嫌われる態度とは
嫌われる態度の心理
人は自己蔑視してしまうと、相手の誉め言葉を素直に受け取らなくなる。
つい、嫌われる態度をとってしまう。
恋人に「好きだ」とか「美しい」とか言われても、「誰にでもそんなこと言っているのでしょう」とか「口がうまくなったわね」とか嫌味を言う。
つい、嫌われる態度をとってしまう。
こういう嫌われる態度をとってしまう人は、内心では虚栄心が強い。
だから、嫌われる態度をとってしまう人は、そのようにほめられたことが内心では嬉しいのだけれども、それを素直に信じ、表現することができない。
つい、嫌われる態度をとってしまう。
そして重要なことは、嫌われる態度をとってしまう人は、相手のお世辞と好意の区別ができないことである。
さらに重要なことは、嫌われる態度をとってしまう彼女自身は心の底で、相手が本当に自分を好きになるという事に違和感がある。
嫌われる態度をとってしまう人は、その上に虚栄心が強い。
そこで今いったような言い方を、ついしてしまう。
しかし嫌われる態度をとってしまう人のその嫌味の言葉を聞いた相手の男性はどのように感じるであろうか。
もちろん不愉快である。
つい、嫌われる態度をとってしまう。
いくらほめてもそのような言葉が返ってくる。
それでいながら、そのような言葉を言うことを強要してくる。
それは自己蔑視した嫌われる態度をとってしまう人は、心の底でそれが信じられないので、その誉め言葉を確かめたいのである。
実は、嫌われる態度をとってしまう人は、何度も何度も言ってもらいたい。
嫌われる態度をとってしまう人は、信じられないけど信じたい。
そこで、嫌われる態度をとってしまう人は、しつこくその言葉を相手に言わせようとする。
そこで、つい、嫌われる態度をとってしまう。
そのようなやり取りがいつも行なわれた結果、相手の男性はさすがに嫌気が差してくる。
その恋愛がこじれてくる。
すると嫌われる態度をとってしまう彼女は「やっぱり口だけで」と相手を責めることになり、破局を迎える。
その恋愛を破局に導いたのは、嫌われる態度をとってしまう彼女の相手を信じられない不信の心が原因であろう。
しかし嫌われる態度をとってしまう彼女から見ると、そのようには映らない。
相手の長所を真面目にほめて「お世辞がうまいわね」と言われて、不愉快にならない人はいない。
嫌われる態度である。
相手を自分から離れさせたのは自分の嫌味な言葉であると、彼女は思わない。
人は自信がなくなると、相手の言葉を真剣に聞かなくなる。
相手を傷つける嫌われる態度をとりながら、それに気がつかなくなる。
それは嫌われる態度をとってしまう人は、人生の態度全般に真剣さがなくなるからである。
嫌われる態度をとってしまう人は、人に自分をよく見せようとする防衛的真面目さはあるが、相手のことに真剣に耳を傾けるというようなことや、相手の立場に立ってものを考えるということができなくなる。
つい、嫌われる態度をとってしまう。
つまり嫌われる態度をとってしまう人は、実際の相手にコミットしていない。
嫌われる態度をとってしまう人は、「自分のメンツを失うまい」と、そればかりを考えるので、相手のことを考えるゆとりがないのである。
そして嫌われる態度をとってしまう人は、自信がないから、うまくいかないと笑いでごまかすことが多くなる。
嫌われる態度をとってしまう人は、謙遜も真剣さも、的がはずれてくる。
嫌われる態度をとってしまう人は、それは真剣というよりも真剣な「ふり」だからであり、謙遜も謙遜な「ふり」だからである。
嫌われる態度である。
こうなったらもう、自己蔑視の人は一人になるしかない
嫌われる態度をとってしまう人は、誉め言葉を素直に受け取らないで嫌味を言うことの他にも、相手を不愉快にさせることがある。
嫌われる態度をとってしまう人は、たとえば、相手の何気ない言葉を悪意に受け取る。
恋人に電話をかける。
恋人が忙しい。
たとえば来客中である。
あるいは会議から抜け出してきて話している。
そんなときには、すごく事務的な話し方になる。
その恋人は、「じゃーまた後で」と言って切る。
すると「いかにも迷惑だって、ひどい話し方。もう電話なんてかけない」となる。
相手は悪意があるわけではない。
しかし自己蔑視した嫌われる態度をとってしまう人は、その事務的な話し方に悪意を感じ取ってしまう。
あるいは電話をかけると言った時間に、恋人が電話をかけられないとする。
するとそのことが、「私を嫌いなのね」になってしまう。
自己蔑視した恋人には、何でもないささいなことが、悪意ある証拠となる。
その嫌われる態度をとってしまう人にはそれが悪意の証拠にしか感じられない。
そう解釈させるのは、心の中の自己蔑視である。
口の周りにクリームをいっぱいつけて、「キスしてよ」と言ったら、普通の人は拒否する。
嫌われる態度である。
