“母親との関係を基準にして人との距離をはかる”
第四に、人間関係の遠近感を知ることである。
幼児的願望は母親との関係で満たされる。
子供は、自分が母親にとってかけがえのない存在であるということを感じる。
母なるものを持った母親から飽くことなく話しかけられた時、優しく肌に触れられながらお風呂に入れてもらうとき、会話をしながら食事をもらうとき、日常のさまざまな体験を通して、自分と母親との近さを感じる。
母なるものを持った母親にうっとりと見つめられた時に、幼児は様々な幼児的欲求が満たされていく。
そうして育つから、母親以外の人に接したときに「この人は母親とは違う」と感じる。
そして、母親との関係を基準にして隣のおばさんとの関係、友達との関係、見知らぬ人との関係がわかる。
母親にとって自分が特別な存在だと感じることで、母親以外の、たまたま知り合った人との遠さがわかる。
母親にとって自分が特別な存在だと感じるからこそ、たまたま目の前にいる人にとって自分は特別な存在ではないということが理解できる。
こうして、他人の母親との心理的距離の違いが分かる。
しかし、もし母親にとって子供が他人であれば、子供にとっても母親は他人である。
その子供は他人との心理的距離がわからない。
そのこどもにとっては、どの人との距離もさして違わなくなってくる。
したがって、「この人にとっては自分は遠い存在だ」「この人にとっては自分は近い存在だ」というように、それぞれの人にとっての自分の位置がわからない。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、他人との適切な心理的距離を図ろう。
”相手との距離がわからないからトラブルが起こる”
悩んでいる人は皆、人間関係の中での自分の位置がわからない。
今、目の前にいる人とじぶんとの位置関係がわからない。
愚痴をこぼすにも愚痴をこぼす関係がある。
普通の人は、どういう人に愚痴をこぼすであろうか。
親しい人に、である。
信頼している人に、である。
そうした友達に愚痴をこぼす。
つまり、愚痴をこぼす関係にある人に愚痴をこぼす。
信頼する恋人に対して、愛する配偶者に対して、会社の上司や部下の愚痴をこぼす。
初体面の人には愚痴はこぼさない。
悩んでいる人は、見知らぬ人と話をする時にも、相手にとって自分は初めての存在だということを認めない、あるいは無視する。
これでは恋愛がうまくいくはずがない。
友達ができるはずがない。
だから、悩みが次々に出てくるし、今の悩みがもっと大きくなる。
40年間悩んでいる人である。
悩んでいる人には人間関係の作り方がわからないということである。
人間関係の遠近感がない。
もちろん、人間関係ではなく、悩んでいる人には物事の遠近感がない。
この人生には重要なことと取るに足りないいこととがある。
取るに足りないことを重要なことととる。
そして、取るに足りないことを悩んでいるうちに、それを自分の中でどんどん重大なことにしてしまう。
誰にも、初めから親しい関係があるわけではない。
人は「だんだんと順序を踏んで親しくなっていく」のである。
親しくなるためには時間がかかる。
たとえば、悩んでいる人はいきなり相談に来る。
教室の前で熱心に質問して先生に印象を与えて、関係を徐々につけていくということをしない。
初対面には初対面の関係があり、それぞれの関係の中で誠実さが生まれ、尊敬が表れ、そして親しくなっていく。
悩んでいる人は関係がわからないから、対人関係でいつもトラブルを起こしてしまう。
海の深い箇所も川の浅瀬も同じに見えてしまう。
浅瀬に飛び込んで怪我をしたり、深い海を浅いと思って泳いで行って溺れそうになったりする。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには人はだんだんと順序を踏んで親しくなっていくことを覚えることである。
”なぜ特別扱いを要求するのか”
ある人が「悩んでいる人はなぜあそこまで自己中心的なんでしょうね。」と不思議がっていた。
心理的に健康な人にとっては、悩んでいる人の言っていることが理解できないのである。
幼児的願望を満たされていない人は、誰にとって自分がかけがえのない存在であるか、誰にとって自分は多くの中の一人にすぎないかが理解できない。
幼児的願望は、相手に自分を特別な存在として扱えという要求でもある。
そこで、幼児的願望が満たされていない人は、自分が多くの中の一人として扱われたときに怒り出す。
カレン・ホルナイは神経症者は自分が特別な存在として取り扱われることを要求するというが、それは神経症者が「母なるもの」を体験していないからである。
「母なるもの」を体験しているとは、親と何でも言える関係ができているということである。
親とふれあっている、親子で勝手なことを言っているということである。
すると「こんなことは家を一歩出たらいってはいけないな」とか「この態度は親の前だから許されるのだな」ということが、なんとなくわかってくる。
そこで、人間関係の基準がわかってくる。「この人に対してはこう」というのがわかってくる。
”その場にふさわしい自分を演じられる人”
「母なるもの」を体験して幼児的願望が満たされている人は、他人に対して自分が特別な存在であることを要求しない。
母親から特別な存在として扱われているので、その幼児的願望はすでに満たされているからである。
そこで、相手から見た自分との距離と、自分が考える相手との距離がほぼ一致するので、人間関係で次々とトラブルを起こさない。
しかし、幼児的願望が満たされていない人は、その距離の違いが理解できないから、人間関係で次々とトラブルを起こす。
つまり、人間関係でいつも傷ついている。
これは、役所に行っても、知人に会っても、会社に行っても、父母会に行っても、学校に行っても傷ついている。
