期待されている役割を生きる自分が体験している世界は、どのような世界なのでしょうか。

そして、その行き着く先は、いかなる状態なのでしょうか。

期待されている役割を生きる自分が体験している世界とは、一言で言えば乖離した世界です。

身体との乖離であり、外界との乖離であり、「自分」との乖離であり、それゆえに人生との乖離なのです。

期待された役割を生きる人の身体との乖離

期待された役割を生きる身体の客体化

期待された役割を生きる身体は「自分」のもっとも基礎となるものであり、健全な自我は身体と統合しています。

すなわち、身体はまぎれもなく自分であり、自分以外のなにものでもありません。

ところが、期待されている役割を生きる自分にとって、身体は客体として存在します。

たとえば、鏡に映った自分を見ても自分として感じられないとか、手や足を、自分というよりも、胴体についている物という感覚を持ったりします。

頭の中に「自分」がいて、その自分が目という穴から外を見ている、と感じる人もいます。

身体は自分とは別に動いているものと感じる体験をする人もいます。

「学校に行く時も、勝手に身体が学校に向かっているという感じで、心はそれに伴っていないのです。

友達に会うと、顔が勝手に笑顔を作っている。

友達としゃべっていても、勝手に言葉が発せられているっていう感じ。

授業中も、教室の上の方から、授業を受けている自分を見ているような感覚がありました。」(女子大生)

セックスはもっとも身体と自我とが融合する体験であり、また、他者との融合の体験でもあります。

しかし、交わっている最中にでも、期待されている役割を生きている人は、自分や相手のしている行為を傍観している感覚があります。

「彼と愛し合っている最中でも、自分たちがしている行為を冷ややかに見ているような感じです。

『本当にしたいことは別なことだ』『本当にしてもらいたいことは別なことだ』と思いながら。

でも、『感じている』振りをしています。

そのほうが彼が喜ぶし、そうすると、終わるから。」(二十代OL)

さらに、身体について、上半身と下半身とを乖離させていることもあります。

たとえば、「上半身は知性的で清い、下半身は情欲的で汚い」という意識にとらわれていて、「上半身は自分だけど、下半身は自分ではない」と、暗黙のうちに感じているようなことがあります。

上半身の感覚に比べて下半身の感覚がひどく鈍い人、「下半身の肉を削ぎ落したい」と言う女性、下半身での交わりには抵抗感が無いのに、キスには拒絶感を持つ人などに、こうした意識が反映していることがあります。

強い精神力で身体と行動を期待された役割を生きる人は、コントロールしきろうとする傾向があります。

このために、しばしば職場で「がんばりや」と評されます。

身体に過度の負担をかけ、その結果、胃潰瘍や神経性大腸炎などの心身症的症状をきたす人もいます。

燃え尽き症候群に陥る人もいます。

過労死に至るほど、身体を酷使してしまう人もいます。

身体は、もっとも明確に自分と認識できる自分です。

実在として捉えられる自分は、身体以外に存在しません。

したがって、自分が身体と乖離してしまうと、実在としての自分という感覚が希薄になります。

このために、身体との融合を体験することにより、実在としての自分を実感したいという衝動が生じます。

身体との融合を取り戻す方法は、なによりも身体的な快感を得ることです。

身体的快感は、ゆったりとくつろいだり、運動をしたり、飲食したり、自慰やセックスしたりすることで体験できます。

健全な自我はもともと身体と結び合っているので、こうした身体的快感を快適な範囲で存分に堪能することができます。

ところが、期待された役割を生きる自分では、そうした行為が希薄化した身体を取り戻そうとするためなので、適度な範囲を超えることになりがちです。

快適さを超えた激し過ぎる運動。

食べ過ぎ、その反動としての少食。

過度な自慰や倒錯的セックス。

男性は暴力的行為、女性はリストカットなど、身体に激しい刺激を加えることで身体を実感しようとする例もあります。

感覚・感情の鈍麻

身体との乖離は、感覚や感情の鈍麻と結びついています。

ごく幼い子どもは、自分の感覚や感情の意味を知りません。

不快や苦痛などを感じるだけです。

不快や苦痛で泣くと、養育者が「眠いのね」とか、「お腹がすいたのね」「疲れたのね」「痒いのね」「一人にされて寂しかったのね」などと意味づけしてあげることで、感覚や感情が自覚され、分化していくのです。

