引きこもりの人は長年にわたり自分でない自分を生きてきた
引きこもりとは、他人の批判を恐れ、仕事が出来ない、家から出れない、部屋から出れなくなった人のことである。
そういった人は怒りを内に秘めていて、発散できないで無気力になってしまうケースも多くある。
そこで引きこもりを克服する心理を述べてみたい。
存在感喪失症状という症状がある
引きこもりの人は何をしていてもそれをしているという実感が湧かない。
その人と話していても、その人と話しているという気がしない。
おそらく原因は二つある。
一つは長年にわたって自分でない自分を生きてきた
引きこもりの人は本当はライオンなのにネコとして生きてきた。
モグラなのにアリとして生きてきた。
そうなれば引きこもりの人は何をしてもそれをしているという実感はないのが当たり前であろう。
次は、小さい頃から言語的表現と非言語的表現が、矛盾して生きてきたからである
引きこもりの人は不幸なときにそれを幸せと思い込まされて生きてきた。
その矛盾の中で感情鈍化が起きた。
そして最後には引きこもりの人は実感を失った。
感情として幸せを知らないからではあるが、頭と想像では幸せを知っている。
言葉では引きこもりの人は幸せを知っている。
自分でない自分で長いこと生きてきた。
その結果いまの自分の立場に自分はふさわしくないという感覚を引きこもりの人は持っている。
それで彼らに自分に誇りを持てと言っても無理である。
関連記事>>人付き合いが怖いを克服する方法
引きこもりのネガティブ・ナルシシズム
ナルシシズムの裏返しとしてのネガティブ・ナルシシズム
引きこもりの人は本質的にネガティブ・ナルシシズムである。
つまりナルシシズムが自分のものであるがゆえに素晴らしいと感じるのに対して、自分のものであるがゆえに悪いという感じ方である。
アブラハムはネガティブナルシシズムという名前でナルシシズムを分類した。
特に鬱状態で現れ、物足りなさ、非現実的および自虐的な感情を特徴とするという。
あるいはひどい自責の傾向もネガティブ・ナルシシズムであろう。
基本的に引きこもりの人は自信がない。
ナルシシズムの現れ方によって自己陶酔にもなり、偽名現象にもなる。
まったく自信喪失した引きこもりの人と自己陶酔は現象としては正反対であるが心理的には同じである。
サディズムとマゾヒズムが現象としては正反対であるが、心理的には同じ無力感という心理の表現であるのと同じである
ナルシストの引きこもりの人は自己陶酔していても基本的に自信がない。
心の底では絶望している。
引きこもりの人はすべてのことに普通の人以上に自信がない。
ナルシシズムがネガティブ・ナルシシズムとなって表現されれば、それは自信のなさである。
おそらく自己陶酔を固く禁じられた過去を引きこもりの人は持っているのである。
彼は「あなたは愚かだ」というメッセージを小さい頃から与え続けられ、そう信じ込んだ。
幼児期のナルシシズムの心理を持ったままで、その逆の「自分はダメな人間」と思い込まされた。
そこでネガティブ・ナルシシズムとなった。
さらに自分でない自分を引きこもりの人は長年にわたって生きてきた。
自分はカメなのにウサギをして生きてきた
そして皆は自分をウサギと思っている。
社会はその人をウサギとして扱う。
しかし引きこもりの人はウサギとしての自信はない。
どんなにウサギとして扱われてもウサギとして自信がないのは当たり前である。
引きこもりで苦しんでいる人は、その人が「自分は優れている」と思っては困る人が周囲にいたのである。
Aという人に恩を着せようとする人がAという人を「愚か」と思い込ませたのである。
恩を着せられる側は、自分を無価値な人間と思わなければならない。
恩を着せられるとは、「自分は人に迷惑をかけながらでないと生きていけない人間である」と思い込まされるということである。
引きこもりに苦しむ人の自己イメージは、そうしてでき上った自己イメージである。
恩着せがましい親が子どもに対して自分の価値を売り込んだらどうなるか
父親は「俺はおまえのためにこんなに苦労して働いている、それはおまえが劣っているからだ」と子どもに訴えることで、自分の重要性を子どもに植え付ける。
「おまえは迷惑な存在だ」と子どもに思い込ませることで、親は自分の価値を子どもに売り込める。
そして親のほうは自己無価値感を克服できる。
「おまえは俺がいるお陰で生きていかれる、おまえを育てるのに俺がどれほど苦労をしているか・・・」などなどを小さい頃に叩き込む。