自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、だれでも拒否されるようなことをして、「私だから」拒否されたと解釈する。
自己蔑視した嫌われる態度をとってしまう人は、相手を見ていないし、状況を見ていない。
嫌われる態度をとってしまう人は、現実とコミットしていない。
嫌われる態度をとってしまう人は、独りよがりの思い込みの想像の世界で生きている。
嫌われる態度をとってしまう人、「そんな人生を送る人」が見落としがちなチャンスの芽
「誰も私を愛してくれない」と嘆いてる嫌われる態度をとってしまう人は、自分のしていることを相手に置き換えて考えてみることである。
愛されないと嘆いている嫌われる態度をとってしまう人は、自分が今、何を相手に要求しているかに気がついていない。
嫌われる態度をとってしまう人は、相手の立場も自分のしていることも、わかっていないのだから。
嫌われる態度をとってしまう人は、暗い映画館で「オレは愛されない男だ」と一人で泣いているようなものである。
嫌われる態度をとってしまう人は、愛されないのではなく、誰とも接していない。
嫌われる態度をとってしまう人は、また、相手から誘われたときにも同じである。
素直で明るい人は、好きな異性に誘われれば、喜んでそれに応じる。
しかし自己蔑視の強い嫌われる態度をとってしまう人は、「すぐに誘いに応じると、誰にでもついていく軽い女と思われるのではないか」と恐れて断ったりする。
嫌われる態度をとってしまう人は、本当は誘いに乗りたくてしょうがないのに、無理をして断る。
嫌われる態度をとってしまう人は、もう一度誘ってもらいたくて断る。
嫌われる態度をとってしまう人は、自分を高く見せることばかり考えている。
嫌われる態度である。
自己蔑視の強い嫌われる態度をとってしまう人は、周囲の人から高く評価してもらおうと思って、かえって周囲の人を不愉快な気持ちに追い込む。
嫌われる態度である。
自己蔑視の強い人は、周囲の人から高く評価してもらおうと思って、素直になれない。
これも嫌われる態度である。
断られて喜ぶ人もいないから、自己蔑視の強い嫌われる態度をとってしまう人は、次第に皆から孤立する。
嫌われる態度をとってしまう人は、誠意のある人が周りに集まらなくなる。
嫌われる態度をとってしまう人は、それでいて、楽しくしている人を見てうらやましがる。
また、嫌われる態度をとってしまう人は、「皆は楽しく恋愛をしているのに、自分だけは損な人生を送っているのではないか」と思ったりする。
その嫌われる態度をとってしまう人にだって、いくらでも楽しく人生を送る相手を見つけるチャンスはあった。
しかし嫌われる態度をとってしまう人は、自分を高く評価してもらおうとして、その機会を自分から壊しただけである。
そして嫌われる態度をとってしまう人は、最後には自分を軽く見ている人に捕まっていく。
それは、自己蔑視が強い嫌われる態度をとってしまう人は、相手を見抜く能力がないからである。
嫌われる態度をとってしまう人は、相手にバカにされやしないか、軽く見られないか、そんなことばかり恐れているので、肝心の相手がどんな人間であるかを見抜く心のゆとりがないのである。
とにかく嫌われる態度をとってしまう人は、現実にコミットしない。
嫌われる態度をとってしまう人は、「淋しさ」が、あなたの心を強くする
劣等感と孤独感は関係しているが、劣等感の強い嫌われる態度をとってしまう人ほどおだてに弱い。
周囲の人から利用されたのは本人の弱さゆえなのだが、嫌われる態度をとってしまう人は、その自らの弱さに対する反省はない。
嫌われる態度をとってしまう人の弱さとは淋しさである。
一人で立っていられない孤独感である。
孤独な嫌われる態度をとってしまう人は、はずるい人に利用される。
自己蔑視の強い嫌われる態度をとってしまう人ほど、お世辞が嬉しい。
「こんなことができたら、皆がすごいと思うだろう」
嫌われる態度をとってしまう人は、心の中でいつもそうしてことを空想している。
だから嫌われる態度をとってしまう人は、お世辞に弱い。
嫌われる態度をとってしまう人は、「著名な人しか入れないクラブです」とか、「人名録にのせるので」などの言葉に騙される。
嫌われる態度をとってしまう人は、「この物件は著名な方にしか話さない物件です」という不動産屋の言葉に騙される。
嫌われる態度をとってしまう人が現実にコミットしている大人になることは、「相手の話を目で聞くこと」である。
非言語的なメッセージの中に、相手の真意がもれている。
これを読み取れることが、現実にコミットしているということである。
深刻な自己蔑視のある嫌われる態度をとってしまう人は、自己防衛に専心して、現実の周囲の世界を忘れている。
自己評価がいつも厳しい自己蔑視
