敏感性性格とは
敏感性性格者は利己主義者に主導権を渡してしまう
皆が自分の心の中の願いや怒りを理解してくれるのを黙って待っている人は、あまりにも甘えている。
また自分を知らせる努力をしないで、誰も自分をわかってくれないと不満になる人も、大人としてはあまりにも甘えている。
敏感性、発揚性を考えることの中で、普通の生活を反省するということである。
とにかく自分は敏感性性格的だと思った人は、周囲の人に自分を理解してもらうために積極的に自分の心のうちを説明する努力をおこたってはならない。
自分の殻からぬけだす努力をすることである。
また自分が気にしているほど深い意味があって他人は自分のことを非難したりしているのではない、ということも知っておくことが大切である。
自分を理解してもらうように努力し、自分を理解してくれと頼むことは、決して失礼なことではない。
ひかえめで内気な人は、そのようなことを頼むのは不作法なことと思いがちである。
他人が自分を理解してくれるのをただ待っている敏感性性格的な人は、どうしても他人に主導権をわたしてしまう。
自分についてのことなのに、他人に主導権をわたしてしまう。
交流分析的にいえば、いつまでも犠牲者の立場から脱却できない。
自分の性格、感じ方、考え方を他人に理解してもらうように努力し、説明していくことがどうして失礼にあたるのであろうか。
あなたは礼儀正しいというより、臆病といったほうがいいかもしれない。
待っているだけではどうにもならない。
待っているのではなく、しかけるぐらいの気持ちが必要なのであろう。
待っていて理解が得られないと、その周囲の無理解に順応しようとする。
だからいつも苦痛を耐え忍んでいなければならなくなるのである。
あなたが上品とか、礼儀とか、優雅とか考えていることは、もしかすると弱さの別のかたちかもしれない。
弱さが上品という仮面をつけて登場しているだけかもしれない。
それに理解してもらおうと努力して理解されるより、黙っていて理解されるほうが価値があるという考え方をしているのかもしれない。
それもおかしい。
その考え方はまさに甘えた考え方である。
黙っていて与えられたものより、求めて得たもののほうが価値があるかもしれない。
大人の世界でただじっと理解されるのを待っていても、それは無理である。
ことに敏感性性格者の周囲には、利己主義者が好んで集まる傾向があるのだから。
自分が理解されないのを悲しんでいると、なにか自分が悲劇の主人公にでもなったような気になるものである。
これではいよいよ自分を犠牲者に追い込んでいくだけである。
求めて得たものの価値がわからないのは、すねているからである。
素直な気持ちになれば、求めて得たものの価値がわかる。
「こうしてほしい」といって、「こうして」もらったものの価値は素直になれば感じられる。
自分の内面について理解を求めることの大切さを、敏感性性格の人は忘れがちである。
まず第一に大切なことは、理解を求めることであることを忘れてはならない。
敏感性性格は倫理性から生まれる
健康な人は「もっとずっといいかげん」だ
さらに、世間一般の倫理に縛られる必要はない。
そもそも敏感性性格の人は、もともと倫理に縛られ過ぎて病んでいるのである。
あまりにも自分の実際の気持ちと闘いすぎて、はけ口もなく感情緊張が続き、疲れ果てている。
一般的にいえば、たしかに人間には自己抑制が大切である。
しかしたとえば、この倫理が極めて重要なのは、クレッチマーのいう原始性性格のような人である。
原始性性格とは、感情の保持力に欠けている衝動人のような人をイメージしてくれればよい。
原始性性格のように、口より先に手が出てしまうような人には、自己抑制の倫理を繰り返し強調するのはよい。
「人を見て法を説け」というのはまことにそのとおりである。
逆にいえば、どんな立派なことであっても、それは自分に適用してよいものかどうかを正しく判断する必要があろう。
相手が自分に何か教えよう、お説教しようとしているとき、その相手が人を見て法を説いているかどうかということである。
おそらく敏感性性格の人は、ずいぶんおかど違いなことを人から説かれてきているのではないだろうか。
自分などにまったくお説教する必要のないことをお説教され、それをまともに受けて、真面目に考え苦しんできたのではないだろうか。