それによって親は子どもから特別の感謝を要求し、無価値感に苦しむ自分の心を慰めることができる。
すなわち心に毒を盛る親である。
引きこもりの人が心に毒を盛る人に出会ったら
何を言われても聞き流す。
引きこもりの人が世俗で生きていく以上、「会いたくない」と言っても心に毒を盛る人と接しないということはできない。
夏に林の中を歩けば、蚊に刺される。
引きこもりの人にとって大切なことはとにかくそういう人を、「心の中で断ち切る」ことである。
聞いているふりをして聞いていない。
そして引きこもりを克服しようとする人がもし心の動揺を感じたら「あんな人の言うことで、自分はこんなに心が乱されるのだ」と自分の情緒的未成熟を反省する。
心に毒を盛る人の言葉で心に傷を感じたら、引きこもりの人は自分の依存心の強さを反省する。
「あんな人の言うこと」というところから注意をそらしてはいけない。
こちらが不愉快になるのを見ることで、心に毒を盛る彼らは劣等感を癒しているのである。
現実に生きているとこういう毒を盛る人を避けられないことが多い
親も含めてである。
そういう場合には引きこもりから克服しようとする人は心で断ち切らないと、苦しむことで生きるエネルギーを使ってしまう。
自分のない人、自我の確立がない引きこもりの人はついつい毒を盛る人に感情を振り回される。
自我の確立とは、心で人を断ち切ることができることである。
引きこもりを克服するうえで、世俗の世界では、毒を盛る人はたくさんいる。
相手に屈辱感を感じさせて、自分の心を癒している人たちである。
そういう人に会いたくなくても会わないではいられない。
そこで毒を盛る人と実際に会って何を言われても心が動揺したり、気が沈んだりしないようになるためには、その人を心で断ち切るしかない。
引きこもりの人は毒を盛る人にまで愛されようとする
毒を盛る人と正反対の人は、人を励ます人である。
毒を盛る人と、人を励ます人を見分けることが引きこもりを克服するうえで決定的に重要なことである。
それを「同じ友達というカテゴリー」で考えてしまう引きこもりを克服しようとする人が結構いる。
同級生とか、昔からの知人とか、家族とかいろいろなカテゴリーがある。
愛という仮面を被ったサディストと、本当に誠実な愛の人とを同じ「友人というカテゴリー」で考えている引きこもりを克服しようとする人がいる。
昔、大学受験の名門予備校があった。
予備校に入るのに試験がある。
自分が名門大学に入った心に毒をもる人は、浪人中の昔のクラスメイトに皆の前で「まさか予備校に落ちたんじゃないだろうな」というようなことを言う。
この毒を盛る人は相手が予備校に落ちたことを知っている。
この毒を盛る人を「友人というカテゴリー」でみていることの恐ろしさである。
それが引きこもりの人の悲劇である。
いじめられているのに友人と思う。
「相手のこころによって、こちらの態度を変える」、これは現実を生きていくための鉄則である。
毒を盛る人にまで引きこもりの人は愛されようとしていい顔をする。
不誠実な人に「尽くす」
自己実現している人は優れた現実認識があるとマズローは言う。
心に毒を盛る人に目をつけられる引きこもりの人はそのような優れた現実認識をしない。
優れた現実認識がない。
引きこもりの人は相手がどのような人かの正しい判断ができない。
「カテゴリーで考えるな」ということは引きこもりの人も含めすべての生産的構えの人に当てはまる重要な原則である。
シーベリーは「血縁につけ込まれるな」ということを言っている。
「兄弟なのだから」とか「親子なのに」とかいうことで不当な責任を負わされる。
抗議できない
引きこもりの人は「血縁につけ込まれて」何か親切をする。
しかしそれは親切をしたのではない。
脅しに引きこもりの人は屈しただけである。
それは感情的恐喝である。
「友達なのに」という言い方も同じ感情的恐喝である。
ではその人たちが、こちらが困ったときに何かをしてくれるかと考えてみれば分かる。
彼らはこちらが困ったときには絶対に助けてくれない。
本当に助けてくれるような人は、感情的恐喝をしない。
完全主義の引きこもりの人
完全主義とは完全でなければいきていけないという弱さである。
耐震構造になっていない建物は、少しの地震で倒れる。
そのように引きこもりの完全主義の人は少しの打撃でも心が壊れる。
完全主義の人は、人を愛する素晴らしい人に囲まれていないと生きていけない。
しかし現実の世界にはいろいろな人がいる。
