悪い報告はメールで済まさず直接に

「部下がちょっとした報告もメールでしてくる。

同じフロアにいるのだから声をかけてくれればいいのに」

こんな上司の嘆きを、あちこちで聞く。

もはや「社内メール」は当たり前の光景になっているようだ。

若いひとにとっては当たり前でも、上司によっては「そんなに俺と話すのがイヤなのか」と気分を悪くする場合もある。

または「きちんとこちらへ来て報告しないとは礼儀知らずだ」と評価を落とされることにもなる。

もちろん、社内メールにはそれなりの利点もある。

何といっても、大勢の人間に同じ内容を一斉に伝えられ、かつ記録が残るのがいい。

「明日の会議は10時からに変更になりました」というメールを全員に送っておけば、「聞いてないよ」ということは起きない。

何でもメールですませようとしたら、人間関係の距離を見失う結果にもなる。

世の中にはいろいろな考えの人がいる。

メールを便利だと思う人も、機械的で冷たいツールだと思う人もいる。

また、メールは会話よりもはるかに誤解を呼びやすいということを知っておくべきだ。

どんなに言葉を選んで丁寧に書いても、メールは一方的なもの。

書くほうも一方的に書くが、読む方も一方的に読む。

だから、書いた人が考えている通りには伝わらないことが少なくない。

たとえば、「いまの営業手法に改善の余地があると思いました」と、部下が前向きな報告をメールでしたとき、読んだ上司は「何だ、現状に不満なのか」と受け取るかもしれない。