世の中の人はだいたい人を見て法を説かない。
一般的なことを得意になってしゃべる。
ことに親が人を見て法を説かないタイプのときには、敏感性性格者の子どもは悲劇である。
だいたい敏感性性格者以外は、人を見て法を説かない人間の災いをあまり受けない。
小心で臆病で真面目な人間が、相手のいうことをまともに受けとるからである。
被影響性の高い人が、人を見て法を説かない人の災いを受けることになる。
敏感性性格の人は過去にいろいろな人から悪影響を受けすぎている。
敏感性性格の人は刺激を受けやすいし、感受性が強い。
つまり印象能力が高い。
そしてある体験が意識の中に入ると、たびたびいうように、なかなか発散されない。
つまり保持能力も高い。
こうした性格上の欠陥のために、心ない人のいった言葉でひどく人生を狂わせてしまっているのである。
実際にひどい失敗をしたとか、自分にふさわしい人生でないような人生の生き方にひきずりこまれてしまったということのほかに、心理的にはさまざまな打撃を受けている。
あまりにも真面目で小心なために、あまりにもまともに人のいうことを受け取りすぎて、自分を責めすぎてきたのではないだろうか。
あなたにいろいろなことをいった人は、あなたが受け取ったほど真面目にいっているのではないことのほうが多いのではないだろうか。
でしゃばりな人間がひかえめな人間に、もっともらしいお説教などする必要はないのである。
被影響性の高いあなたは、無思慮な言葉をまともに受け取りすぎたからこそ、逆に裏切られたという体験をもってしまったのかもしれない。
いってみれば、過敏な感受性や倫理的内面性を特徴とする敏感性性格者のあなたとくらべて、世間一般の人はもっとずっといいかげんに生きているのである。
道徳的に小心なあなたは表も裏もない。
しかし世間の人には表も裏もある。
表と裏を使い分けている世間の人々の中で、表と裏を使い分けない厳格な倫理性をもつあなたが生きれば、傷つくに決まっている。
しかも表と裏を適当に使い分けている人たちは、まさかあなたがそんな厳格な倫理性を持っているとは全く知らないで接しているのである。
彼らもあなたを知らないし、あなたも彼らを知らない。
そのお互いの無知の中でいつもあなたは損をする立場に追い込まれてきたのである。
とにかく影響を受けやすいあなたは、表と裏とを使い分けている人たちの表の言動に深刻な影響を受けすぎたのである。
そこで第二に大切なことは、他人のいうことを他人の深刻さのレベルで聞くことである。
他人の無責任な発言をあまり深刻に受け止めすぎないこと。
世の中には、なんでも自分が悪いと自分を責めがちな敏感性性格的な人もいれば、なんでも他人が悪いと他人を責める発揚性性格的な人もいる。
それなのに先にも述べたとおり、人を見ないで法を説く人がいる。
そこで敏感性性格者にとって第三に大切なことは、どんなことでも必ず自分にあてはまるというように考えないことである。
他人の自分に対する非難は、自分が発揚性性格ならあてはまるかもしれないが、敏感性性格のときはまったくあてはまらないというときがある。
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もし抑揚性性格と敏感性性格とが出会ってトラブルがおきればどうなるか、すぐにわかることである。
1970年前後のことである。
Aさんの書いた本がなぜかとにかく読まれて、新聞、週刊誌、テレビ、ラジオなどがそのことをとりあげ、ブームといわれた時代があった。
ブームになればAさんの名前を無断で使って利用しようとする人が出てくるのは世のならいである。
Aさんのまったく知らない人が私の友人になったり、見たことも聞いたこともない団体の支持者にAさんがなっていたりということがあった。
その当時、ある四十人ぐらいの集会のときである。
やはりある団体が、Aさんが支持しているというビラだかパンフレットだか忘れたが、そんなものをつくった。
もちろんAさんは何も聞いていないし、そんな団体があるということも知らない。
まったく、なんの関係もないところであった。
Aさんは名前を利用された被害者でしかなかった。
ところがその集会で、「こうして名前を利用されるのは貴方の責任だ」といわれた。
