人付き合いが怖い人が楽になるには過剰な規範意識をなくす
人付き合いが楽になるための愛着人物の有効性
人付き合いが怖くなるような人は、立派だけれども好きなものがない。
ある母親は「自分は立派な母親だ」という。
次の文章はその女性についての説明である。
「彼女は、毎日泳ぎに行っていても、プールに飛び込んで、水を楽しむことができませんでした。
テニスもしましたが、そんなに好きではありませんでした。
カード遊びも、同じような無関心さでやりました。
人に会ったり、新しいことや新しい場所を知ることは、彼女にとって楽しいことではありませんでした」。
この女性のように、何をしても感動しない、何も好きなものがない人は、じつは自分が自分を好きでないのである。
これが人付き合いが怖くなるような人である。
考えてみれば、人付き合いが怖くなるような人は、自分でない自分になろうと頑張ったのだから、自分が好きでないのは当たり前である。
人付き合いが怖い人のおおもとの欲求は、ボウルビィのいう「愛着人物の有効性」なのである。
つまり母親に「あやしてもらいたい」ときに、母親があやしてくれる。
それを確信することができれば、人付き合いが怖い人にもエネルギーが生まれる。
ところが人付き合いが怖い人には、そういうふうに信じられる人がいない。
母なるものをもった母親はありのままの自分を許してくれるし、自己実現を励ましてくれる。
人付き合いが怖くなるような人の周りには、逆の人しかいない。
だから、本当に欲しいものが人付き合いが怖くなるような人にはないし、わからない。
実際のお母さんとの関係では、いつもやりたくないことを強引にやらされる。
人付き合いが怖い人の性格である執着性格の過剰な規範意識は、裏を返せば「本当に好きなものがない」ということである。
人付き合いが怖い人の性格である執着性格者は、規範意識が強いという。
執着性格者は義務感・責任感が強いという。
しかし、よく考えてみれば、規範意識が強い人が人付き合いが怖くなるというのはおかしい。
規範意識の強い人は、社会の模範となって人々に生きる道を教えている人である。
それは人を愛し、社会を愛している人である。
それなのに、なぜ挫折するのか?
それは執着性格者の強い義務感・責任感は、じつは憎しみの変装した姿だからである。
「こうあるべき」という強い規範意識は、憎しみの変装した姿である。
憎しみが間接的にでも外に向けられたときに、「許せない」となる。
それが、義務感・責任感の強い真面目な人が、正論を盾にしてくやしいことをぶつけている姿である。
ところが、この外にぶつけている攻撃性が外に向けられないと、やむを得ず自分に向けられる。
それがカレン・ホルナイのいう「べきの暴君」である。
その人自身が、「こうあるべき」という暴君に苦しむことになる。
あるべき姿とは違う、現実の自分に苦しむ人付き合いが怖い人の姿であろう。
単に些細な過ちを犯したにもかかわらず、「私は償えない過ちを犯した」として自分を責める。
人付き合いが怖くなった人は、自分が人付き合いが怖くなったという事実を直視しなければならない。
つまり間違った生き方をしていたということを認めなければならない。
「ある行ないが賢いものか愚かなものかは、結果に照らしてはじめてわかるものです」。
人付き合いが怖い人の性格である執着性格者は、義務感・責任感が強いといっても、肝心の自分に対する義務を放棄していたから人付き合いが怖くなったのではないか。
自分に対する義務を果たすほうが、勇気がいった。
人から拒絶される恐怖心がある限り、人に対する義務を果たすほうが楽である。
本当に、人に対する義務を果たすというのは、人への愛情からである。
現在の苦しさを乗り越える
とにかく、自分は世の中でいう「模範的な生き方」にしたがって生きて、結果として人付き合いが怖くなった。
その事実と向き合うことである。
自分を解放するはずのものが、自分を束縛するものでしかなかった。
それは自分の中の生命力に関心をもつという、最も大切なことをしなかったからである。
「自分の中の生命力に関心をもたない限り、自分が住んでいる世の中に奉仕することはできません。
ただのお荷物になってしまいます」ということである。
人付き合いが怖くなるような人は義務を果たそうとし、犠牲を払い、真面目に生き、仕事も勉強も一生懸命に頑張った。
それなのに、今は世の中にとって、ただのお荷物になった。
今までの努力は何だったのか?
しかも毎日が無気力。
毎日が不愉快。
毎日が憂うつ。
とにかく毎日が面白くない。
なぜなのか?
それは自分の力に頼って生きようとしなかったからである。
その結果、他人を怒らせるのではないかという恐怖心があった。
自分の弱点が相手を怒らせないかという恐れが、模範的な生き方の動機ではないのか?
それが人付き合いが怖い原因ではないか?
