“自分自身の目的を持つ”
不公平が辛いのは、愛を求めているからである。
不公平は誰にとっても同じようにつらいわけではない。
不公平は、愛されて育っていない人にとって、ことさら辛いのである。
カレン・ホルナイは、自己蔑視することの心理的結果として、他人と自分を強迫的に比較する、といっている。
しかし、なぜ自己蔑視と強迫的比較とが関連しているのかということについては、説明していないように思う。
自己蔑視と強迫的比較とが関連するのは、自己蔑視している人が愛されていないからである。
愛されて育っていれば、自我の確立があり、自分は自分、人は人と思っている。
そこで他人と自分を比較する必要がない。
しかし、自我の確立がない人は、強迫的に他人と自分を比較する。
そこで、燃え尽きるまで頑張る人もいれば、ひねくれる人もいる。
愛されないで育った人が「人生は不公平」ということを受け容れた時に、初めて救われる。
そして、人と比較しない自分自身の目的ができる。
そして、その目的に向かって生き始めることで毎日が楽しくなる。
ヒルティーは、「必然に喜んで従う者は、賢者にして神を知る人」と述べている。
幼児的願望を満たされない人が、いかに憎しみを持つかはすでに説明した。
同じ不公平でもその辛さは人によって違う。
つまり、憎しみを持っている人に、不公平はことさら辛いのである。
世の中や人生に漠然とした恨みや憎しみを持っている人が、「不公平に扱われた」と思ったら、普通の人よりも辛いというのは誰でも理解できるであろう。
自分を裏切った恋人が幸運にめぐまれれば、おもしろくない。
自分を騙した同僚が社内で自分より成功すれば、面白くない。
一般的に言えば、自分が憎んでいる人が自分より優遇されれば悔しいであろう。
憎しみを持った人にとって、ことに不公平は耐え難いのである。
好きな人がなにかの幸運で宝くじにあたれば、自分もうれしい。
憎しみを持っていない人にとって不公平はそれほど辛いものではない。
愛されて育っていない人にとって、不公平はたまらなく辛い。
しかし、その辛さを受け容れるのが運営を受け容れるということなのである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには「人生は不公平」ということを受け容れることである。