本当の安心は、自分の価値などという意識を超越したところに存在する。
しかし、それを直接求めることは、解脱を求めるようなものである。
逆に、自分の外側をいくら飾り立てても、心底の無価値感から免れることはできない。
自分を成長させ、幸福な人生を築こうとする誠実な努力を積み重ねるうちに、しっかりとした自己価値感が形成されるのである。
存在自体の価値を確認する
私たちは存在するだけで価値があるとか、存在自体に無限の価値があるなどと、決まり文句のように言われる。
しかし、苦しんでいる最中には、そうした美辞麗句は無内容で無意味にしか感じられない。
それでも、このことを裏付けを以て確認しておくことは救いになる。
命のつながり
私たちは、連綿と続く生命と人生を受け継ぐ存在である。
家系図は一般に子孫になるほど人数が多くなるように描かれる。
このために、先祖をさかのぼっていくと、その数がどんどん減っていくように思い込んでいる。
実際には逆である。
先祖をたどるほど人数は増えていくのである。
まず、自分の両親がいるが、両親にはまた、それぞれの両親がいる。
それぞれの両親には、また、それぞれ両親がいる。
こういう具合に、五代さかのぼれば先祖の総数は62名になり、10代にまでさかのぼれば実に2046名にまで増える。
この2046名のうち誰か一人でも欠けたとしたら、自分という人間は存在しなかったのである。
私たちは皆、こうした多数の人間の人生の網の目に位置している。
家系図ではこのつながりはそれぞれ線で結ばれる。
私にはこの線がそれぞれの人の人生を象徴しているように思われ、自分という存在がこれらたくさんの人々の人生を背負っているような感じがする。
だから、自分の人生をぞんざいに扱ってはいけないと思うし、ましてや自分の生命を自分で断つことなど論外だと思えてくる。
自分にも、後に続く世代へ生命をつなぎ渡していく責務があるように感じられる。
特別な家系に属する人以外、曾祖父母ぐらいまでしか名前や人となりを知らないのではないだろうか。
できる限りさかのぼって先祖を調べてみる作業をしてみると、自分のアイデンティティがより明確になり、自分という存在の重みを実感できる。
人とのつながり
私たちはお互いの存在を歓迎し合っている。
親にとって、子どもや孫はいてくれるだけで喜びである。
過保護・過干渉の親は言うに及ばず、子どもの存在を歓迎しないかのような親でも、子どもがいざ家を出ると胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。
自分が親になってみればわかる。
子育ての大変さゆえに「子をもって知る親の恩」という言葉に納得するけれども、それ以上に、子どもがいてくれることで与えられる喜びや感動の方がはるかに大きい。
赤ん坊が笑えば「笑った、笑った」と喜び、幼子の舌足らずの言葉に大笑いし、一挙手一投足に歓びの感情が湧く。
まさに「子をもって知る子の恩」こそ、いっそう的確な標語である。
親の期待に応えられないと自分を責める人がいるが、あなたがいてくれただけで、あなたの親は大きな喜びを受け取っていたのである。
兄弟姉妹もまた、いてくれるだけで価値がある。
子どもの頃は喧嘩ばっかりだった兄弟でも、大人になれば信頼し合える関係にもなる。
老年期になったら、兄弟がいてくれることは心強いし、語り合いたい仲になる。
幼馴染や級友など、人生のある時期を一緒に過ごした仲間もまた、お互いにかけがえのない価値がある。
会えば、あの懐かしい時期に還り、記憶と感情を共有しあうことができる。
生前は喧嘩ばかりだった夫婦も、伴侶が亡くなったあとで、相手がいてくれたことでどんなに自分が元気づけられていたかに気づく。
改めて自分の心の中にある人々と、自分にかかわりを持った人々を思い起こしてみよう。
自分が思うのと同じように、あるいはそれ以上に、自分を気にかけていてくれる人々がいるものである。
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生きづらさを引き寄せる無価値感
生きる自信がない無価値感の克服
生まれつき感じやすい無価値感
成長してから自信を失う無価値感
自分自身を愛おしいと思う気持ち
内面自己と外面自己
「自分」には、内面としての自分と外面としての自分とがある。
品川不二朗はこれを「内回り自己」「外回り自己」と呼んでいるが、ここでは簡略に内面自己・外面自己と呼ぶこととする。
自己に内面自己と外面自己とがあるように、「自分」の価値には、内面自己としての価値と外面自己としての価値がある。
内面自己としての価値とは、自分の人格的な側面であり、次のようなものである。