自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、相手の言葉を誤解する。
嫌われる態度をとってしまう人は、相手の言葉を、自分が傷つくように解釈する。
自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう母親。
「このカレーライス、からい」と子どもが言った。
「え、私の料理、下手ってことね」
そして不機嫌に黙った。
子どもの「このカレーライス、からい」という話を聞いてあげることが愛なのに。
夫が「隣の奥さん、素敵」と言った。
「え、私、不美人ってことね」
車に同乗している妻が「ブレーキかけると振動する」と言った。
「え、オレの運転、下手ってこと?」
傷つきやすい嫌われる態度をとってしまう人は、対象無差別に傷つく。
嫌われる態度をとってしまう人は、誰の言動でも傷ついてしまう。
普通の人も傷つく。
「この人にこう言われた」と、深く傷つく。
逆に「べつに、あの人からだったら何を言われても、べつにどうということはない」と思う。
しかし自己蔑視して傷つきやすい嫌われる態度をとってしまう人は、あの人の言葉にも、この人の言葉にも同じように傷ついてしまう。
そしてそれは、お世辞についても言える。
自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、誰にお世辞を言われても嬉しい。
しかし普通の人は、「あの人にお世辞を言われても嬉しくはない」と感じる。
要するに自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、愛されなかった人達なのである。
嫌われる態度をとってしまう人は、誰ともコミットしていない。
だから嫌われる態度をとってしまう人は、誰にお世辞を言われても嬉しいし、誰に批判されても傷つく。
嫌われる態度をとってしまう人は、「私とあの人」という固有の関係がない。
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とにかく嫌われる態度をとってしまう人は、自己蔑視するから、傷つきやすくなる。
傷つきやすい嫌われる態度をとってしまう人は、実際の自分を「恥ずべきもの」と感じている。
そして自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人が実際の自分を「恥ずべきもの」と感じていることは、外からは見えない。
そこにいろいろな誤解が生じる。
自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、実際の自分を恥ずべきものと感じている。
しかし自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人と付き合っている友人や恋人は、実際の「その人」を恥ずべきものと感じていない。
いや、逆に素晴らしいと思っていることもある。
この前提の違いは大きい。
人間関係が誤解なく機能するために重要なことは、こちらが相手を高く評価していることではない。
嫌われる態度をとってしまう人は、相手が相手自身をどう評価しているかを、こちらが正しく理解していることである。
嫌われる態度をとってしまう人は、そうでない限り、こちらの伝達したい意図は正確には伝わらない。
嫌われる態度をとってしまう人は、正確には伝わらないどころか、逆の意味に伝わることさえ珍しくない。
高い自己評価の人同士の場合は、自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人達よりはるかに正確に意図が伝わる。
メッセージの送り手もメッセージの受け手も高い自己評価の人の場合、送り手の意味を受け手が比較的正しく受け取る。
自信のない嫌われる態度をとってしまう人は、「あら、知らないの?」という一言を聞いて、すぐに「オレをバカにしている」と解釈する。
そして嫌われる態度をとってしまう人は、次は何をしても「オレを軽く見たな、なめたな」と怒る。
相手がそれを言ったときの顔を見ていない。
嫌われる態度である。
自信のない嫌われる態度をとってしまう人は、だいたい、自分を守ろうとする気持ちが強すぎて、状況を見ていない。
また、相手と自分との今までの関係を顧慮していない。
そこで嫌われる態度をしてしまう。
自信のない嫌われる態度をとってしまう人は、「動物はすべて自分と同じサル」と思っているサルのようなものである。
カバに「泳げないの?」と言われても、バカにされたと思って落ち込む。
そしてサルの仲間のところにいっても、自分に危害を加えると思っておびえている。
「酒を飲んではいけない」ということになっているサルの集団で育って、大人になってライオンの集団にいって、ライオンに気に入られようとして、「やだねー、酒飲みは」と言っているようなものである。
