心の触れ合いがある関係、心の触れ合いがない関係

喜ばせることで相手を操作する「共依存」の関係

とにかく不幸な人生の主要な原因の一つは、悪い人間関係である。

悪い人間関係とはいろいろと説明できるが、とにかく不安からの迎合とか、攻撃性の反動形成としての親切等々である。
表面的に現れているのと、その裏に隠されている本質的なものとが全く反対である。

投影的自我同一化、相互欺瞞としての共依存、お互いに相手に飲み込まれているし、逆に他者を巻き込むことで自己救済している。

共生的相互依存、相手を喜ばすことで相手を操作している。
相手からの注目が欲しくて相手を喜ばそうとしている。

「プロクルステスの寝台」と言われるようなものである。
プロクルステスの寝台とは、ギリシャ神話に出てくる話であるが、旅人をただで泊めてあげる。

旅人を無料で宿泊させてあげる。
しかし寝台よりその人が長ければ切って殺してしまうし、寝台より短ければ伸ばして殺してしまう。

悪い人間関係では、その関係は自律性の犠牲の上に成り立っている。

プロクルステスの寝台のようなことをする場合、無料で泊めてあげたほうは、「してあげた」と思っているかもしれない。
相手が感謝しなければ報われない努力と嘆くかもしれない。
しかし報われない努力どころか、有害な努力である。

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「相手に合わせる」関係に心のふれあいはない

離婚の原因で、よく性格の不一致というのが言われる。
しかし現実には性格の不一致などはほとんどない。

原因はほとんど配偶者お互いの心理的成長の挫折である。
お互いに自我同一性が確立していないので、お互いに心の拠り所がない。

本当の触れ合いとは。

触れ合っている人は、言いづらいことが少ない。
喧嘩をしても別れの不安がない。
相手に無理して合わせる必要がない。
断るときに不安がない。

両者の相互性は支配と被支配の関係ではない。

心が病んでいる人にとっては、不健康な人間関係のほうが楽である。
心理的に楽であるというのは、成長欲求と退行欲求の葛藤の中で退行欲求に従って生きていればいいという意味である。

大人になっても、心理的には大きくなった幼児でいられる。

アルコール依存症の人と離婚した女性が、またアルコール依存症の人と再婚するみたいなものである。

心理的成長は生きている意味を感じるかもしれないが、エネルギーが必要だし、負担は大きい。
リスクもある。
だから勇気も必要である。

本当の自立は相手とかかわっている。
心理的に触れ合っている。

母親から手をかけられていない子は、遊ぶ相手として無表情な子を選ぶ。

若者になっても、自分が心理的にかかわらないままですむ人を遊び相手に選ぶ。
だから会話がない。
相手が泣いてもいい。

人と気持ちがかかわることが何となく不快である。
気が重い。
とにかく居心地が悪い。

よく結婚して、「相手がガラッと変わった」と言うが、そうではない。
結婚して、相手の本質が表現されてきたということである。

コントロール能力のない人は、人と心がかかわりあわないで一緒にいるというのがよい。
それが心理的に悪い人間関係である。
不健康な人間関係である。

母親からかかわられていないので、人とかかわるとどうしてよいか分からない。
だからかかわらない。
かかわりたくない。

かかわると気が重いのである。

学生でいえば「大教室がいい」という学生である。

小さい教室では教授とも、他の学生ともかかわってしまうから居心地が悪い。
ゼミのように少人数だとふれあう可能性があるので居心地が悪い。
むしろ事務的なかかわりがよい。

うつ病になりやすい執着性格者などが上司と部下という役割的人間関係のほうが居心地がいいというのはこのためである。
心の入る余地がない。
機械的関係である。

飲みに行くときも上司と部下という役割的人間関係で、飲むほうが居心地がいい。

他者の自己化である。
他者はいるが、それは心を持った固有の人間ではない。
相手は人間ロボットである。

心理的に病んだ親が、子どもを通して生きている。
難しく言えば、投影的自我同一化で、自分の思うように子どもを支配している。
支配できなければ怒りになる。

言うことを聞かなければ、「これをしないなら、おまえがダメになる」と子どもを脅す。

一旦は同一化した相手から分離、その相手との間に対象関係をもてるようになり、相手が自我同一性の一部に取り入れられる。

同一化と分離、個別化という二段階が要素。

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「心の支え」になる人はいますか

幸せな人の共通性。
よい人間関係、健康な人間関係は、お互いに適切な目的を持っている。
よい人間関係は、お互いに責任感があるから負担は重いが、心のつながりがある。

人間関係は、成長欲求にもとづく関係か、退行欲求にもとづく関係かである。

自分の今の人間関係が、よい人間関係か、悪い人間関係かは結果で分かる。

かかわりが人生の思い出にならない。

同じ職場で毎日のように会っていても、職場をやめれば、もう「ああ、あいつと会いたいな」とは思わない。

「そういえばあいつは、こんなことを言っていたな」という懐かしい思い出はない。

つまり悪い人間関係ではコミュニケーション能力の喪失が起きている。
生きている意味の喪失が起きている。

人間関係がお互いの自律性の犠牲の上に成り立っている。

職場が同じというような人ではなく、あまり会っていない人で、しかももう何年も会っていない。

それでも折にふれて、「ああ、あいつ、どうしているかな」とことあるごとに思い出す。
自分の青春は「あいつなしに考えられない」と思い出す。

いつも会っている友人ではなかったが、何十年たっても、その人が心の支えになってくれている。
「あいつは、俺のことを友達と思ってくれていた」、それが心の支えになる。
「あいつは、俺のことを”我が友”と言ってくれていた」、それが長い人生で心の支えになる。

「専横な母親において直面する、愛情の欠如の結果として、子どもは早くから、愛情をもとめる強迫的欲求を発動させ、それは一生残って、彼を不安定にし、他の人々を依存的にする」

悪い人間関係では、自己実現がなくて、他人の評価が重要になる。
生命的重要性とカレン・ホルナイは言う。

重要といっても心の支えという意味ではない。

「本来の自分」を犠牲にして、演技をしてよく思われることが重要という意味である。

心の底では不満でありながらも、表面的には離れない人間関係である。

最後は、自分が誰ともつながっていないということを感じたときには「もうどうにもできない」とうめきになる。

まさにその人との関係では、我慢をしながらも何も報われない努力になる