人と接する時、私たちは心のほんの断片で接するのではありません。
私達の心全体の在り方が反映されるのです。
このために、人との接し方とは、ある特定の場面での、ある特定の行動だけにとどまるものではありません。
その人の生活の在り方全体とかかわるのです。
たとえば、人と接することが楽しくて仕方のない人は、臆することなく自分の生活の範囲を広げます。
逆に人と接することを苦痛に感じるひとは、狭い範囲の人とだけ接しようとして、生活の範囲も狭くなってしまいます。
人生を生きることとは、それぞれの時期にそれぞれの人と接することにほかなりません。
幼稚園では幼稚園の先生と友達と、小学校ではクラスの先生と友達と、そして中学では中学の友達と、というように。
そのため、人との接し方は、結局、その人がどのような人生を送るかということさえも決めてしまうものなのです。
この事実をもっとも明確に解明してきたのが、E・バーンが中心となって発展させてきた交流分析という理論です。
交流分析的に結論を先に言ってしまえば、人と接するのが苦痛な人とは、肯定的なストロークが不足し、しばしばゲームにふけり、敗者としての人生を生きている人だということになります。
このことを、以下に交流分析理論を簡単に紹介しながら、分かりやすく述べます。
交流分析理論によれば、私達の心はPACという3つの部分から構成されています。
PとはParentsの頭文字で、意識的無意識的に親から受け継いだ心の部分です。
AはAdultの頭文字で成人としての心を表し、CはChildで子どものままに残っている心のことです。
【P=親から受け継いだ心】
この心は「養育的な親」と「批判的な親」との二つの部分に分けられます。
「養育的な親」というのは、庇護したり、世話をしたりする親の部分です。
この心が強いと、人の世話をしたり、人から頼られたりすることを好むことになります。
「批判的な親」というのは、監視的・支配的な親の部分です。
これが強いと、人を誉めるよりも責める傾向が強く出ます。
通常、親は子供に保護的に接します。
したがって、保護的な心の働きがPの典型的なものです。
しかし、親はそれぞれ個性や未熟な心の部分を持っているので、こうした心も知らず知らずのうちに子どもの心に受け継がれます。
むろん、親の心がそのまま受け継がれるとは限りません。
たとえば、禁欲的な親の欺瞞性を見抜いた子どもは、逆に性的に放縦になるというようなこともあります。
【A=成人の心】
これは、現実の問題に合理的、客観的に対処する心です。
すなわち、情報を収集し、理性的に判断する機能がその典型です。
この心が形成されないと、自立した適応的な社会生活ができません。
しかし、あまりにこの心が強すぎると、なにごとにも心動かされない、面白味のない人柄になってしまいます。
【C=子どものまま残っている心】
一般に、この心は「自由な子ども」と「適応した子ども」との二つに分けられます。
「自由な子ども」とは、素直な子ども心がそのまま残ったものです。
無邪気さや甘え、感情の率直な表明、気分の変わりやすさなどが典型的なものです。
本能的で道徳などに縛られない心で、しばしば創造性の基礎ともなりますが、自己中心性などの特性も持っています。
「適応した子ども」というのは、親の期待などに添おうとする子どもの心です。
この「良い子」がすぎると、自由な子どもの心を抑圧してしまうことになります。
人はすべて、このPACの三種の心を持っています。
しかし、人によりその比重が異なり、これが個性の違いとなって現れるのです。
たとえば、Pの「養育的な親」が優勢な人は、めんどうみがよいとか、姉さん女房的な生活になるなどです。
Aの心が優勢な人は、冷静沈着であったり、現実的な考えをする性格となります。
また、Cの「自由な子ども」が優勢な人は、ものごとに素直に感動したり、依存的であったり、場合によっては気分屋であったりします。
自分の心をPACの観点から分析してみることは有効です。
それによって、理解できなかった自分の行動傾向が明らかになり、その原因を突き止めることも可能になるからです。
人と接するのが苦手な人は、「批判的な親」と「適応した子ども」が優勢な傾向があります。
まれに「自由な子ども」の心が優勢な人も含まれます。