誠実で情緒的に成熟した人もいれば、情緒的に未成熟で人を妬んでいる人もいる。
妬んでいる人は、相手をなんとかして惨めな気持ちにできないかと必死である。
それが心に毒を盛ると言われる人であり、相手の心に毒を盛るひとである
完全主義の引きこもりを克服しようとする人は毒を盛る人の、ちょっとした言葉で心が破壊される。
毒を盛る人の一言で一日中不愉快な気持ちを抜けきれない。
この毒を盛る人の餌食になる引きこもりの人は敵意を抑圧していることが多い。
人からいい人と思われるために敵意を抑圧する。
敵意を抑圧した結果として引きこもりの人は闘う能力を喪失する。
心に毒を盛る人の餌食になるのは闘う能力を喪失している証拠である。
「抑圧された敵意は、人から現実の危険を認め、これに対して闘う能力を奪ってしまう」
引きこもりの人は闘うことが怖くなる。
戦えないのは、対象無差別に愛されたいからである。
自分の意見は引きこもりの人は言えない。
不当な扱いに抗議できない。
嫌いな人を引きこもりの人は捨てられない。
決断ができない
自分をいじめる人にも愛されたい。
じぶんを裏切った人にも引きこもりの人は愛されたい。
虐待を許すのと、嫌われるのが怖いとは同じことである。
悲劇は毒を盛る人にさえいい顔をすることである。
毒を盛る人の餌食になるのは、引きこもり人である。
引きこもりの人は「つまらない人間」と感じる
論語に「賢なるかな回や、いったんの食、一瓢の飲、陋巷にあり。
人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず」
というのがある。
回とは顔回のことであり、この環境にあっても道を学ぶ楽しさを忘れない顔回を褒めた言葉である。
「陋巷」にありとは狭い路地の裏に住んでいるということだそうである。
いったんの食とは解説書によると竹の弁当箱一杯のご飯であり、一瓢の飲とはひさごのお茶碗一杯の飲み物である。
普通の人ならそのような環境で憂鬱や引きこもりになってしまうが、顔回は楽しく学んでいるという。
こうして学んでいる人はじつは最もストレスが少ないのではなかろうか。
ストレスが少ないから疲れもない
引きこもりの人は優越コンプレックスさえなければ顔回のように生きることは何でもなくできる。
そして最も楽しい、かつ楽な生き方なのである。
つまり顔回は引きこもりの人のように自分のことをつまらない人間だとは思っていない。
それだけのことなのである。
自分のことをつまらない人間と感じていないというただそれだけのことで引きこもりの人の人生はまるで違ってくる。
それだけで引きこもりの人は生きやすくなる。
よく真に尊敬されている人を見ると、それほどつらい体験をしていないのではないかと思われるときがある。
「あれだけの立場になりながら、驕っていない、努力を続けている」などである。
驕っていないのは単に引きこもりの人のように自分をつまらない人間とは思っていないというだけの話である。
むしろ嫌われている人のほうがつらい努力をしている。
ヒルティーが高貴でないものとしてまずあげているのが虚栄である
大言壮語とかというものは愚かといっている。
それは「自分自身について大いに語ること、なかんずく自分の業績や善行を誇ることは、まったく高貴というもおろかなことである。
自分の善行を自慢するというのは、大抵の場合、世間の評判をかち得るだけの資格をほとんど欠いていることの証明にすぎない」。
しかし実際は虚栄心を持っている人が最も苦しんでいるのではなかろうか。
引きこもりの人は、自己主張ができない。
自我の基盤の脆弱性、これが引きこもりの人の核心にあるものである。
どうしても当然主張してよいことを主張できない。
自分の正当な利益を引きこもりの人は守れない。
そこまで「他人に気に入られたい」ということである。
これはもはや病気である。
まず自分は病気であるという意識が必要である。
この病気は治る
引きこもりの人は「いま、自分の周りにいる人が全部いなくなってもよい」と覚悟を決めれば、病気は治る。
じつは周りにいるひとが全部いなくなれば、引きこもりの人は地獄が天国に変わるのである。
Positive Noを言って、いまの人間関係が変われば、地獄が天国に変わる。
関連記事
Positive Noを言えない引きこもりの人
「もう一軒行こう」としつこく誘われて、仕方なく「もう一軒」つきあう。
極端な例で言えば過労死するタイプである。
疲れ切って帰りたいのに、イヤイヤながら付き合う人である。