日々接する人の、自分に対する態度に次々と傷つき、それらの人に対して怒りを持つ。
こうして、幼児的願望が満たされていない人は、日々憎しみを心の中に堆積していく。
悩んでいる人は、「このことを誰に頼むのが適切なのか」が理解できない。
親に頼むべきことを単なる隣人に頼んでしまう。
幼馴染に期待することを見知らぬ同窓会の人に期待してしまう。
要求するのが適切でない人に、要求をしてしまう。
こうして、ことごとく依頼や期待が実現しなくて、周囲の人を責めたり、人間不信に陥る。
日常接する人の何気ない会話にも憎しみを持つ。
それは、自分に特別の関心を払わないことを当たり前と思う。
そこで、みんなが集まって、何気ない世間話をしているときに傷つかない。
しかし、母親から特別の関心を払われたことのない人は、誰であっても、その人が自分に特別の関心を払ってくれないと気に入らない。
単なる世間話をしているときにも、皆が自分に特別の関心を払って会話の内容を選択していないと不愉快になる。
幼児期に母親が母親でないと、大人になっても接する人すべてに母親であることを要求する。
それが、幼児的願望を満たそうとするという意味である。
あるいは、こういう人は、接するすべての人が他人になる。
したがって、「その場にふさわしい自分」を演じられない。
こういう人はどこに行くのもタキシードを着ていくようなものである。
一次会も二次会も、同じ「理想の自分」を演じる。
極端に言えば、お風呂に入るのもタキシードを着て入るようなものである。
敬語が良いとなると長年の恋人にも敬語を使ってしまうし、それが水くさいとなると、初めての人でも構わず「ねー」と恋人同士が使う言葉を使ってしまう。
リラックスの場も公式の場も区別がつかない。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、この場ではこう。と客観的に場合を考えることである。
”他人のすることをすべて自分と関連付けて傷つく”
幼児的願望を持っている人は、とにかく他人に認めてもらいたい、チヤホヤされたい。
認められればうれしいし、認められなければ傷つく。
心理的に健康な人は、赤の他人に認めてもらうことが何でそんなにまで大切なのか不思議に思う。
また、赤の他人の態度になんでそこまで傷つくのか理解できない。
しかし、幼児的願望を持っている人にとって、赤の他人はいない。心理的に健康な人から見て赤の他人は、幼児的願望を持っている人にしてみれば「母親」なのである。
カレン・ホルナイは、神経症者にとって他人は「生命的重要性」があるといっているが、それは他人が「母親」だからである。
「自己関連妄想」という言葉がある。
他人のすることを、何でもかんでも自分と関連させて解釈してしまうことである
道行く人がふと振り返っても、自分の顔を見たと解釈する。
自分とは関係のない内容の会話でも、自分を馬鹿にしたと解釈する。
自分と関係のないことを自分と関係あると思い込んでしまう。
「窓を閉めたのは自分を嫌ったからだ」「こそこそ話をしているのは、私を避けているみたいだ」と言う。
それは憶測のしすぎだというと、「そうではなくて嫌われている」と譲らない。
そうではないと言っても納得しない。それが自己関連妄想である。
自己関連妄想の人は、自分と関係ないことを「自分だから」されたと解釈する。
母親との関係で言えば、多くのことは「自分だから」と解釈してもいいだろう。
「自分だから」してくれることは多い。
しかし、赤の他人は「自分だから」してくれることはまずない。
ところがもし赤の他人に母親であることを要求しているとすれば、赤の他人との関係でも「自分だから」という解釈が成り立って当然である。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには「自己関連妄想」におちいった時はとにかく客観視で自分をみる練習をすることである。
”被害者意識を持つ人は愛を求めている”
「いやがらせ」でないものを自分への「いやがらせ」と受け取る人は、甘えている人の発想でもある。
あるいは、甘えの欲求が満たされていない人の発想と言ってもいいかもしれない。
甘えているのに甘えが通らないときに、「いやがらせ」と解釈してしまうのである。
彼らの場合、甘えの欲求が満たされて積極的な姿勢になっている人と比べて、同じことを「いやがらせ」とうけとる確率は、はるかに高いだろう。
ボールがたまたま自分の前へ飛んでくると、自分はボールを投げつけられたと解釈する。
自分の前に屋根から雪が落ちてくると、それを、その家の人の「いやがらせ」とうけとってしまう。
先生が「Aさん」とあてると、「わざと私を指した」となってしまう。
自分の心が不満だと、物事を悪く悪く解釈する。
このような考え方を持つ者は、いつもまわりは敵だと思っている。
それに、心理的成長に失敗した人は、自分の人生だけは特別に困難があってはならないと考える。
自分の人生に苦難があるということを認めたくない。
そこで「いやがらせ」でないものまで「いやがらせ」とうけとる。
「いやがらせ」と受け取って、私はいやがらせをされていると皆に訴えて、皆の同情が欲しいのである。
「被害者意識」と言う言葉がある。
日本人は被害者意識にたってものを言うといわれる。
「あいつはいつも被害者意識からものを言っている」とよくいわれる。
被害者意識に立ってものを言う人は愛を求めているのである。
「私はこんなにひどい目にあっている」と同情と注目を求めている。
人は、幼児的願望が満たされないと被害者意識や自己関連妄想になる、と思っている。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、被害者意識にみまわれた時には、客観的に見てそうではないことを意識する練習をすることである。