今から自分のことは自分が決める
「負のメッセージ」に気づく
会社を辞めたいと母親に告げた人がいました。
母親は、
私が、どんなに苦労してあなたをここまで育てたと思ってるのよ。少しは頑張ろうと思わないの?それが親への恩返しじゃないの」
あなたが息子の立場として、母親にこんなふうに言われると、どんな気持ちになるでしょう。
「自分が悪い。私はダメだ。能力がない」などと、自分を責めてしまいませんか。
あるいは、「親の苦労や親への恩返し」を虜って”親の愛情に報いなければならない”と考えたら、それができない自分自身に、あなたは罪悪感でいっぱいになるでしょう。
自分に対しても相手に対しても、どっちに転んでも、あなたは、自分を責め続けるでしょう。
このように、相手を同情や罪悪感で支配しようとする関係を、自分中心心理学では、「同情の支配」と呼んでいます。
自分の「したい」は誰にも止めることはできない
こうした悩みは、一見「けなげな息子、親孝行な娘」っぽいですね。
でもそれで、あなた自身が苦しいとしたら、それは適切なことでしょうか。
「心地よい心理的距離感覚」を基準にすれば、これはちょっと違うようです。
「親を心配させたくないので、会社を辞めることができない」
これを、「自分がしたい、したくない」で心から自由に決めてもいいなら、いったいどうなるでしょう。
まずこれは、具体的に何が問題となっているでしょうか。
それは、「会社を辞めるかどうか」です。
それを選択するのは誰でしょう。もちろん”自分”ですね。
ですから、「会社を辞めるかどうかは、私の自由」となります。
親が心配しても、自分が辞めたいなら辞めてもいい、ということです。
「でも、辞める自由があるんだったら、辞めない自由もあるんだから、親のために辞めなくても、それは本人の自由じゃないですか」
これは屁理屈です。
もちろん「辞めない自由」もあります。
重要なのは、あなた自身が「その選択を心から認めているかどうか」です。
心から「辞めない」を自分が認めているのなら、「私も辞めたくない。親も辞めてもらいたくない」。
どちらも意見が一致してハッピーハッピーで、悩むことはないでしょう。
ただ、いずれにしても「相手との心理的距離間隔」が近すぎると、「自分がこれをしたい。だから、これをする」あるいは、「自分はこれをしたくない。だから、これをしない」といった「自分の心の自由とその意志」が阻害されていきます。
これが問題なのです。
迷ったときは「自分の心」に聞いてみる
「じゃあ、親が子どものことを心配したり、子どもが親に心配をかけまいとするのは、間違っているって言うんですか」
そうではありません。
それが「愛情」からの心配なのか。「同情の支配」からの心配なのか。
大まかな目安で言えば、愛情からの心配に乗った選択であれば、あなた自身が肯定的な気持ちになるでしょう。
「同情の支配」に乗った選択の場合、否定的な気持ちになりがちです。
本来、子どもが「自分が会社を辞めるかどうかは、自分の自由」だと認め、親も「子どもが会社を辞めるかどうかは、子供の自由」と認めると、親と子の心理的距離間隔が、適切になります。
この心理的距離感覚を知っている親だったら、「お前が試してみたいことがあったら、応援するよ」「何かあったら、いつでも相談に乗るからな」「急ぐことはないんだよ。ときには、ゆっくりする時間も必要だよ」
などと、子供を認める言葉かけを”したくなる”でしょう。
親がそんな対応をすれば、子供のあなたも、自分の選択と決断に誇りと自信を持って、自分の道を進むことができます。
仮にあなたが”失意”で仕事を辞める選択をしたとしても、あなたは、自分のその決断を認められるでしょう。
”後悔しない”とは言いませんが、後悔よりも、自分の心に添った決断のほうを高く評価することができるでしょう。
このように、「自分がしたい、したくない」で問題を捉え直すと、相手と自分の本当の心理的距離間隔が見えてきます。
相手が近づいてきたとき、それが愛なのか、「同情の支配」なのかを知る基準とも言えるのです。
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ときには自分を守る強さは必要
「自分を守る」ために相手と心理的距離を取る
前者の「息子と母親の会話」との違いを実感してみてください。
あなたが息子の立場として、母親とこんな「・・・」の会話をしているとき、心地よい心理的距離感覚を覚えているはずです。
前者は反対に、居心地の悪さを感じずにはいられません。
まるで、母親にドアを蹴破って土足で踏み込まれたような気分になるでしょう。
それは、母親があなたの安全な心理的距離間隔を侵しているからです。