ところが期待された役割を生きる自分は、自分が心地よいこと、自分が楽しいこと、自分がうれしいこと、自分が欲することを優先するのではなく、親が感じていること、親が心地よいこと、親が欲することを優先しなければなりません。

そのためには、自分の感覚や感情、願望などは捨て去った方が、葛藤なく楽にいきられます。

このために、体感は鈍麻していき、自分の感情や自分が望んでいることも明確に意識できなくなります。

こうなると、行動は、自分の感覚や感情に立脚するのではなく、外界の指針に依存するようになります。

お腹がへったから食べるのではなく、食事の時間がきたから食べる。

暑い、寒いという体感によるのではなく、温度計を見て衣類の調整をするなどです。

感情を生む源は身体感覚です。

したがって、身体感覚が鈍麻すると、感情も鈍麻していきます。

鈍麻するばかりでなく、感情の偽装が生じます。

つまり、自分の感情よりも、期待される感情を持つようになります。

たとえば、「養育者に対する怒り」の感情は、「自分がいらいらしている」というように歪曲します。

「ひどい憎しみ」も、「ちょっとした皮肉」程度に変えられます。

「悲しみ」が、「笑い」に変えられてしまうことも少なくありません。

こうして、感情も自分から離れたものになっていきます。

「うれしい」とか「愛している」などと言っても、自分のうちに生じているものがそれに当たるものなのかどうか、確信できません。

生身の感情を抑えることは、心身の緊張を持続させることです。

このために、理由の分からない不快な緊張感にいつでも心が覆われています。

身体の感覚とはまた、快感や快楽の源泉です。

体感を抑圧し、鈍麻することは、こうした快感情を放棄することにもつながります。

このために、快を楽しむよりも、期待された役割を生きる人の生活は、不快に耐える色彩が濃厚になります。

健全な自我が優勢な人は、いっそうの快感を求めて行動するという意識が強いのですが、不快の軽減を求めて行動するという意識が強いのです。

期待された役割を生きる人の外界との乖離

期待された役割を生きる人の外界との乖離

期待された役割を生きている人は、外界に気を配っているつもりでも、実態は自分の世界に引きこもっています。

このために、自分が外界と現実に交わっているという確固とした感覚を持てません。

自分の本当の世界は、どこか別なところにあるという感じがします。

いつでも、どこでも、「ここは私のいるべき場所じゃない」と感じます。

といって、自分にふさわしい場所が本当にあるとも思えません。

内面への鋭敏化と外界への鈍感化という点で期待された役割を生きている人は、分裂しているのです。

本人は、自分の心が繊細で、感覚鋭く、豊かに発達していると信じています。

なぜなら、期待された役割を生きるためには、常に他者が自分に要求しているものにアンテナを張り巡らし、自分が要求に添っているかどうかをいつもチェックしていることが必要だからです。

このために、他の人や状況、自分の内面に向けられる感覚は非常に鋭敏になるのです。

しかし、この鋭敏さは自閉的な鋭敏さに過ぎません。

自分を守るために向けられる外界への鋭敏さであって、外界と親密な関係を結ぼうとするための鋭敏さではありません。

ですから、他の人や外界をあるがままに見るのではなく、自分を投影して、歪めて見てしまいがちです。

たとえば、相手がちょっと表情をくもらせると、「相手がなにか気がかりなことがあるのかな」と見るのではなく、自分に向けられた嫌悪の表現であると見てしまうなどです。

会話においても、相手の話を聞くことに集中するのではなく、相手の意に添うためには何をどう話すべきか、と考えており、心を開放した共感的なやりとりになりません。

こうしたことから現実感覚が希薄になり、離人症的な体験をする人もいます。

「今の私の日々は、車窓を流れていく景色のようです。

自分が現実に生きているという実感がしなくて、自分に起きていることすべてが非現実の出来事という感じがします。

会話している友達の話し声が、耳栓をしているような感じで、遠くに聞こえたりします。

建物を見ても、なんだかジオラマみたいです。

人や物がアンバランスに大きかったり、小さかったり。

時間があっという間に過ぎるかと思えば、時刻表示がちっとも変わりません。

暑さ、寒さもほとんど感じません。

疲れも、空腹も感じない。

楽しさ、辛さなど、感情もほとんどありません。

この方が楽だ、とも思うのですが、このまま元にもどらなかったら、と考えると、恐くなります。」(女子大学生)

