性格の人にしろ、コミュニケーションが苦手な周囲に過剰適応した子どもは淋しいのである。
心の底ではコミュニケーションが苦手な人は悩んでいる。
そして自分では淋しいということにコミュニケーションが苦手な人は気付いていない。
一人で生きていかれないから、コミュニケーションが苦手な人はとにかく関心をひくための明るさを演じる。
心の中の悩みをコミュニケーションが苦手な人は隠そうとする。
自分の世界がある人は、他人の関心をひく必要がない。
淋しいからこそ、依存的だからこそ、コミュニケーションが苦手な人は周囲の関心をひく必要がある。
自立してくると、ことさら他人の関心をひかなくても楽しくときをすごせる
過剰適応しているコミュニケーションが苦手な子どもは、そもそも適応してはいけない環境に適応しているのである。
それについて、マズローは「誰に対しても適応するのか、支配的な親に対してであるのか」という問題を挙げている。
大人になってから問題を起こすコミュニケーションが苦手な「よい子」は支配的な親に対して完全に適応していたのである。
「よい子」というのも「誰に対してよい子であるのか」という問題がある。
ときに人は、自分が「よい子」であることをコミュニケーションが苦手な人は恥じなければならないときがある。
自分の本性に逆らって支配的な人に適応すれば、コミュニケーションが苦手な人は神経症になったり体を壊したりするであろう。
少なくともコミュニケーションが苦手な人は感動する能力は失う。
コミュニケーションが苦手を克服する為に「こうであるべき自分」は今すぐ捨てたほうがいい
自分を出すということは「リラックスする」ということである。
自分を出すというと、何か衝動的になることと思い違いをしている人がいる。
自分を出すということはコミュニケーションが苦手な人は「無理をしない」ということである。
コミュニケーションができる人は相手に好かれようと思って何か特別なことをしないということである。
相手の好意を期待して行動するとき、コミュニケーションが苦手な人は自分を隠す。
そこにストレスもコミュニケーションが苦手な人は生じる。
コミュニケーションができる人がリラックスするということは防衛的性格になっていないということである。
不安からふるまわないということが自分を出すということである。
安心するということが自分を出すということである。
見捨てられないという安心感を持って行動しているときに、人は自分を出している
自分を出すというと、すごく個性的な生き方をするとか、ものすごい冒険をするとか、周囲のことを無視して自分の趣味に没頭するとか、先に言ったように衝動的な行動をするとか、自分のわがままをとおすとかいう風に勘違いをしているコミュニケーションが苦手な人がいる。
自分を出すということは、のんびりと椅子に腰掛けていることなのである。
自分の格好を意識しないで、楽な気持ちで椅子に腰掛けて話をしていることなのである。
自分を出すということは、リラックスして相手と話していることなのである。
相手に尊敬されようと話題を選ぶことはせず、話をしていることなのである。
自分を出すということは、そんな大それたことではない。
「自分を出したら嫌われる」とコミュニケーションが苦手な人は思い込んでいる
相手に好かれようとしないで、ただ自然に相手の前に座っているときに、人は自分を出している
これといった話題もなく、なんとなく話していることがただ楽しい。
そんなときに人は自分を出しているのである。
自分を忘れた振る舞い―それが自分を出すということである。
これを言ったら相手に嫌われるのではないかとか、こういう風に言ったら相手に喜ばれるのではないかとか、そんな気遣いをしないで、リラックスして話をしていることが自分を出すということなのである。
そんなときに人は自分を出している。
ぎゃくに言えば、リラックスできないコミュニケーションが苦手な人は自分がない人なのである。
また、「かたち」で行動しているときにはコミュニケーションが苦手な人は自分を出していない。
「かたち」で行動しているときにはコミュニケーションが苦手な人は自分にも自分がわかっていない。
リラックスして椅子に腰掛けながら相手と話をしているときには、相手と心がふれあっている
「自分の格好を意識しないで、椅子に腰掛けて話をしているということ」は、相手を無視していることではない。
相手と心がふれあっているということである。
相手を意識していないということと、相手の人格を無視するということは違う。
わがままとか、八方美人とか、利己主義とか、自己執着ということがコミュニケーションが苦手な人は相手の人格を無視しているということである。
自分を出しているときには相手と心がふれあっている。
相手が自分のことをどう思っているかを気にしていないときには相手と心がふれあっている
それが大切なのである。