あなたが感じる「心理的距離感覚」を基準にするとしたら、どちらが適切だと思いますか。
前者で感じたあなたの罪悪感は、果たして正当だったでしょうか。
このように、あなたから知らず知らずのうちに相手に近づいていくだけでなく、相手が近づいてきてあなたを傷つけている場合も少なくありません。
そんなときは、相手から「自分を守る」ことが不可欠なのです。
あなたが苦しみ悩んでいるのであれば、仮に、どんなに相手が悪くてもまちがっていても、居心地の悪い心理的距離感覚を覚えながらそこに居るのはあなた自身です。
こんなときは、あなたが、そこから離れようとしない限りは何も変わらないでしょう。
相手が悪くても、誰かがあなたを満足させてくれるわけではありません。
仮に誰かがあなたの問題を解決してくれてあなたが満足を得たとしても、「永久に安全の保証を得た」というわけではありません。
そんな保証を相手に求めてしがみつくより、あなたが自分を守るスキルを身につけて、あなたが相手から自由になるほうが早道なのです。
相手から自立する心地よさを実感する
このように「私を守る」という視点は、実は、「私の自立」にも通じるものです。
それは、こういうことです。
たとえばあなたが、これまで、子供や夫が朝、起きるとき、毎朝毎朝、起きるまで声をかけていました。
あなたは今日から「一切、朝、起こさない」と決めたとします。
これはまず、「私の自立」です。
本来、自分のことは「自分でする」あるいは「しない」。
朝、起きるかどうかも、まったく本人の”自由”です。
もちろん、その責任も本人に帰します。
こうして、あなたが相手から自立すれば、今度は相手もあなたから自立せざるを得なくなるでしょう。
つまり、あなたが自立することが、結果として、相手の自立を促すことになるのです。
これは、先の母と息子のやりとりでも同じです。
母親は、息子の自由を認め、息子の決断を尊重する。
息子は、自分のことは自分の意志で決断する。
お互いが相手を認め合って、きちんと自立しています。
言い換えると、あなたが心地よいと感じるときの、相手との心理的距離感覚は、実は、「精神的に自立しているときの心地よさ」だったのです。
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心地よい心理的距離感は自立のきっかけ
「後ろめたさ」に引きずられてしまうと
ある人は、出かける間際になってお腹を壊し、留守番することになってしまいました。
相手はどうして、体調を崩してまであなたを引き留めたくなるのでしょうか。
相手の立場に立ってみると、よくわかります。
あなたと相手は、居心地の悪い心理的距離感覚を抱きながらも、くっついていなければ安心できないほどに依存し合っています。
とりわけ、あなたが相手の世話を一身に引き受けているとしたら、相手はあなたなしには生きていけないでしょう。
もしかしたら、この日を境にあなたが、自分から離れていってしまうかもしれないのです。
そんな思いが顕在意識で自覚している以上に深ければ、どんな手を使ってでも阻止したくなるでしょう。
こんなふうに「自分と相手」との心理的距離が近すぎると、「心から、楽しんできてほしい」とあなたの幸せを願う気持ちもありながら、他方で、自分が置いてきぼりにされる寂しさや見捨てられる不安や恐れを強く抱いてしまうのです。
依存し合う関係から抜け出すことができない
あなたは「えっ?たったこれぐらいで」と思うかもしれません。
でも、どうでしょうか。
いつもあなたは、自分のしたいことを後回しにしてでも、相手の面倒を見ているとします。
相手は、あなたにやってもらうことで、動かなくて済みます。
確かに相手は、あなたにやってもらうことで「得します」。
ところが、心の中では違うのです。
相手は物質的物理的には「得する」でしょうが、まるで反比例するかのように、「自負心」を奪われていきます。
あなたが面倒を見れば見るほど、相手は、あなたに依存的になって、そのつど、無意識に自分の無力さを実感するのです。
相手を過剰に面倒見るというのは、「あなたはダメな人」というメッセージを送っていることになるからです。
そうすればするほど、相手は、あなたにすがっていなければ「生きていけない」ような心境に陥っていくのです。
一方的に世話を焼いているあなたは、相手のことで忙しくなります。
ほんとうは、あなたも、「面倒を見る」というやり方で、相手に依存しています。
「えっ?お互いに依存しているんですか」
ええ、そうです。
「でも、私は、面倒見ているほうだから、依存はしていませんよ。むしろ、面倒を見なくてよくなったら、どんなにせいせいするだろうなって思います」