期待された役割を生きる自分にとっての誠実な交友関係とは、自分を無にして、相手に自分を差し出すことです。

相手の意に添うように、つねに自分を調整することです。

ですから、自分の心の繊細さと無力さ、それに比べて相手の心の鈍感さと強さを意識させられます。

このために、心が傷つきやすく、外界との交流をじっさいに断ってしまう人もいます。

期待された役割を生きる自分との乖離

期待された役割を生きる自分との乖離

言葉が離れていく

言葉とはそもそも自分の感覚や感情、衝動、欲求の表出なのですが、期待された役割を生きる人は、自分の感覚や感情、欲求と離れて、場面や相手が暗に求めている言葉を発します。

自分がうれしいから「うれしい」と言うのではなく、うれしいと言うべき場面だから「うれしい」と言います。

楽しいと思われる場面だから、「楽しい」と言うのです。

「幸せ」「愛している」「好き」。

こうした言葉を発しても、その言葉が表す実感を自分が体験しているという確信は持てません。

期待される役割を生きる人の言葉は、自分の素直な感情と直結しない言葉であり、ときには自分の本心と裏腹な言葉になります。

そのために、会話に余分な配慮が入り込み、間の悪さや不自然さをもたらします。

この不自然さを自分でも意識し、なんとか取り繕うとして、いっそうちぐはぐな会話に陥ってしまうこともあります。

また、言葉の多くが借り物という感じがします。

自分の感覚や思考ではなく、他の人が言ったこと、あるいは本に書いてあることを話そうとするからです。

話せば話すほど言葉がどんどん自分からかけ離れていってしまう、と感じながら、話しているようなことがあります。

仕事の上での会話は平気なのに、とりとめのない会話に苦痛を感じるという傾向もあります。

仕事上の会話は、伝達すべき具体的な内容が存在しており、それを伝えるという役割を演じれば済みます。

役割を演じる期待される自分で対応可能なのです。

ところが、日常的な会話は、話の内容よりも、感情表現の交流が中心になります。

期待される役割を生きる自分では自分の感覚や感情が希薄化してしまい、表現すべき内容に乏しいために、会話が弾まないということがあるのです。

言葉は現実を模写しながら、現実と直接触れなくて済むという性質があります。

このために、期待された役割を生きる自分を発達させた人の中には、外界を生身の感覚で感じ取るかわりに、言葉で抽象化しきろうとして、言語感覚が鋭敏になる人がいます。

明晰な言葉を発し、ポイントを突いた批判をし、辛らつな皮肉を言ったりします。

この言語的鋭敏さを、文芸作品に反映する作家もいます。

しかし、言葉は事実や実感との結びつきを欠くので、たとえば、人間は猿から進化したという進化論を学んでも、それを単なるロジックやレトリック上のこととしてしか受け止められません。

言葉の中だけのことであり、事実として信じることはありません。

ある研究者は、自分がある事実を証明する客観的なデータを発表していながら、そのデータが示す結果とは相反することを事実として信じていました。

思考が離れていく

思考とは、本来その人の内的欲求に由来するものです。

「〇〇が欲しい、そのためにはどうしたらよいか」と、自らの欲求を満たす手段を見出すことが、思考の原型なのだと考えられます。

ところが、期待された役割を生きる人の思考は、その場面で自分に要請されていることを考えることが中心になります。

たとえば、仲間で何をしようかと相談しているとき、「自分は何をしたいか」と自分の欲求への問いかけをするのではなく、「今、いかなる方向で発言すべきか」とか、「どのように発言すべきか」などと考えます。

