人と接するのが苦痛であるとか、人のなかにいるのがこわいという人が増えています。
T君は二十歳の大学生です。
地方の小さな町から東京に出てきて、一人でアパート住まいをしています。
最初心配していた一人暮らしには、すぐに慣れました。
ところが、大学に行くのが苦痛です。
とくに月曜の朝が憂鬱です。
授業があるのに昼までねてしまったりすることもあります。
クラスメートになんとなく圧迫感を感じてしまいます。
みなスマートで賢そうにみえ、気おくれしてしまうのです。
表面は笑顔で受け答えしていますが、心の中では緊張しています。
ダサい奴と思われないか、変な受け答えをしてしまわないか、気分を害する行動をして嫌われないか―ついそんなことを意識してしまって、友達のなかでいつも緊張しています。
とくに異性のクラスメイトに対して素直になれません。
身構えてしまうのです。
そのために、かえって不自然な受け答えになってしまいます。
嫌われるのが恐いのに、かえって拒否的なふるまいになってしまって、自己嫌悪に陥ってしまいます。
授業を受けるときは、後ろのほうの出口に近い目立たないところに座ります。
知っている友達がいればそのそばに座ります。
一人離れて座ると、他人から友達が少ない奴と思われるのではないか、などと気になってしまうからです。
でも、友達のそばに座ると、なにか話さなければならないので、それも苦痛です。
少人数の授業では身を隠す場がないので、いっそう緊張します。
授業は苦痛に耐える場で、早く終わらないかとそればかり気にしているので、先生が話す内容にほとんど注意が向きません。
しかし、授業中はまだ救われます。
先生の話を黙って聞いていればよいのですから。
問題は休み時間や空き時間です。
何を話したらよいのか分かりません。
それで、図書館に逃げたり、友達を図書館に誘ったりします。
図書館なら一人でいても不自然ではないし、友達と一緒でもなにもしゃべらなくてすむからです。
クラスメイトから遊びに誘われても、気を使って負担になりそうに感じて、なんとか理由をつけて断ってしまいます。
集団でなにかしようとすると、これではいけないと思いながらも、ついすねてしまうことが時々あります。
自分もみんなと一緒に楽しくやりたいのですが、みんなのなかに素直に入れないのです。
それで外から無関心を装って見ていたりします。
また、漫画を書くのが好きなのでそのサークルに入ろうと思うのですが、みんなのなかでうまくやっていけるか心配で、どうしても行動に移せません。
大学入学後、一時期こうした自分の殻を破ってみる努力をしてみました。
思い切って友達の会話に入ってみました。
誘いに乗って一緒に行動してみました。
しかし、結局、そぐわない感じがしました。
自分が入ったことで、その場の楽しい雰囲気を壊してしまったのではないか、と思うこともありました。
それで現在は、ともかくできるだけ自分が傷つかないようにと付き合っています。
変な奴と思われないように、適度につかずはなれず付き合っています。
演技しているようで虚しくなることもありますが、それがいちばん居心地がよいようです。
大学に朝から行くと午後には疲れてしまって、夕方、アパートに帰るとほっとします。
アルバイトもやってみたいとは思うのですが、自分にできるかどうか心配でなかなか踏み出せないでいます。
いじめなど明確な理由がないのに学校に行けない子どもは、このように人と一緒にいることが恐いのです。
小学生のころ登校拒否気味だった川端康成は、この恐さを『故園』のなかで、次のように鋭く記述しています。
<入学式の時の恐怖を私はよく覚えている。
全校の子供が講堂に集まったなかへつめこまれた私は、こんな人群れを見るのは初めてだし、こんなに大勢の人が世間にいると思ったこともなかったので、おそろしい圧迫を感じた。
椅子はなくてみな立っていたが、入学の子供には父母が付き添って来ているから、私はまわりの大人に遮られてなにも見えなかった。
実際に目がくらむような、それは幼児の闇の恐怖にも似ていた。
闇が不気味な姿や声となっておそいかかって来るように、私は人の群れに怯えた。>(羽鳥徹哉編・解説『川端康成<作家の自伝15>』日本図書センター 1994)
康成はこうした状態だったので、入学後しばらくは、お手伝いの女性が教室まで一緒に行って、下校時まで付き添っているという状態でした。
実際彼は1年生のとき、69日欠席しており、四年生の時には56日欠席しています(笹川隆平『川端康成―大阪茨木時代と青春書簡集』和泉選書 1991)。
人の中にいるのが苦痛という傾向は、社会人にも確実に広がっています。
会社では、飲み会などに誘われても断って、そそくさと退社する人が増えています。
通勤や退社が他の人と同じ電車やバスにならないように、時間をずらす人もいます。
有能なビジネスマンや研究者でも、仕事以外の話をしなければならない場面になると戸惑ってしまう人がいます。
仕事の話ならいくらでもできるのに、それ以外のことで人と対処する術を持たないからです。