もしそれが事実だとしたら、あなたは、気持ちよく、出かけることができるでしょう。
でもあなたは、自分が出掛けることに罪悪感を覚えています。
人によっては、その罪悪感のせいで、出かけられないという人も少なくありません。
お互いに、居心地の悪い心理的距離感覚を感じながら、自立できないでいるのです。
こんな小さな場面から始めてみる
こんなとき、あなたが「自分の幸せのために出かける」のは、相手のためでもあります。
本来ならあなたが出掛けることは、心から自由です。
「私が出かけるのは、心から私の自由」になっていれば、あなたは、気持ちよく決断し、実際に行動できるでしょう。
こんな自由を、あなた自身が認められれば、相手に愛情を感じながら、心を込めてお願いすることができるでしょう。
こんな自由を、あなた自身が認められれば、相手に愛情を感じながら、心を込めてお願いすることができるでしょう。
「あなたには、不便をおかけします。でも私は、自分を大事にするために出かけたいんです。私にとって、とても貴重な時間なんです。この時間を、私は楽しみにしているんです。だから協力してください」
そうやって、あなたが丁寧に相手に協力を求める行為そのものが、相手に「あなたを信頼している。私にとってあなたは大切な人」というメッセージを送ることになります。
相手にとっては「信頼されている。頼りにされている」という自負心や満足感を満たすことになります。
さらにあなたが、自分のための時間を過ごして帰宅したときは、「留守番しててくれて、ありがとう。おかげで、とてもいい時間を過ごすことができました。ほんとうに、ありがとうございました」
といった、感謝の言葉かけも必要でしょう。
これは、あなた自身のためでもあります。
「ありがとう」で締めくくる。
そうすることで、今日の一日が完結します。
もしあなたの心の中に「家を空けて悪かったな」という罪悪感がよぎったとしても、あなたが「お礼を言う」ことで、あなたが、その罪悪感から解放されるのです。
もちろん、相手も「あなたに協力した」ことの報酬を「ありがとう」という愛の言葉で受け取ります。
こんなふうに、お互いが小さな場面で自立することで、相手との居心地の悪い心理的距離感覚が、心地よい心理的距離感覚となっていくのです。
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これは、本当に自分のせい?
「あなたのせいだよ」と怒る親友
ある職場で、「そんなにその人が気になるなら直接話し合ってみては。」
といったアドバイスをしました。
そのとき親友は「そうだね」と納得していました。
ところが、数日経って、親友が、ものすごい剣幕で電話をしてきました。
そして、こう言ったのです。
「あなたのせいで、私は、悪者扱いされてしまってるのよ。どうしてくれるのよ。あなたが話し合ったほうがいいって言ったから、そうしただけなのに、とんでもない騒ぎになってしまって、みんなから、私が非常識だって責められてるのよ」
自分の中のどこが悪かったのかな
彼女は親友が職場で窮地に立たされていると聞いて、責任を感じました。
彼女は、親友の勢いに圧倒されて、言葉を返すことができません。
彼女は、親友に頭をさげましたが、親友の怒りは収まりません。
このままでは、長年の友情にヒビが入り、いまにも絶交の勢いです。
「私が、あんなことを、言わなければよかったのだ。私が悪いんだ」と彼女は自分を責めたり、「でも、私のアドバイスが間違っていたとは思えない。私のどこが悪かったのだろうか」
などと反省したりします。
第一彼女は、職場の人と話し合うことが「大騒ぎになる」などとは、夢にも思っていませんでした。
自分の経験からすれば、率直に話し合えれば、誤解がとける。
少なくとも、「大騒ぎ」にはなりません。
もしそれが事実だとしたら、それは、話し合うのではなく、どちらかが、ケンカ腰だったのだろうと思いました。
客観的には、こちらのほうが事実に近いでしょう。
彼女は自分への戒めとして、「これからは、もっと言い方に注意しよう。『私だったら、きっと話し合うと思うよ。でも、どうするかは、あなたが自分で決めてね』と言うべきだったんだ。自分を守るために、相談事になったときは、『自分で決めてね』と必ず一言、付け加えるようにしよう」
そう思いました。
そして、彼女は自分の心を救うために、「それでも、大騒ぎになったのは、私のせいではない。私は私なりに、親友のために、精一杯、努力したんだ。親友とはこんな形になったけれども、私は自分の誠意と努力を認めてあげよう」
自分にそう言い聞かせるのでした。
でもなんだかスッキリしない