Aさんはたしか、利用されるのは、Aさんになにかそんな雰囲気があったり、そのように気のゆるみがあったり、また常にそのように利用されないように用心していなかったり、Aさんが悪かったと謝った記憶がある。
Aさんは、無断で利用されたのは、無断で利用されるような安っぽいおまえが悪いと責められ、謝りながら、誰か「そんなばかなことはない」といってくれるのを待っていた。
しかし誰もいってはくれなかった。
Aさんは発揚性性格か敏感性性格かといえば、敏感性性格であった。
それだけに、なんでもかんでもとにかくすべて自分が悪いといって自分を責める人のことをわかる気がする。
それだけに、周囲の人々の非難を敏感性性格の人がどんなかたちで受け取ってしまい、その結果どのように抑うつ状態におちいったりするのか、またわけもなく不安になったり、あせったりするのが理解できる。
ひとくちにいえば、敏感性性格のあなたはそんなに自分を責めることはない。
むしろ自分の弱さに、真面目という仮面をかぶせないように注意することである。
自分の弱さに真面目という仮面をかぶせて正当化しはじめると、自分の弱さをいつになっても克服できない。
弱いから、他人が冗談半分、無責任にいったことを真に受けすぎるのである。
真に受けすぎるから、裏切られたの、ひどい目に遭ったのとくやしがることになる。
Aさんは以前、共著で本を書いたことがある。
締切日〇月〇日と出版社からいわれた。
まだ二十代でもあったから、出版界にもなれていなかった。
Aさんはその締切日に原稿をまにあわせるために、一つ大きな犠牲を払った。
ところがその本はいつになっても出版されず、たしか一年近くたって出版された。
要するに、締切日を守らない人がたくさんいたということである。
Aさんはひどく裏切られた気がした。
出版社の人としては敏感性性格から原始性性格までいろいろな人を相手にしながら、原稿の締切日は〇月〇日としたのであろう。
さばを読んでいたのである。
ところがAさんは真に受けて、その締切日を守るためにある犠牲を払わざるを得なかった。
締切日は〇月〇日という編集者にだって、発揚性性格の人もいれば強力性性格の人もいる。
どういう真面目さで締切日をいっているかは、その人の性格によっても異なる。
要するに世の中にはいろいろな性格の人がいる。
それを敏感性性格の人は皆、自分と同じ性格の人間であるかのごとき前提で行動するから、裏切られた気持ちになるのである。
人を見て法を説くばかりでなく、人を見て締切日も守らなければならないし、世の中のことはだいたい人を見て行動しなければならない。
当時のAさんにそのことがわかっていれば、Aさんはかくかくしかじかの事情で締切日は守れないと編集者にいったろう。
そしてそれでも他の人よりはわりあい早く原稿を出し、裏切られた気持ちもなく、その本のことはとっくに忘れていたであろう。
当時自分のことがよくわかっていれば、編集者の性格もわかっていただろうし、一緒に書く人の性格もわかっていただろう。
そうすれば、この人たちはどうも締切日を守りそうもないルーズな人たちだし、編集者も真面目な顔をしながらさばを読んで著者に締切をいっているな、ということがわかったはずなのである。
自分がわかれば相手もわかる。
自分の見えていない人は他人が皆同じに見える。
自分の見えていない著者にとっては、心の冷たくずるい編集者も、心優しい編集者も、同じ編集者に見えるのである。
また自分の見えていない編集者には、利己的な著者も利他的な著者も同じような著者に見えるのである。
話は飛ぶが、八方美人の人というのは、自分が見えていないから八方美人になるのである。
だいたい自分がわかり相手がわかれば、世の中にそんなにいつも裏切ったの裏切られたのという人間関係のトラブルなどないはずである。
相手が実際にどういう人間であるかも見ずに、また見ようともせず、勝手に自分が相手はこういう人間であると決めてかかって、その自分が勝手につくったイメージでつきあうから、さまざまなトラブルが生じてくるのである。
まとめ
敏感性性格の人は他人に主導権を渡してしまう。
そして敏感性性格者の周りには利己的な人が寄って集まる。
敏感性性格は倫理性から生まれる。
そして世間の人と敏感性性格者とを比べてみれば世間の人はずっといいかげんに暮らしている。
自分がわかれば相手もわかる。