気を遣い過ぎて疲れてしまう心のプロセス

自分は利己的な人間ではないと思っていても実は・・・

燃え尽き症候群と症状は似ている。

神経症的非利己主義の人は価値観としては、非利己主義。

しかし無意識にある「実際のその人のパーソナリティー」は利己主義。

社会的な行動は、独りよがりの独善的非利己主義だったり、極端な利己主義だったり、心理的には神経症である。

要するに、いきすぎた非利己主義であったり、あるいは冷淡な利己主義であったりする。

タイプとしては自己拡張型になったり、自己消滅型になったりする。

自分は利己主義の人間ではないと思っていた。
自分の行動を考えても、自分は利己主義的な行動をしていたとも思えない。
自分は非利己主義な人間であると思っていた。

しかしよく考えてみると、その非利己主義は神経症的非利己主義であったかもしれない。

それは努力しているのに人間関係がうまくいかないからである。
真面目にしているのに、必ずしも人から受け入れられていない。
それにいつも疲れていて憂鬱である。

そうなれば、その人は神経症的非利己主義と考えられる。

そうして、もし自分が神経症的非利己主義の人間であったと分かったとする。

しかし「にもかかわらず」自分に誇りを持つ。
本当の自分に気がついたことはすごいことである。
過去の自分を責めるのではなく、誇りを持っていい。

神経症的非利己主義とは相手のための非利己主義ではなく、自分が人からよく思ってもらうための非利己主義である。

その人も何も好きこのんで神経症的非利己主義の人間になったわけではない。

自分としてはそれなりに頑張った。
確かに努力の仕方は間違ったかもしれない。

努力の動機は欠乏動機であった。
愛情飢餓感から頑張った。

しかし愛情飢餓感を持ったのは自分の責任ではない。
母なるものを持った母親に恵まれなかったのは自分の運命である。

何があっても自分への誇りは失わない。

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無理をして親切にすると相手を嫌いになる心のしくみ

自分本位主義は望ましいことである。
自分自身であろうとする姿勢である。

しかし偽の非自分本位主義である神経症的非利己主義とは自分の弱さを合理化していることである。

たとえば、夫は嫌いだけれども「子どものために」離婚しないという女性がいる。

本当は自分の依存心が原因で離婚しない。
利己主義者と思われることの恐怖。
評判が怖い。

こうした場合、自分を犠牲にしているから、母親は子どもが嫌いになる。
子どもが嫌いだけれども、嫌いということを認めない。
嫌いという感情を抑圧してしまう。

そして嫌いという感情を直接的に表現できない。

そして自分はいい母親と思っている。

しかし本当の姿は自己中心的な女性で、子どもが嫌いになっている。

そうなれば毎日が楽しくない。
その嫌いという感情を間接的に表現して、たとえば毎日惨めさを誇示する。
自分が毎日いかに苦労しているかを話さないではいられない。

それが神経症的非利己主義である。

だからこそフロムが指摘するように神経症的非利己主義に関連した症状は、抑うつ、疲労、働くことへの無能力、愛の関係の失敗というような症状だという。

そして神経症的非利己主義の人はその症状にも悩んでいる。
神経症的非利己主義には努力はあるが、愛がない。
見返りを求めている。
報われない努力の典型である。

人は無理して親切にすると、相手を嫌いになる。

したくないことをしたのだから面白くないのは当たり前である。

本当に「相手のために」という相手への愛情からしたのであれば嫌いになることはない。
逆にますます相手が好きになる。

しかし嫌われるのが怖いから、あるいは相手の好意が欲しいから、あるいは評判が悪くなるのがイヤだから、無理をして親切をした。

そうなれば親切をしたことで相手が嫌いになる。
自分の不愉快な体験の原因は相手なのだから嫌いになるのは当たり前である。

しかし嫌いという感情を直接的に表現できない。
そこで憂鬱になる。

フロムの言う「抑うつ、疲労、働くことへの無能力、愛の関係の失敗というような症状」は当然である。