ライオンは酒を飲んでいるのに、見えていない。
気に入られようとして言った言葉で、嫌われる態度をとってしまっている。
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自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人の特徴の一つめとして、はじめに「人は自己蔑視してしまうと相手の誉め言葉を素直に受け取らなくなる」。
もう一つ、自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人の特徴は、「相手を誉めないこと」である。
たとえば今、自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人が尊敬している親の正体はどうであろうか。
情緒的に未成熟な親は、子どもの自然な成長を待てないという。
つまり親は自分の内面が不安であるから、その不安から行動してしまう。
そして子どもがやるべきことを、先回りしてやってしまう。
そして自分はいい親、立派な親と錯覚している。
親も子どもも錯覚する。
その立派な親の正体は、「不安な親」「憎しみにかられている親」なのである。
世の中にはこういう親がたくさんいる。
こういう親の場合、たいてい自分がさせたいことを子どもにさせている。
お稽古事も、親が子どもにさせたいお稽古ごとである場合がある。
水泳でもピアノでも何でも、お稽古事から疲れて帰ってくると、カバンを取ってあげる。
自分を、よく世話をする立派な親と思い込んでいる。
こういう親は子どもをほめない。
そして自分のさせたいことを子どもにさせるために、子どもをおだてる。
しかし子どもが頑張って、たとえばバレエを練習してうまくなっても、子どもをほめない。
「あれだけお金を出したんだから、当たり前でしょう」という考え方である。
ほめると「私の力でこうなった」ではなくなってしまう。
そこで、なかなか子どもを誉めない
嫌われる態度である。
子どもをほめない親ばかりではなく、一般的に人を誉めない嫌われる態度をとってしまう人は、心理的に問題のある人である。
女性同士が「あの人綺麗になったわねー」と言っても、「そうかしら」と、嫌われる態度をとってしまう人は、褒めない。
嫌われる態度をとってしまう人は、「何か外国人になったみたい」と言う。
褒めない嫌われる態度をとってしまう人は、自己蔑視しているから、人をほめられないのである。
嫌われる態度をとってしまう人は、誉めるときには自分の素晴らしさを示すときである。
相手との自然な会話の中で褒めるということはない。
これも嫌われる態度である。
要するに、人を誉めない自己蔑視の嫌われる態度をとってしまう人は、相手とのコミュニケーションをするつもりはない。
こういう自己蔑視する嫌われる態度をとってしまう人は、基本的に、一人がいい。
嫌われる態度をとってしまう人は、関係が嫌。
つまり、嫌われる態度をとってしまう人は、基本的に人が嫌いなのである。
子どもをほめないで子どもをおだてる親は、基本的に、子どもが嫌いなのである。
しかし子どもを通して自分の要求を満たしたい。
だから子どもには、「こうして欲しい、こうなって欲しい」という要求がある。
その要求を満たすときにのみ、子どもを好きになる。
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では、自分が今おだてられているのか、ほめられているのかを、どこで判断したらいいのか。
ほめられていると思っても不安になったら、それはほめられているのではない。
おだてられているのである。
おだてられれば不安は増大する。
今おだてられていても、失敗したら失望される。
そして失望されたら傷つく。
そこで、おだてられたときには、誉められた時と違って不安になる。
そのことを言われてこちらが嬉しければそれは励まされ、ほめられたのである。
自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、好かれたいし、愛されたいし、認められたい。
相手を励まし、相手の努力を認め、相手をほめる人が好かれ、愛され、認められる。
それなのに自己蔑視している嫌われる態度をとってしまう人は、好かれたいのに、嫌われることばかりする。
出されたお料理を食べて「わーおいしい」と言えば好かれるものを、「なかなかのお料理ね」と偉そうに言う。
嫌われる態度である。
どっちみち引き受けるなら、「忙しいけど喜んでやらせてもらいます」と言えばいいのに、嫌われる態度をとってしまう人は、ぐちぐち言ってから引き受ける。
だから苦労しながら嫌われる態度を取ってしまう。