それが「こころ」なのである。
自分を出して生きている時には、不眠症にも吐き気にも苦しまないのではないだろうか。
便秘にも性的不能にもならないのではないだろうか。
な人は自分を隠すから、そのようなことになる。
自分を出していないコミュニケーションが苦手な人は「自分を出したら嫌われる」と勘違いをしている。
それはまったく逆で、自分を出しているほうが好感を持たれるのである。
コミュニケーションが苦手を克服したい人は「ありのままの自分」のほうが好かれる
自分を隠しているときには不安で緊張している。
そのストレスが人を拒否している雰囲気をつくる。
どんなに立派に行動しても、やはり人はそのコミュニケーションが苦手な人を好きにならない。
そもそも、立派に行動したら好かれるという考え方が間違っているのである。
せいぜい自分にふさわしいコミュニケーションが苦手な人は程度の立派さでいいのである。
相手の言動がいやなときには、ストレートに「それはいやです」と言ったほうが好かれる
いやなのにいやと言わずに理屈をこねまわすコミュニケーションが苦手な人がいる。
自分の「いや」という感情を正当化するためにコミュニケーションが苦手な人はいろいろな理屈をつける。
聞いている方は、何を言っているのかわからない。
結局、お互いに不満になる。
「いや」という感情をコミュニケーションが苦手な人は正当化するということは、「いや」という自分の感情にやましさを持っているからである。
いやなものはいやでいい
それで相手から嫌われるわけではない。
そう言ってもらったほうが相手も気が楽なのである。
「私は相手の言動に対していやと思うべきではない」というコミュニケーションが苦手な人の考え方のほうが間違っているのである。
自分を出すということが感覚的にわかってくれば、つぎからつぎへといろいろなことがわかってくる。
自分を出すということは、奇妙な格好をすることではない。
安心して、座りたいように座ることである。
気持ちが防衛的でなくなったときに自分が出る。
相手の好意を求めて自分をつくらなかったときに自分が出ている
自然な起居振舞のなかに自分が出るのである。
は起居振舞が人を寄せ付けないときにはコミュニケーションが苦手な人自分を出していない。
ひとりでいるときにリラックスできたとする。
そんなとき「この格好を人前で出したほうがいいよ」と自分で自分に言ってあげる。
実際、人前で出したほうが好かれるのである
人を前にして、完全な自分を演出しようとしているコミュニケーションが苦手な人は完全に間違っている。
世の中にはなんと多くのコミュニケーションが苦手な人が好かれようと行動して、結果として嫌われていることであろうか。
好かれるための努力で嫌われるコミュニケーションが苦手な人は多い。
そんな努力はしないほうがうまくいくのである。
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コミュニケーションが苦手な人は、どうすれば人前で”自分”を出すことができるか
ありのままの自分では嫌われるという解釈をする人がいる
恥ずかしがり屋の人は、ありのままの自分を屈辱的に解釈しているコミュニケーションが苦手な人である。
その人の声が好かれているのに、自分の声が嫌われると解釈するコミュニケーションが苦手な人がいる。
そして、自分の弱点を隠すのではなく、コミュニケーションが苦手な人は「自分が弱点とおもっていること」を隠す。
相手はそれを弱点とは思っていない。
それが素晴らしいと思っていることもある。
ジンバルドーは、コミュニケーションが苦手な人は実際の自分をしられたら相手は自分のことを嫌いになるだろうと思っている、と説明している。
まさにこれは、コミュニケーションが苦手な人が防衛的性格であることを示している。
防衛的とは実際の自分を知られないように身構えるということである
最後にはコミュニケーションが苦手な人は自分で自分がわからなくなる。
ことさら失敗を恐れるのも、失敗することでコミュニケーションが苦手な人は本当の自分がわかってしまうのではないかという恐怖ゆえである。
親密になるとコミュニケーションが苦手な人は実際の自分が相手にわかってしまうのではないかと、親密になることを恐れる。
親密になることを恐れるのは、コミュニケーションが苦手な人のそのまま防衛的性格の特徴でもある。
実際の自分が現れることをいつも恐れている
コミュニケーションが苦手な人はいつも緊張している。
自分を隠すことにコミュニケーションが苦手な人はエネルギーを使っている。
だから疲れやすい。
外にエネルギーが向かないまま疲れる。
結果を気にし過ぎるから「現在」を楽しめない
自分の弱点を隠し、すべてのことに批判されまいとして必死に仕事をしているコミュニケーションが苦手な人がいる。
コミュニケーションが苦手な人はいつも肩に力が入って息苦しい。