人付き合いが怖くなるような人は、長いこと恐怖感で生きてきたから、疲れ果てて前向きのエネルギーはなくなっている。
今は何をする気持ちにもならない。
うつ病になった人は、模範的な生き方をしようとするよりも、今は休むときである。
そして「なぜ自分は模範的な生き方をしようとしてきたのか」を考えてみる。
もしかして自分が自分の弱点に怒っているのに、他人が自分の弱点を怒っていると思っていたのではないか。
だから自分の弱点が相手を怒らせるのではないかと恐れて、いつもビクビクしたのではないか。
そして何でもかんでも相手のいうことに「そう、そう」と迎合したのではないか。
それが「模範的な生き方」と思っていたことの実態ではないか。
その結果、疲れ果てて他者への関心を喪失した。
他者への関心が自分を回復させるのに、ますます自己執着に陥った。
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人付き合いが怖い人は周りの人の気持ちを考える
相手を喜ばせたいと思えるか
「妻が利己的な関心にばかりかまけていないで、夫を幸せにし、ふたりの関係を保つことに気を配れればよいのです」
人付き合いが怖いを解消するという意味はこういうことである。
自分にばかり気をとられていないで、「夫を幸せにし、ふたりの関係を保つこと」を毎朝考える。
そして実際に夫に気を配れば、人付き合いが怖いを解決するということである。
実際にそうしようとしたときに、はじめて自分がわかる。
実際に気を配れば解決すると思ったときにはじめて、そのように気を配ることがどれほど難しいかがわかる。
心身ともに疲れ果てたときには、前向きの努力をするよりも不満になっているほうがはるかに心理的に楽である。
そうしたときにはじめて、「自分は、人を喜ばすことを何もできない」ということに気がつくかもしれない。
なぜできないのか?
そこで自分が見えてくる。
自分の中の憎しみに気がつくかもしれない。
その原因が愛情飢餓感と関係していることも、気がつくかもしれない。
あるいは自分の中の受け身の願望に気がつくかもしれない。
「自分にはまだ、人を愛するという能動的な願望がないのだ」と気がつくことは、重要なことである。
能動的な願望がないということが、人付き合いが怖いひとつの特徴なのである。
それに気がつかなければいつまでも一方的に要求するばかりで、その結果相手に不満になる。
不愉快になる。
そして、自分が不満になるのは当たり前だと感じる。
しかし自分は愛されることばかり求めていて、まだ人を愛するまでに情緒的成熟をしていないと気がつけば、事情は少し変わる。
その結果、不満がなくなるかどうかは別にして、少なくとも怒りは和らぐ。
本来自分の立場でしなければならないこと、するのが当たり前のことをしていない、それをするのが難しいとわかったときに、努力の方向は見えてくる。
どう努力をすればよいかがわかってくる。
シーベリーは「自分の注意を、状況を正すであろう行動に向けなさい」という。
現実を受け入れると、新しい未来が開ける
アドラーやシーベリーのいうことはその通りであるが、その努力が現実には難しい。
不愉快ということは、他の箇所でも触れたが、前に進めないということである。
人付き合いが怖くなるような人は、「状況を正す」努力ができない。
疲れすぎている。
「心配は、私たちがすべきことを怠っていると教えてくれます」とシーベリーはいう。
これまたその通りである。
それは、言い換えれば、「人付き合いが怖いことは、私たちがすべきことを怠っていると教えてくれます」ということである。
だが怠っているのには、怠っている理由がある。
それをするまでの情緒的成熟がされていない。
成熟できない環境の中で成長してきた。
自分を責めることはない。
したがってまず、現実に直面することである。
現実に直面するということは、自分の位置がわかるということである。
自分は今どこにいるのかを理解することである。
社会的には自分は今、新大阪駅にいるはずである。
しかしじつはまだ新幹線に乗っていないで、東京駅にいる。
この状態を考えてみれば、周囲の人との間にトラブルが生じるのは当たり前であろう。
周囲の人に不満になり、毎日が不愉快になるのは当たり前である。
まして本人が実際には東京駅にいるのに、自分は新大阪駅にいると思っていたら、何をやってもうまくいかない。
少なくともまず、自分はまだ東京駅にいるということを意識することから出発するより仕方ない。
どうしようか?-どうにもできない。
もし自分が変わろうとしないなら。
今のままの自分の努力では、ジレンマは解消しない。
人付き合いが怖い人はこれをしようとした。
人付き合いが怖い人のするべきことは、自分が変わることだったのである。
「成功」を自信に変化させる
失敗することを恐れて、自分の力が試される機会から逃げていると、いつしか、それは根雪のように心の底に積もっていく。
それは容易なことでは解けない。
逃げの体験が根雪になって、その人の自信喪失の自己イメージになる。
だから人付き合いが怖い人などが一回や二回成功しても、それで自分に自信を持てないのである。
成功が自信をもたらさない。
逃げた記憶が根雪になっていなければ、自分が何かを達成することで自信と喜びをもってもよさそうである。
「何かが心配なときは、つねに、自分が回避している中心的な事実があるのです。
その中心的な事実は、あなた自身を変革せよという要求をたずさえてあなたの前に現れるはずです」というのは、シーベリーの言葉である。