劣等感という言葉を現在語られているような文脈で使ったのは、アドラーが最初だといわれています。
アドラーの使ったドイツ語での劣等感の文脈は、「価値」「より少ない」「感覚」という意味です。
つまり、劣等感とは、自らへの価値判断にかかわる言葉なのです。
自分には、価値が無いのだ、この程度の価値しかないのだ、といった感覚です。
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例えば身長が低い人がもっと高くなりたいと悩んでいて、ある時友人に相談したそうです。
その友人は身長がい低くて劣等感を感じている人にこういいました。
「大きくなってどうする?お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と。
たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるかもしれません。一方小柄な人は、相手も警戒心をといてくれる。
小柄であることは自分にとっても周囲の人にとっても、好ましいことだと思わされました。
つまり価値の転換です。
ここで大切なのが、低い身長が「劣等生」ではなかった、ということです。
事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。たしかに客観的に測定したら低い身長だったかもしれませんが、一見すると、劣等生に思えるでしょう。
しかし問題は、その身長についてその人がどのようなどのような意味づけを施すか、どのような価値を与えるか、なのです。
その人が自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較、つまりは対人関係の中で生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。
もしも比べるべき他者が存在しなければ、その人は身長が低いなどとおもいもしなかったはずですから。
対人恐怖症、社交不安障害を克服したいあなたも今、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているのでしょう。しかしそれは、客観的な「劣等生」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。
身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。
つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのです。
ところが主観にはひとつだけいいところがあります。それは自分の手で選択可能だということです。
われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことが可能です。
そして私たちは主観的な世界の住人であります。
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ここで劣等感のドイツ語を思い出してください。
劣等感とは自らへの価値判断にかかわる言葉なのだと。それでは一体価値とはなんなのでしょう。
例えば高値で取引されるダイアモンド。あるいは貨幣。われわれはここに何らかの価値を見出し、1カラットいくらだとか、物価がいくらだとか言っています。しかしダイアモンドなど見方を変えればただの石ころにすぎません。
つまり価値とは、社会的な文脈の上で成立しているものなのです。
一ドル紙幣に与えられた価値は、ひとつのコモンセンス(共通感覚)ではあっても、客観としての価値ではない。
印刷物としての原価を考えるならば、とても1ドル分の価値などない。
もしこの世界に私以外の誰も存在しなければ、わたしは1ドル紙幣を冬の暖炉にくべてしまうでしょう。鼻紙に使うかもしれない。それと全く同じ理屈で身長について思い悩む必要はないということです。
つまり、価値の問題も最終的には対人関係に還元されていくのです。