テレビはシラケ世代をつくりだした張本人
メディア社会といわれる現代の文化的状況を反映して、若い世代には傍観者的姿勢を身につけた人が多いように思うのですが、いかがでしょうか。
たとえば、テレビを友として育った人は、居間なり自分の部屋なりの日常的で安全な場所に身をおきつつ、非常に刺激的な事件を目のあたりにするという経験を幼い頃からくりかえします。
テレビのおかげで、私たちはどんな遠方の出来事でも、まるで自分がその場に居合わせたかのような臨場感をもって体験することができます。
けれども、テレビの画面を通して目撃している悲惨な事故の犠牲者にどんなに同情しても、その場で励ましの声をかけてやることすらできません。
画面上でくりひろげられているお祭りにどんなに興奮しても、そこに参加することはできないのです。
こうした体験は、人の心をしらけさせるものです。
今現在、どこかの町で現実に起こっていることを目の当たりにしながら、参加できない。
つまり、テレビは、実際に手の届かない場所で起きたことを伝えてくれるという点で、人と世界との距離を縮めてくれたわけですが、それは同時に、手の届かない遠い現実に囲まれた生活を私たちに強いるものなのです。
狭くても触れられる世界に生きていた頃は、人々はいきいきとした現実に即して生活していたはずです。
ところが、マス・メディアの発達は、私たちのもつ情報量を飛躍的に拡大すると共に、生きている世界と触れられる世界との乖離をもたらしました。
テレビや新聞のニュースをみれば、各地で起こった事件に関する情報が毎日たくさんはいってきます。
身近な世界ではめったに起こらない事件が、連日新聞紙上をにぎわします。
たとえば、近所の人が給料日に、月給をまるごと盗まれたとします。
これはたいへんな事件です。
なんとか身近な者たちで援助してやらなければと思うのがほんとうかもしれません。
ところが、マスコミ報道を通して、詐欺にあって100万円もの大金を失った人、火事でせっかく建てたばかりのマイ・ホームが燃えた人、交通事故で家族をなくした人など悲惨な目に遭った被害者に連日のように間接的に触れることによって、月給の被害など大騒ぎするほどのものでもないと錯覚してしまいます。
家が燃えることに比べたら、ひと月分の給料を失うくらいたいしたことではない、といった比較の問題だけではありません。
情報として知っているけれども身近でないし手を出すことができないというマスコミ体験の蓄積そのものが、世界を冷めた目で傍観する態度を植えつけていくのです。
そうなると、実際に手の届く身近な現実さえも、傍観者の冷めた目で距離をおいてみるようになってしまうのです。
冷静な評論家になってしまっては恋はできない
そんな風潮のなかで、人々は自分自身に対しても、距離をおいた傍観者の目でみる姿勢をとるようになります。
そして言います。
「スマートな恋愛をしたい」
「おしゃれな恋をしたい」
「恋にのめりこんで、はたからみて見苦しい姿にはなりたくない」
みる自分とみられる自分が、やけにすっきり分離して、あたかもブラウン管上の自分の映像を眺めるかのように、カッコイイカッコ悪いかを点検するのです。
何かにちょっとムキになったり、我を忘れるような状態になりかけたりすると、「そんなのはカッコ悪い」ともう一人の自分がストップをかけます。
そんな冷静な評論家的な目が肥大化した状態では、何かに夢中になることなどできません。
青年期の自我の目覚めといい、自分を客観的に眺めるもう一人の自分がしっかりとできてくるのが大人の条件とされます。
でも、これは必要に応じて自分を振り返って反省する能力をさすのであって、たえずみる自分とみられる自分に分裂しているのが大人だというのではありません。
ときにみる自分の方が麻痺し、なんだかわからないうちに無我夢中で走ってしまっていたというようなことがなくて、人生に何の面白味があるのでしょう。
他者の視点に立って自分をみるということは、他者の目でもって自己を点検することにつながるので、自己中心的世界からの脱却といえます。
ところが、それもいきすぎると、水面に映る自分自身の姿に恋しておぼれたギリシア神話のナルキッソスのように、自己愛、すなわち再び自己中心的な世界にはいってしまいます。
自己完結した世界の住人は、他者と真に出会うことはできません。
他者は自分を映す鏡としてのみ意味をもつのであって、目の前の相手そのものには興味がありません。
その人の目に自分がどう映っているかばかりが気になり、できるだけカッコよく映るように演じるのです。
おしゃれな恋などといいますが、果たしてそんな恋愛があるのでしょうか。
テレビのなかの俳優のまねをして、ちょっと恋愛ごっこをしてみるといった程度ならありうるのでしょう。
でも、本気の恋愛というのは、自分をも相手をも変えてしまうような激しさをもつものです。
目の前の相手に対する関心のあまり、自己チェック機能を麻痺させ、何が何だかわからないうちに突進していたというようなことがなければ、恋をしたとはいえません。