期待された役割を生きる人の思考は、生身の自分の衝動や欲求との結びつきが薄いために、現実性を持たない抽象的思考になりがちです。

学校の勉強とは、まさにこの思考を扱っています。

このために、学校は期待された役割を生きる人にとって、適応しやすい場所なのです。

学校での学習は、言葉や記号のみで進行され、事実や実物との対応がなされることはほとんどありません。

天体の動きの学習は、言葉と絵のみによって行われます。

だから、星座を習っても、じっさいに夜空でその星座を見つけることはほとんどできません。

小数と小数のかけ算を学習する時、それが意味する事実と対応させることは一切ありません。

1192年に「鎌倉幕府が開かれた」と習っても、「幕府」とはなにか、「幕府が開かれた」とは現実にはどういうことなのか、まったく分からなくて済んでしまいます。

さらに、一人ひとりの子どもの好き、嫌いなど問題にされず、また、その時の気分がどうあろうと、とにかく与えられた学習に取り組むことが求められます。

このように、学校とは、自分の衝動を容易に抑えることができて、自分が本当にやりたいことを忘れられる人が適応しやすい世界なのです。

そのうえ、勉強ができるということは、だれからも賞賛されます。

こうしたことのために、期待された役割を生きる人は、学校の勉強に多くのエネルギーを注ぎ、良い成績をとることで快適な成育環境を得ようとすることが多いのです。

行動が離れていく

行動は身体に担われていますが、期待された役割を生きる自分では自分と身体とが乖離しているので、自分の行動を、第三者として見る傾向があります。

たとえば、カラオケなどで他の人と一緒に楽しく盛り上がっていても、盛り上がっている自分を冷ややかに見ている自分がいます。

自分に起こったひどい出来事を、自分のことではないかのように淡々と話したりします。

期待された役割を生きている人の行動は、自分の内発的欲求に根ざしていないので、強制されているという感覚、被強制感が強くなります。

自分が行動するのは「自分がしたいからだ」という自発性の感覚ではなく、「させられている」という感覚です。

また、「しなければならない」という感覚です。

このために、行動の目的は達成する喜びではなく、他者からの非難を避けるという動機が優位になります。

ですから、達成しても、達成自体が喜びとはなりません。

賞賛されること、失敗しないことが喜びとなります。

これでは、がんばっても、がんばっても、自己充足感が得られることはありません。

このために、何をやっていても、「なぜ、こんなことをしなければならないのだろう」という疑惑や、「ほかに本当にすべきことがあるのではないか」という心残りから逃れることができません。