つまり自分がした行為が、本当の親切であるか、それとも自己執着的親切であるかは、その後のその人の気持ちを見れば分かる。

相手に何かで譲るというときも同じである。
譲り合うということなしになかなか社会は成り立たない。

「譲る」ということは大切な徳である。
しかしそれが本当の徳であるか、自分を高く評価してもらうための自己執着的徳であるかは、その行為の後のその人の気持ちで分かる。

それはテレンバッハの言う加害恐怖についても同じである。

傷つかないようにと気を遣った後で、その人の気持ちがどうなっているかである。

いつも気を遣っているが、常にイライラしているか?

気を遣った後で、より優しい気持ちになっているかである。

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嫌われるのが怖くて自分を偽る心理メカニズム

不安は欲求を消す。
なぜなら不安なときには、何よりも安全を求めるからである。

安全優先の生き方では、生きるエネルギーは続かない。

愛がなければ生きるエネルギーは続かない。
「これこれのため」という愛の気持ちがあるから「これこれのため」というエネルギーが続く。

神経症的非利己主義では、現実の苦しみに耐える心の力は弱化する。

少子高齢化の根底にあるものは幼稚化である。
生きるエネルギーの衰退である。

結婚生活を維持するだけに心理的には成熟していない。

そしてこうした神経症的非利己主義が自己の内なる力を弱化させる。

嫌われるのが怖くて譲る。
その結果相手が嫌いになる。
嫌いな感情を表現できなくて憂鬱になる。

さらに嫌われるのが怖いという恐怖感の中では心理的に成長することはできない。

人は安全な中で成長する。

安全性が確かめられると、より高い欲求や衝動を発現させる。
マズローの言うように安全性が脅かされると、一段と基本的な欲求に退行する。

一般に安全を感じる子どものみが、健全に成長へと進む。
満たされない欲求は、常に背後から満たされることを要求し続ける。

母親の神経症的非利己主義は子どもに彼女を批評する余地を与えないために、しばしば利己主義の親よりももっと悪い結果になることが多い。

この人たちの非利己主義は相手が求めるものを与える非利己主義ではない。
自分の独りよがりの非利己主義である。
つまり自分のない非利己主義である。

だから努力が実らないばかりか時には悲劇をもたらす。

自分のない非利己主義とは相手を見ない非利己主義である。
言葉としてはおかしな言い方であるが、自分のための非利己主義である。

自分が心の傷を癒すために相手を必要としているのである。
自分の内面の心の葛藤から目をそむけるための非利己主義である。

この神経症的非利己主義が実は神経症の症状だということは、ほとんど理解されていない。
この神経症的非利己主義的な人は自分自身のためには何も望まないとフロムは言っている。

あなたが幸せなら私はそれでいいわ」というようなことを言う女がいるということを書いた。

それは愛のないときに言う言葉である。

それは自分が努力してないときに言う言葉である。

これは子どもをダメにする母親の言う台詞でもある。

子どもをピーターパン症候群にする母親はこれを言う。

まず、このような台詞を言う女は自分のすることをしていない。

他人の褌で勝負するような人間である。

この「あなたさえよければ私はそれでいいの」と言う人々を、フロムは神経症の一症状としての神経症的非利己主義と言っている。

この人々は憂鬱、疲労、働かない、近い人との関係がうまくいかない。

この「あなたさえよければ私はそれでいいの」が神経症の症状だとはほとんど理解されていないとフロムは言う。
重要な指摘である。

さらに重要なことをフロムは指摘している。

このような人は憎しみに満たされている。

非利己主義の裏には、とんでもない自己中心性が隠されている。

だからこのようなことを言う母親は子どもをおかしくする。

だからこのようなことを言う女は男をおかしくする。

この言葉に引っかかって生涯を棒に振った男の何と多いことか。
この逆も同じである。

生涯を棒に振った女性である。