”自らの幼児性を認める”
第三に、自分が幸せになるためには、自分自身がこのことを理解し、またそのことを理解できる人を友達や恋人に選ぶしかないのである。
そのときに初めて、自分には「美醜も学歴も財産も関係ない」ということが心の底から理解できる。
挫折する人は、幼児性の感情を聞いてくれる人が周囲にいない。
聞いてくれる人がいれば、治る。
うつ病になるような人は「幼児返り」をしたがっている。
そして、「幼児返り」をすればうつ病などは治る。
人は、どんなに経済的に幸せの条件がそろっていても幸せにはなれない。
彼が満たされていないのは、彼の幼児的願望である。
「この人は心理的に幼児なのだ」と、本人や周囲の人が受け入れるかどうかである。
このことを本人や周囲の人が理解できるかできないかである。
このことを理解できない友達や家族は、彼を幸せにすることはできないと諦める。
「こんなに経済的に恵まれているのに」という発想で彼を見ると、周囲の人は彼を見捨てたくなる。
周囲の人は、「あいつは、もうどうしようもない」と諦める。
まず自分が自分の幼児性を認めることである。
そして、それに理解を示してくれる人と友達になろうとすることが大切である。
対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、自分の幼児性を理解してくれる人と付き合うことである。
”地位も名誉もない今が友達を探すチャンス”
幼児的願望が満たされていない人は、偉くなろうとする。
そして、チヤホヤされて幼児的願望を満たそうとする。
しかし地位や名誉やお金で集まった人は、信に用できない。
たいていは人を利用しようとしている人達ばかりである。
そういう人はいつかあなたを裏切る。
「自分は幼児的願望が満たされていない」と認めた人は、地位も名誉もない今こそ、自分の周りにいる人の中から信用できる人を探すチャンスだと気が付くことである。
幼児的願望が満たされていない人は、チヤホヤされたくて名誉ばかりを欲しがるが、名誉を得れば、そのまわりに集まった人間はロクな人間ではない。
権力や名誉や財産のあるときには、まわりには質の悪い人が群がる。
質の悪い人とは「人を利用しようとする人」「人から搾取しようとする人」などである。
人を見抜く力のないうちに社会的に成功すれば、まず晩年は不幸になる。
歳をとって力を失ったときには、誰もそばにはいない。
「人を利用しようとする人」は、あなたに利用価値がなくなれば、すぐに「さようなら」である。
「いくらなんでもそれはないだろう」とと思うが、その時にはもう遅い。
気が付いた時には遅すぎるのである。
孤独のうちに死んでいったある高齢者の日記である。
「死ぬ前に見えないものが見えてきた」と書いてある。
彼は死ぬ前に周囲の人が見えてきた。
しかし、その時にはもう遅い。
力のあるときには酷い人がまわりに集まる。
愛されないで育った人は、それに気が付かないで必死に成功しようとする努力する。
幼児的願望が満たされていない人は、成功したいから案外努力する。
しかし、不幸になるために努力しているとは気が付かない。
愛されなかった人は、自分の今までの人生を「それはそれでよい」と認めて、次に、
「今、自分は本当の人間関係を気付ける時なのだ」と気が付くことである。
神経症者はいつも社会的に偉くなろうとする。
それで苦しむし、それで人間関係を間違える。
その結果、人生を間違える。
対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、自分の今までの人生を「それはそれでよい」と認めて、次に、
「今、自分は本当の人間関係を気付ける時なのだ」と気が付くことである。
”ずるい人にだまされない”
愛があれば、床の上に寝ても幸せである。
ぐっすりと眠れる。
リラックスできる。
愛がなければ、豪華な部屋の高級ベッドに寝ていても不幸だある。
ジョージ・ウェインバーグの本に、「名声を求めている人は、愛を求めているのだ」という文章がある。
その通りである。
しかし、それでは不幸な死に方をする。
幼児的願望が満たされていない人は、ずるい人の言葉に心を癒される。
ずるい人は相手を利用しようとするから、傷ついた心を癒すことを言う。
愛されていない人は、ここで友達を間違える。
お互いに歩いていて、「たいへんだねー」はよい。
そうではない、口先だけの無責任な「たいへんだねー」は同情ではない。
口が上手な相手は危険である。
過剰に哀れみの感情を示すのは、相手の心の傷を癒して利用しようとしているときである。
しかし、愛されていない人は、それをいい人と思う。
欲張りの人も、今を癒してくれる人を好きになる。
自分の命を守ってくれる人を求めない。
愛されていない人は、自分の命の大切さを知らない。
幼児的願望が満たされていない人は、「したいことはしてはいけないこと」だった。
幼児的願望が満たされていない人の社会的適応とは、そうした適応だった。
何かを達成することよりも、人のお気に入りになるために使うエネルギーの方が大きい、ということに気が付かないで生きてきた。
幼児的願望が満たされていない人は、ものすごいエネルギーを使って生きてきた。
そのために今は消耗してしまっている。
もうエネルギーがなくなっている。
愛されていなかった人も、友達を選ぶときに友達を間違える。
あなたがもし自分は愛されていないと認めるのなら、人間関係に気をつけてください。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、ずるい人を見抜き付き合いを止めることである。
”よい友達ができるまでは書物を友とする”
子育ての原点は、「この人、変だなー」と感じる能力を養うことである。
愛されていなかった人はお世辞に弱い。
幼いこれから使い走りに使われる。
「人を利用しようとする人」の口車に乗せられて、そんな役割を引き受けさせられる。
策略のある人は言葉が甘い。
蜜が見える。
しかし、ふと漏らす言葉が凄い。
ある子供が、「へんなことばをつかうひとのまわりにいると、よいことないんだよね」と言った。
愛されて育った人である。
何となくこの人は危険だと気が付くのである。
動物を観察することである。
動物は「あれは危険な動物」と感じるとすぐに逃げる。
もしあなたが、自分は愛されなかったと認めるなら、友達に気をつけることである。
愛されなかった人は、人間関係に気を付けてください。
悩んでいる人は、友達関係が悪い。
学生を見ても「この学生は変な顔になったなー」と思った時には、だいたい友達が悪い。
やさしさを利用される。使い走りとして仕えさせられる。
ところが、使い走りをさせられている人は、「利用されていること」を「愛されている」と錯覚する。
愛されていないから、利用されていることを、認められていると錯覚して喜ぶ。
その人が才能があっても、すべて相手にとられる。
自分は幼児的願望が満たされていないと気が付いた時には、まずまわりの友達の環境を考えること。
もし望ましい友達がいなければ、良い友達ができるまでは書物を友達とすることである。
愛されていないと気が付いた時に自分を変えるのが、人間の知恵である。
自分は今まで人に気に入られるために、したいことをしてこなかった。しかし、もし、したいことをして生きていれば、幼児期に幼児的願望が満たされなくても、今の自分とは違った人間になっていたのである。
愛されなくても、もっと気楽に生きていれば、神経症者にはならなかった。
だから対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、気楽にいきられなかった自分の性質を認めることである。
それが、自分の運命を受け容れるということである。