彼女は、実は、こんな肯定的な言葉で自分を立て直そうとしたものの、それでもまだ、スッキリしませんでした。
「スッキリしない」というのは、まだどこかに、彼女が見落としている「真のテーマ」があるということです。
彼女は自分の感情にそって、親友との場面、場面を追いながら自分の「心理的距離感覚」を感じてみました。
そのとき、ハタと気がつきました。
彼女の相談に乗っていたとき、あまりにも頻繁なので、携帯に親友の名前が表示されるのを見るだけで、どっと気分が重くなって、
「もうやめてー!」
と叫びたくなっている自分がいたのです。
これが「心理的距離感覚」です。
それでも彼女は、その息苦しい心理的距離感覚を無視して、「親友がなやんでいるんだから、相談に乗らなければならない」という義務感で自分を縛っていたのです。
親友のためにここまでしても、「私が悪かった」。これでいいのでしょうか。
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無用な罪悪感から自由になる
無理をして引き受けたとしても
相手との心理的距離間隔を縮めすぎて傷つけ合ってしまうのは、こんな”過剰な罪悪感”が関係していることも多いのです。
しかし、それでも彼女にとっては、「親友から相談されても、私にはそれを断る自由」があります。
しかもそれは、本来「罪悪感を感じることなしに自由」です。
この場合、「それは本来、親友の問題だ」と捉えると、どうなのでしょうか。
それを断ったとしても、それが本当に「罰を受けなければならない」ことなのでしょうか。
満足をしてもらえるとは限らない
あなたが「居心地の悪い心理的距離感覚」を覚えているときは、あなたが「自分を大事にしていない」何かが起こっています。
それを無視すると、どういったことが起こるでしょうか。
あなたは熱心に、親友の相談に乗っていました。
努力もしました。
けれども、それとは裏腹に、あなたの態度は、親友からすれば、満足できないものでした。
どうしてでしょうか。
もちろんこれは、親友の「受けとめ方」によっても異なってきます。
どんなにあなたが親身になったとしても、親友が、それを善意や愛情として受け止めることができなければ、親友は満足しないでしょう。
たとえば、会話の途中であなたがこう言ったとします。
「ねえ。いつもあなたは、人があなたに意地悪するって言うけど、あなただって、人に意地悪したことはないの?」
あなたがつい、こんな批判的な言葉を言ってしまうのは、あなた自身が、すでに親友からの電話をうけとめるのが困難になってきているからでした。
あなたは自覚していなくても、苛立っています。
親友は、その苛立ちをキャッチして、「自分を受けとめてもらっていない」と感じます。
そんなことが重なると、親友はその同僚だけでなく、あなたに対してもネガティブな感情を抱くようになっていきます。
親友はあなたの「話し合ったら?」という言葉に従うものの、あなたへの満たされない感情も加わって、それを同僚にぶつける、という結果になるのです。
そのときはもう、「親身に親友の相談に乗ってあげた」というあなたの善意など、吹っ飛んでしまっています。
断ることは相手を見捨てず育てるため
このように、自分の心理的距離感覚を無視して、無用の罪悪感で動くと、かえって、悪い結果を招きやすくなるのです。
そもそも、あなたにとっての課題はまさに罪悪感なのに、さらに輪に輪をかけて「私が悪かった」などと自分を責めるとしたら、愚の骨頂だと思いませんか。
もしあなたが自分の心理的距離感覚を信じていれば、早めに、こんな言い方で断っていたでしょう。
「あなたは親友だし好きだから、何とか、あなたの力になりたいって、心から思う。
だから、私は、自分なりに努力したと思っている。
でも、もうこれ以上、あなたの話を聞いていると、私が苦しくなって、電話に出たくなくなってしまいそうなんだ。
正直言うと、自分で動こうとしないあなたに、腹も立っている。悪いけど、私には、これ以上、どうすることもできない。
この件に関しては、私はもう、聞きたくないんだ」
このとき親友は、あなたの言葉によって、第三者に愚痴をこぼし続けることではなくて、「自分が同僚と向き合うことでしか解決しないのだ」と自覚するでしょう。
もちろんここで親友が、同僚に「ケンカを売る」か「自分の問題として向き合って話し合う」か、どちらを選択するのも親友の自由です。
あなたに責任はまったくありません。
決してあなたは、いきなり親友を見捨てたわけでありません。
あなたは自分の可能な範囲で、誠意をもって親友の相談に乗っています。
むしろあなたがそうやって、距離感覚を信じて自分を守ったほうが、結果として、親友も育つのです。