恋愛にのめりこめない人が増えている理由
恋愛論花盛りの時代になりました。
恋愛テクニックに関する記事は、これまでも女性誌をにぎわせていましたが、このところ男性誌にも進出が目立ちます。
不倫だ、純愛だと騒がれたかと思うと、今は「本当の恋愛」が求められているそうです。
「本当の恋愛」っていったい何なのでしょうか。
私たちは身近にないものにあこがれ、そしてそれを求めます。
恋愛がこれほど人々の関心を集めているということは、裏を返せば恋愛がそれだけ身近なものではなくなっているということです。
では、今の時代、なぜ恋愛は人々の手中をすりぬけていってしまうのでしょうか。
第一にあげられるのは、今がとても自由な時代だということです。
職業や家柄にとらわれずに男と女が出会い、恋愛に発展していく可能性が無限に開かれています。
恋愛中のカップルに聞いても、出会いの場は職場や学校だったり、大学間のサークルや街のスポーツクラブなど趣味のつながりだったり、ディスコや居酒屋だったりいろいろです。
最近では、SNSをキッカケとした出会いもあるようです。
話の合う人、気の合う人を選んで付き合うことができる。
「そんなの当然じゃない」というかもしれません。
でも、適齢期になると恋愛する間もなく、話をしたこともない、顔を見たこともない人と結婚させられるという時代もあったのです。
「そんな、ひどい!」と思うでしょう。
それだけあなたは自由な状況にあるのです。
ところが、恋愛の自由が大幅に認められている、だからこそ恋愛にのめりこむことができない、という逆説的な面もあるのではないでしょうか。
本来人間には、禁じられているからこそ切に求めるという性質があります。
自由と豊かさのなか、何でも適当に経験できてしまうというのは、ある意味では不幸かもしれません。
何かを切に求める能力が衰退してしまうのです。
恋愛に関しても同様です。
お互いに相手のことが好きなのにさまざまな妨害がはいり、思い通りにならずに苦しむからこそ、感動的なラブ・ストーリーとなるのです。
それは、名作といわれる恋愛映画をみれば明らかです。
恋は障害が多いほど燃え上がる理由
映画「哀愁」では、ロバート・テイラー演ずる軍人クローニンとヴィヴィアン・リー演ずるバレエの踊り子マイラが、ある橋の上で行きずりに出会い、恋におちます。
境遇の差を乗り越えてうまくいきかけたところで、戦争が二人を引き裂くのです。
ドイツ軍の捕虜となったクローニンはなかなか本国に戻れず、クローニン戦死の誤報は、それでなくとも食うに困っていたマイラを自暴自棄にさせ、夜の女に転落させます。
一年後に再会し、クローニンが生きていたことに驚き喜ぶマイラですが、何も知らないクローニンの昔と変わらない愛情をそのまま受け入れることはできません。
いくら物質的にも心理的にも追い詰められていたとはいえ、身をもちくずした自分をまるごとかかえてクローニンの胸に飛び込むほど、したたかにはなれなかったのです。
愛する人から愛されているのに、彼の胸に飛び込むことを自分自身が許せない。
そんな切ないマイラの心境がみる者の胸を打つのです。
「ある愛の詩」では、ライアン・オニール演ずるオリバーとアリー・マックグロウ演ずるジェニーが図書館で出会い、親しくなります。
しかし、かたやバーレット家といえば知らぬ者はないというほどの富豪の息子、かたやイタリヤ移民の菓子屋の娘という家柄の差が二人の邪魔をします。
予想通りオリバーの父親の断固とした反対に遭い、送金を中止されますが、二人の気持ちは激しく燃え、とどまるところを知りません。
二人は結婚し、オリバーが大学に通い、ジェニーが生活費や学費を稼ぎ、貧しいながらも幸福な日々が続くかにみえました。
ところが、それも束の間、オリバーは、ジェニーの命がもういくばくもないことを医師から知らされます。
ジェニーは、愛するオリバーの腕のなかで、25歳の若さで死んでいくのです。