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仕事への疑惑

期待された役割を生きる人は、仕事に誠実に取り組み、確実に遂行しようとします。

依頼された仕事は断らず、しばしば求められる以上の仕事に手を伸ばします。

このために、職場で評価されることが多いのですが、便利屋として扱われてしまう人も少なくありません。

自分の内なる欲求を満たすことである「楽しむ」ことを期待された役割を生きる人は、抑制して育ちました。

このために、楽しむという心とスキルが獲得されていません。

ですから、仕事よりもむしろ休日の方が何をして良いか分からず苦痛であったりします。

また、なにか楽しいことをした後で、「ムダに時間を過ごしてしまった」と後悔する傾向があります。

社会から賞賛され、他の人の役に立つことで期待された役割を生きる人は、自己価値感を維持し、高めようとします。

このために、たとえば、医師、弁護士、看護師、介護士、ソーシャルワーカー、保育士、教師などの仕事についていることが少なくありません。

こうした人は、最初のうちはそれが転職であるかのように生きがいを感じて働くことができます。

ところが、できる人、良い人、頼りになる人、何でも引き受けてくれる人などの評価が定着すると、この評価に応え続けることに次第に重荷を感じてきます。

このために、職場に居続けることが苦痛になったり、燃え尽き症候群に悩まされたりといった状態になる人がいます。

自分の気持ちで職業を選んだという実感が無い人は、仕事は最初から耐え忍ぶものとなります。

被強制感がいっそう強く、「無意味さ」や「つらさ」ばかりが感じられます。

このために、今の仕事をしていることは、自分の人生を浪費している時間であるように思えてきます。

人生が離れていく

期待された役割を生きる人にとって、生きていることそのもの、人生さえも仮想のことのように感じられます。

今、この瞬間、瞬間にまぎれもなく自分の人生を生きているという実感を持てません。

自分の思いとは無関係に、人生が勝手に流れていくような感じがします。

そして、やがて未来のいつの日にか、本当の人生が始まるという意識があります。

川端康成の文学の基調は現実感覚の希薄さであるといえます。

彼は『文学的自叙伝』のなかで、次のように書いています。

「恋愛的な意味では、いまだに女の手を握ったこともないような気がする。

嘘をつくなと言う女の人もあるかもしれない。

しかし、これは単なる比喩でないような気がする。

ところが手も握らぬのは、女に止まらないのではあるまいか。

人生も私にとって、そうなのではあるまいか。

現実もそうなのではあるまいか。

或いは、文学もそうなのではあるまいか。」

人生は、自分の思いとは無関係に勝手に展開していくように感じられるのですから、自分の人生を自分で作ったという自信を持てません。

だから、社会的に成功しても、「こんなに順調にいくなんて、夢のようだ」と感じ、「いつか化けの皮がはがれてしまうのではないか」という不安を抱きます。

過去、現在、未来とつながる自分を、期待された役割の自分を生きていると、現実のなかで想定できません。

現在の延長線上に自分の未来の姿をイメージできません。

そのために、未来の姿は有名人であったり、聡明で洗練されたレディであったりします。

こうした未来と現在との乖離は、アイデンティティの形成途上にある若者一般に見られる特徴です。

しかし、期待された役割を生きている若者にとってとりわけ顕著であり、未来のイメージだけが救いになっている若者もいます。

生きることや人生そのものに客観的な意味があるわけではありません。

実存主義哲学が述べたように、自分で主体的に目的や目標を設定し、その達成を追求する行動のなかに、生きる意味や人生の意味が生み出されてくるのです。

自らの内発的な欲求によるのではなく、外から目標が設定され、もっぱらそれを達成しようとする行動を続けたならば、生きる意味、人生の意味を感じることはできません。

このために、遅かれ早かれ期待された役割を生きる人は、人生への虚無感や、人生の無意味感を抱くことにならざるをえないのです。

しかし、それは全面的に否定的なものではありません。

永い人生のプロセスにおいて、私たちに共通するある程度必然的といえる体験でもあるのです。

「私はこれまでの人生をほぼ自分の望む通りに作ってきたと自負しています。

人一倍勉強して超一流といわれる大学に入り、誰もが知っている一流企業に入社し、がんばって仕事をして、同期のトップで役員待遇にもなりました。

こんな自分を誇りに思っています。

しかし、正直、別な人生の可能性もあったのかな、とも思います。

この生き方が自分の望みだと思っていましたが、本当にそうだったのだろうか、と。

自分を満足させるよりも、他の人から賞賛を得るためにがんばってきた人生ではなかったか。

父親の職業に誇りを持てなくて、他の人を見返してやろうとする人生だったのではないか。

そんな感じがしています。」(五十代 男性)

期待された役割の自分を生きる苦悩

期待された役割を生きる人は、誠実に努力しているけれども、それが充足感や幸福感と直結せず、報われないという思いを抱いています。

たしかにその多くは、誠実であろうとしています。

しかし、その誠実さとは自分への誠実さではなく、他者への誠実さなのであり、それゆえに誠実であろうとすることに人一倍の努力を要するのです。

また、内面と外面とに大きなギャップがあり、外に表現する自分は「本当の自分」ではないと意識してしまうために、演技している偽善者だという自責の感覚があります。

さらに、自分と自分の人生を自分でコントロールできる、という実感を持てません。

人に操られている、支配されている、それゆえに自分が蹂躙されているといった感じです。

自分で生きる力を自分は持っていない、という無力感もあります。

その上、「偽りの自分」と「本当の自分」という内面同士の葛藤を抱えています。

こうしたことで多くのエネルギーが費やされてしまい、建設的な方向への関心とエネルギーが手薄になります。

そのために、才能や能力を十分に伸ばすことができない人がいます。

逆に、がんばりによって能力を育てるという人もいますが、この場合には人の何倍もの苦闘が必要です。

このように、普段でもぎりぎりの心理状態なので、期待された役割を生きている人は、ちょっとしたストレスでも重たく感じられます。

このために、精神的、行動的につまずいてしまう人もいますが、多くの人は、それまで育ててきた内面的な強さによって乗り切っていきます。