つまり押し付けられる人である。
従順で、静かで、慎重で自信がない
いい人である。
断わりたいのになかなか断れない。
引きこもりの人はPositive Noが言えない人である。
自分を守れない人である。
「押しつけられタイプ」の引きこもりの人はどうしても「押しつけタイプ」に舐められてしまう。
ただ両方とも楽しくはない。
ただ「押しつけタイプ」と「押しつけられタイプ」が酒場でクダクダと愚痴を言っているだけでは仲良くはならない
本当に楽しむタイプは「押しつけタイプ」のようにさそわなくても皆が集まる人たちである。
「断りなさい」と言っても、そういう引きこもりの人は断れない。
引きこもりの人はPositive Noが言えない。
つまり誘われて断れないということは、「何を言われても言い返せない」ということの一歩手前である。
断れないという引きこもりの人は、「自分はいじめられるタイプだな」という自覚を持ったほうがいいだろう。
断れないことのなかに「ふりまわされる、押される、不愉快なことをさせられる」などというのがある
「押しつけられタイプ」の引きこもりの人はまさに「ふりまわされている」のである。
人から押されているのである。
引きこもりの人は自分がしたくないことを押しつけられているのである。
Positive Noではなく、Negative Yesである。
Negative Yesが引きこもりの人の特徴である。
これは迎合である。
神経症的非利己主義である。
皆嫌いだけれども、皆と仲がいい。
Positive Noを言えない子ども
子どもでもPositive Noが言えない子どもは引きこもりになることがある。
相手にPositive Noと言えない子も人間関係が分かっていない。
どんどん取られる引きこもりの子がいる。
ずるい人に眼をつけられる。
人からカモにされる。
いいカモになる。
ずるい人に眼をつけられる。
「相手にPositive Noと言えない引きこもりの子」は依存心が強い。
責任転嫁をする。
責任のある人は周りからいなくなる
心理的に病んでいる引きこもりの人が病んでいる人と結びつく。
ある気の弱い子である。
友達のゲームを壊した。
相手の言うことに不満があるのに「僕が悪い、僕が悪い」と言う。
搾取タイプの子のほうは「すぐに弁償をしてくれ」と迫る。
Positive Noを言えない子は「君にも悪いところがあるよ」と言えない。
「僕のお父さん怖いから、きちんと話をしないと怒られるので」と「言え」と言っても分からない
「お父さん怖い」と言うとお父さんの悪口を言っていると思ってしまう。
搾取タイプと非搾取タイプの人間関係が出来上がるとなかなか関係は壊れない。
取られるほうはどんどん取られる。
Positive Noを言えない子は大人になったときには、搾取タイプに囲まれて引きこもりになる。
Positive Noが言えるか言えないかが、幸せになれるかなれないかの分岐点である。
幸せになれない人、引きこもりの人は、Noというべきところで、Yesと言ってしまう。
Noを言ってもすべては終わらない
引きこもりの人の基本的な間違いは、ひとたびNoと言うと、関係が終わると思っていることである。
マイナスの感情を表に表すと、それですべてが終わりになるというような恐怖と不安を引きこもりの人は持っている。
怒りを表現した途端、それで相手との関係が終わるような不安と恐怖を持っている。
逆に相手の言いなりになっていれば、なんとかなると引きこもりの人は期待していることである。
相手との関係が終わることを恐れて、あるいは相手との対立することが恐くて、引きこもりの人はNoと言えないでいるうちにコミュニケーション能力を失ってしまう。
皆無理をしている。
その無理の結果、引きこもりの人は人間嫌いになる。
その無理な努力の結果、引きこもりの人はすべての人に怒りを感じるようになる。
すべての人に怒りを感じていることに本人は気が付いていない
表現されないからといって引きこもりの人の怒りの感情そのものが消えるわけではない。
怒りの感情や恨みの感情や敵意を忘れられるわけではない。
むしろそのような引きこもりの人の怒りや敵意や恨みの感情はそれをすぐに表現してしまう人よりももっともっと根が深いものである。
なかなかその引きこもりの人のその感情は心の中で処理されないで、くすぶり続ける。
いつまでも、いつまでもくすぶり続ける。
引きこもりの人の真の解決はPositive Noである。