なんのための人生かとコミュニケーションが苦手な人は思われる。
このような仕事熱心はコミュニケーションが苦手な人は息がつまる。
仕事をすることをコミュニケーションが苦手な人は楽しめない。
生きることがコミュニケーションが苦手な人は楽しくない。
そして、仕事の成果がコミュニケーションが苦手な人は現れないとひどく苦しむ。
仕事のプロセスをコミュニケーションが苦手な人は楽しめないからである。
燃え尽きる人はこのような仕事熱心なタイプである
無駄がコミュニケーションが苦手な彼らは嫌いである。
とにかく無駄がコミュニケーションが苦手な人は嫌いである。
いつも能率がコミュニケーションが苦手な人は上がっていないと気が落ち着かない。
しかし、人生を終わってみればコミュニケーションが苦手な人は自分の人生そのものが全体として無駄だったと気づくのではなかろうか。
人生に無駄なんてないのである。
それがわからないからコミュニケーションが苦手な人はせっかくの人生を無駄にしてしまう。
「人生に無駄なんてない」ということがコミュニケーションが苦手な人はわかっていないから、いつも焦っているのである。
だからいつも何かにコミュニケーションが苦手な人は追われているのである。
「理想」はあなたが無駄だと思っていることのなかにある
コミュニケーションが苦手な人は無駄を嫌う。
しかし、現実にはコミュニケーションが苦手な人はかえって無駄が多い。
それはコミュニケーションが苦手な人がものごとをすべて「かたち」で見るからである。
「かたち」で見るからコミュニケーションが苦手な人は相手の心をとらえていない。
完全主義の人は相手にお金を使う
相手のためにコミュニケーションが苦手な人はエネルギーを出す。
相手のために時間をとる。
でも「こころ」はコミュニケーションが苦手な人は与えていない。
だから相手に尽くしながらコミュニケーションが苦手な人はも最後には見捨てられる。
「私がこんなに尽くしているのになぜ・・・」と不満を感じる
「ひどい人だ」とコミュニケーションが苦手な人は人間不信になる。
コミュニケーションが苦手な人は無駄ばかりしている。
ときに、無駄な付き合いのなかに「こころ」があり、それが生きてくることがある。
無駄に見えることを無駄にするか無駄でなくするかは、本人しだいなのである。
無駄をかき集めて理想が手に入るなどということは、完全主義のコミュニケーションが苦手な人には理解しにくいことなのである。
失敗は、それに対する対処のしかたで、ただの失敗にもなるし、より大きな成功へのステップになることもある。
コミュニケーションが苦手な人はどちらかというと失敗を失敗にし、無駄を無駄にする。
なぜかというと、コミュニケーションが苦手な人は生きるバイタリティーがないからである。
「”素敵な自分”に気づくこと」
完全主義の人は、無駄を嫌いながら最後には人生そのものが無駄としか思えないような生き方をしてしまう
アメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーは、南アフリカでダイヤモンドを掘っている人についてこう話している。
小さな爪ほどの小石を見つけるために、何トンもの土が取り除かれる。
彼らはダイヤモンドを探しているのであって泥を探しているのではない。
彼らは泥を掘りながら、いつかダイヤモンドを掘るのだと喜んで泥を掘っている。
彼らは泥という泥を喜んで掘っている。
シーベリーは、人々は日常生活でこの原理を忘れているという。
ダイヤモンドより泥の方が多いと嘆く悲観論者を批判している
この話のように、日常生活にも肯定的な事実を求めて掘り起こすことが大切である。
ところが、完全主義のコミュニケーションが苦手な人は泥を掘るのは無駄だと思っている。
泥を掘るたびにコミュニケーションが苦手な人は「またしても泥ばっかりか・・・」とがっかりする。
そして、はやくコミュニケーションが苦手な人はダイヤモンドを掘り当てたいと焦る。
焦ることで疲れる
これも先に述べた燃え尽きタイプである。
それに対して「こころ」を大切にするタイプの人は、泥を掘りながらも実は泥を掘っているのではない。
夢を掘っているのである。
泥は無駄にもなるし、夢にもなる。
それは掘る人の生きる姿勢である。
泥の中に夢を見る人は泥を掘りながらも心がときめく。
そして掘る時にゆとりがある。
反対に、泥を掘りながら失望する人にはこの心のゆとりがない。
完全主義の人は生きるエネルギーが発散できずによどんでしまっているのである
水が流れないでよどんでしまい、腐ってしまうように、生きるエネルギーが外にほとばしり出ない。
生きるたくましさがコミュニケーションが苦手な人はない。
活力のないコミュニケーションが苦手な人である。
無駄を無駄と感じない人は、生きるエネルギーが溢れている人である。
たくましいのである。