幾多の困難を乗り越えてようやく結ばれた二人が、この幸せが長くは続かないことを知り、命ある限りこの瞬間を懸命に生きようとする、その姿が痛ましく、涙を誘い、感動をよぶんです。
昔、「男と女2」が二十年前のヒット作「男と女」の続編として公開され話題になりました。
お互いにひかれつつもなかなか結ばれない二人のその後を描いたもので、映画のなかでも主人公たちの二十年後が描かれています。
それはさておき、「男と女」ですが、ジャン・ルイ・トランティニヤン演ずるレーサーのジャン・ルイとアヌーク・エーメ演ずるアンヌは、子どもが同じ寄宿学校に通っていることから週末の訪問で知り合います。
子どもたちを一緒に遊ばせて、あたかも一家団らんのような楽しくあたたかい時をすごすうちに、二人の間に恋心が芽生えてきます。
やがて、お互いに配偶者をなくした身であることを知りますが、過去をそう簡単に清算することはできません。
全ての思いをふりはらうかのようにモンテカルロ・ラリーに出場し、命がけのレースを展開するジャン・ルイ。
ラジオでラリーの中継を聴きながら、思わず「愛しています」という電報を打ってしまうアンヌ。
ラリーから帰ってきたジャン・ルイとアンヌは、初めてホテルで愛のひとときをもちます。
ところで、そのときアンヌの脳裏に死んだ夫ピエールの記憶が鮮明に浮かんできて離れないのです。
気まずい思いで電車に乗るアンヌとそれを見送るピエールですが、あきらめきれないピエールは、車を飛ばして先回りして乗換駅でアンヌを待ちます。
アンヌも電車に揺られながら、ジャン・ルイへの断ち切りがたい思いをかみしめていたはずです。
そして、抱き合う二人。
過去をひきずって生きていかなければならないのが人生というものです。
ときに過去の輝かしい思い出が新たな出会いの邪魔をすることもあります。
愛する人を前に燃え上がる恋心と過去の優しい思い出との間で揺れ動くアンヌと、そんな彼女の事情を知って自分の激情を抑えようとするけれども抑制しきれないジャン・ルイ。
たとえハッピー・エンドに終わろうとも、みる者の心を動かさずにはおかないのです(「男と女」がじつはハッピー・エンドでないというのは、「男と女2」が二十年後につくられるまではわからなかったことです)。
「好意」が「激しい恋心」に変わるための必要条件
いずれにしても、これら名作といわれるラブ・ストーリーは、戦争、家柄の差、病気や過去の思い出に邪魔され、思うように恋心が進展しないのです。
思い出はともかくとして、平和で自由な雰囲気の支配している今日、好意をよせあう者同士が引き裂かれるチャンスは非常に少ないといえます。
それだけ好意が激しい恋心に発展しにくいのかもしれません。
そういう観点に立つと、男女交際に厳しい制約があった頃は、古き良き時代なのでしょう。
たとえば、明治42年に東京の各種女学校の教員たちが、「若き婦人の男子に対する心得」として十か条からなるべからず集を新聞に発表しています。
そのなかのいくつかを現代風にいいかえると、つぎのようになります。
一、男子と会うときは必ず同席者を立て、やむをえず二人きりで会うときは開放的な場所で会うこと
一、むやみに男子と写真その他物品の贈答をしないこと
一、通学時にやむをえない場合のほかは知らない男子と言葉をかわしたり、世話になったりしないこと
一、若い男女だけで散歩したり遊んだりすることは、周囲のひんしゅくを買うので注意すること
あなたは、自分がどんなに自由な時代に生まれたかがよくわかるでしょう。
近頃、中学校や高校の管理教育の是非が問われ、生徒の私生活まで必要以上(と傍観者の目には映る)に縛ろうとする校則がやり玉にあがることがあります。
でも、たとえば、「校門を一歩でも出たら、異性と肩を並べて歩くことを禁止する。
たとえ親・兄弟といえども例外と認めない」
というようなおかしな校則も、生徒に激しい恋心を体験させる最後のチャンスを与えてくれているのかもしれません。