それが会話上のことなら、誤解はすぐに解ける。

「何だ、これまでのやり方に文句でもあるのか?」

「いえ、そういうことではありません。すみません。言い方を間違えました」

そして、より伝わりやすい言葉を選びながら修正していける。

だが、メールではそうはいかない。

誤解によって離れてしまった距離を縮める機会が持てなくなる。

さらに問題なのが、メールの多くが「悪いことの報告」に使われていることだ。

目標の契約がとれなかったり、取引先からクレームをつけられたり、書類の提出期限を守れなかったりという話を、上司に報告するのは気が重い。

まして、忙しくしている上司のところにそんな話を持って行けば、不機嫌になるのは目に見えている。

だから、メールでそれとなく報告する。

しかし、これは逆効果となる。

「悪い報告ほど早く入れろ」というのはビジネスの鉄則だが、メールでは上司がいつそれを見るか分からない。

「自分はすぐさまメールを入れたが、上司がなかなか見なかった」というのは通らないのだ。

「どうして、こんな重要なことをすぐに報告しないんだ!」と怒鳴られることになるだろう。

その通りなのだ。

クレームなどのトラブルは、できるだけ早く報告するに限る。

トラブルを放っておいて、それが大きくなってからでは収拾がつかなくなることもあるからだ。

とにかく、いまイヤな思いをしても、上司のところまで行って口頭で報告するのが筋である。

とりあえずメールで逃げておいて、あとから問題を大きくしてしまうのか。

その選択を間違ってしまうと、出世にも影響する。

人と人との連絡を、「まずメール」から「まず会話」に順番を変えるべきだろう。

口で概要を伝えておいて、「間違いがないようにメールも送っておきます」というのが、いちばんいい。

ベネトンの創業者ルチアーノ・ベネトンは述べている。

「最強のビジネス組織を築き、最も創造的な仕事を生み出すのは、組織内部で働く者同士の尊敬と共感だとわかった」

結局のところ、人と人なのだ。

その人同士のコンタクトにパソコンという無機質な道具を挟んだときに、何かがズレてくるのではないだろうか。

過度なメール依存は、思いがけない行き違いを起こす

ある新聞に、「成功する人はメールに一定の距離感を持って対応している」という記事があった。

その距離感が保てないと、仕事に支障が出るのだという。

記録が残るメールは、たしかにビジネスにとって便利なツールだ。

あくまでも便利だから使っているのに、かえって不便を呼び寄せている人もいる。

「メール処理」という仕事を増やしているのだ。

一日に何度もメールをチェックして、そのたびに、すぐに対応する「即レス」をしていれば、仕事のかなりの時間をメール処理が占める。

ホリエモンこと堀江貴文氏は、即レスすることで有名だったが、それは彼の仕事にとって必要だったからだろう。

多くの人の場合、ホリエモンとは仕事のやり方が違うはずだ。

パソコンに向かってキーボードを叩いていれば仕事をしている気になるが、メールそのものが売り上げを立てるわけではない。

したがって、メールチェックをする回数や時間帯を決めておくべきだろう。

パソコンを開いてメールチェックをするのは、せいぜい1日2回がいいところだ。

仕事場についてすぐと、帰る前にチェックすれば、それで十分だと思っている。

そのままメールで返事をすることもあるが、たいていは電話をかけてしまう。

細かいニュアンスなどを伝えるときは、絶対に話をしたほうがいい。

また、打ち合わせの日程調整など、何度もメールでやり取りするよりは、直接話して擦り合わせたほうが断然早い。

人間関係で大事なのはキャッチボールだ。

人は、自分が投げたボールが返ってこなければ不安になる。

注意しないと、メールはその不安を増幅する。

まだ社会人になったばかりの男性が、取引先にアポを入れることになった。

自分自身がメール世代だし、取引先担当者に時間を取らせては失礼だと考えて電話はやめた。

いきなりの電話は、相手も緊張するのではないかという配慮もあったのだろう。

担当者の名刺を見ながらメールを送った。

自分は新入社員であることや、上司と一緒に訪問させてほしいことなどを丁寧に書き記した。

しかし、二日たっても返事が来ない。

不安な気持ちで待ち続けたが、返信が来ないので、結局、電話をすることにした。

すると、思いがけない返答だった。

どうやら、相手は長いメールに目を通したものの、ただの着任挨拶と勘違いしたようなのだ。

メールを送って返事を待っていた新入社員の「この二日間の不安は何だったのか」という話だ。

メールには、意外とこうした行き違いが多い。

つくらなくてもいい距離をつくってしまうのがメールといえる。

アメリカ大統領を務めたリンカーンも「会って直に話すのが、悪感情を一掃する最上の方法である」と述べている。

  • メールをあまり過大評価しない
  • メール処理に仕事時間を占領させない
  • 本当に大事なことをメールですませようとしない

このようなことを心得ている人なら、きっとメールの恩恵を受けるだろう。

自分で、しっかりとした「メール・ルール」をつくっておくことだ。

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一流の人間との付き合いで自分が磨かれる

仕事場に向かう前に、駅を降りてから、たいてい決まったカフェに立ち寄る。

毎朝だいたい同じ時間帯に行くから、何度も目にするお客がいる。

なかでも印象的だったのが、同年代のサラリーマンらしき二人連れだ。

一人はやせていて一人は小太り。

いつも仲良くコーヒーを飲みながら話しているので、見ていて微笑ましかった。

ところが異動でもあったのか、最近、小太りのほうがいなくなり、残された一人はいかにも寂しそうにしている。

この二人は、体型こそ違うが、ビジネスマンとしてのレベルは同じくらいだろうと想像している。

話している内容は聞こえなくても、雰囲気でわかる。

同年代を差し置いてどんどん出世していくようなタイプは、自分と同レベルの人間とはほどほどの付き合いに留める。

その分、「この人についていけば」と思える人間との距離を積極的に縮めていく。

そのさじ加減がうまい。

傍から見ると、「彼は優秀なのに、なぜあんなわがまま勝手な男に接近していくのかわからない」と不思議に思えることがある。

だが、しばらくすると、そのわがまま勝手な男もそれに近づいた男も、出世したりする。

そうしたことができるのが、一流と二流の違いなのかもしれない。

ビジネスの現場には、一流の人間、二流の人間、そして三流の人間がいる。

三流ではちょっと厳しいが、二流は一流になりえる。

だからみんな、いずれ一流になりたいと望む。

そして、本当に一流になれる人と、二流止まりで終わる人に分かれる。

ステップアップしていくためには、上のランクにいる人間との距離を縮めて、積極的に付き合っていく必要がある。

だが、それはけっこうきつい。

一方、同じレベルにいる人間とつきあっていれば気は楽だ。

だから、カフェの二人連れも年中一緒にいたのだろう。

二流にとっていちばんラクなのは、自分より下の三流と付き合うことだ。

これなら、いつも自分が優越感を持っていられるから、三流の面倒を見る余裕も生まれる。

二流にとって最も大変なのは、一流とつきあうこと。

これは「負け」の連続になる。

棋士の谷川浩司さんによれば、「負けました」といって頭を下げるのが正しい投了の仕方だが、それはつらい瞬間だそうだ。

だが、「負けました」とはっきりいえる人は、プロでも強くなるという。

逆に、それをいい加減にしている人は上にはいけないと指摘している。

一流と付き合うことは、負けを認める訓練になるのかもしれない。

もちろん、努力も求められる。

いくら負けるとわかっていても、一流と取り組むにはそれなりの準備と覚悟が必要だ。

しかも、一流はあまり二流の面倒を見てくれない。

一流同士の激しい競争があり、それどころではないからだ。

一流の人間は、非常にシビアな世界に身を置いている。

「人生競争において肉体がまだ立場を守っているのに、魂が気絶するは魂の恥辱なり」とは古代ローマ皇帝アウレリウスの言葉だ。

舞台美術の第一人者として長く活躍した朝倉摂さんは、「仕事をするということは、危機感に支えられ、自分の精神を絞りこんでいくこと」と述べた。

一流人はみな、こうした覚悟で仕事に臨んでいる。

「まだ自分は二流レベルだ」と自覚している人が一流を目指すなら、できるだけ一流人に近づいていかなければならない。

そのときに、まず必要なのは素直さである。

いくらシビアな一流人でも、自分のいうことを素直に聞き、行動に移す人間を可愛いと思うのは当然だろう。

可愛いと思えば、それなりに目をかけてくれるはず。

しかし、「使い勝手がいい」人間になってはいけない。

使い勝手がいいフリをして油断させ、一流人の懐に入っていくのは悪くないが、使われっ放しになる可能性もある。

使われっ放しでは、いつまでたっても自分と一流人の距離は変わらない。

同じ構図の中で、二流から抜け出せずに終わってしまう。