努力家、忍耐強い、誠実、優しい、配慮、献身、共感、自制力、公平、勇気、ユーモアなど。
外面自己の価値とは、以下のような自分の側面である。
業績、評判、学歴、地位、職業、収入、資格、および容姿など第三者から見えるもの。
人は誰でも、内面自己と外面自己の価値を充実させるべく努力する。
そして、それが、自分を成長させ、社会に貢献することにもつながる。
生涯発達心理学が明らかにしているように、私たちの人生の前半は、主に親の期待に応えて社会的価値を達成することに関心と努力が向けられる。
そして、人生の後半になると、より自分自身へと関心が向き、心の成熟や統合が主要な関心事になる。
つまり、人生の前半は外面自己価値の充実が大きなテーマになるのであり、この時期にこの努力がなければ、成人としての自信と自己価値感を得ることは難しい。
だから、ひきこもっていたり、定職に就くことから逃げたりしていると、無価値感から抜け出すことは出来ない。
ただし、外面自己価値は、努力、勤勉、献身など内面自己価値の結果として得られるものである。
したがって、内面自己としての価値こそが本質的な自分の価値であり、外面自己価値は派生的で、周辺的な価値にしか過ぎない。
このために、偉業を達成した人にインタビューすると、ほとんど例外なく達成した偉業そのものを誇るのではなく、「人一倍、一途に努力してきたことを誇りに思う」と答える。
ただニコニコしているだけで価値がある
無価値感を卒業するためには、内面自己を重視することである。
逆に、外面自己価値に過度にこだわると、心の平穏は得られず、無価値感を強める結果になる。
なぜなら、外面自己価値とは、他者との比較であり、他者に依存する評価だからである。
そのうえ、たとえそれらが得られても、自分の周辺的価値に過ぎないので、心底からの満足や充実感が得られないからである。
自分で描きたいものを描くのではなく、評判や売れ行きばかり気にして描いている画家がいるとしたら、彼は心の底から満足できるであろうか。
ただし、決してやせ我慢をしないこと。
次のように書いた学生がいる。
「”自己肯定感を得るにはあるがままの自分を受け入れることだ”と言うけれども、”そういう人はすでに社会的成功を収めているからそう言えるのだ”と思う。」
率直な気持ちであろう。
自分の胸に聞いてみて、社会的成功を求めて努力することがエネルギーになり、自分を成長させ、豊かな人生につながる。
若い時期に、思いっきりそうした夢に邁進する体験がなければ、人生を不完全燃焼のままに終わらせてしまう可能性がある。
内面自己と外面自己とのバランスをとりつつ、内面自己により比重を置くようにすることである。
自分の内面自己に自信を持つことである。
無価値感を乗り越えることに関心を持つような方は、本来、魅力的で豊かな内面価値の持ち主である。
たとえば、以下のような特性のいくつかが思い当たるであろう。
- つらさに耐える忍耐力がある。
- 仕事にも人付き合いにも誠実である。
- 人のために尽くすのが好きで献身的である。
- 他者の弱さに共感できるので人に対して優しい。
- ささやかな幸せに満足できる。
- 粘り強い。
- 謙虚である。
ある学校の教授は、卒業式後の祝賀会のとき、ある学生から「大学に来るのがつらかったけど、先生の笑顔を見ると安心できて、卒業することができました」とお礼を言われたことがある。
同僚の複数の教員からも「先生の笑顔を見るとホッとする」と言われたことがある。
ただ、ニコニコしているだけでも価値があるのだ、と思ったものである。
こうした自分の長所を確認し、自分を愛おしむことである。
これらを伸ばすことによって、成長し、人間的な魅力がもたらされる。
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逃げないで行動してみる
自分探しの罠
自己肯定感を持てなくて悩んでいるというある人が心についての本を読んで感想を述べた。
そこには、「自己肯定感を得る方法としてはこの本の通りだけど、それができないから悩んでいるのであり、自分探しはなお続く」という趣旨のことが書かれていた。
厳しい言い方であるけれども、これは甘えであり逃げていることである。
何冊も何冊も一時の癒やしを与えてくれる本を読んでいる人がいるが、これもまた逃げである。
必要なのは行動である。
自分に何らの価値も実感できなければ、自分を肯定できるはずがない。
自分の価値を実感できる行動をすることこそ、自己肯定感に至る道である。
前に、養護施設にいる高校生たちが将来のビジョンを語る姿をテレビで見た。
逆境にあってもりりしく人生を生きていこうとする、こうした人たちを見ると感動する。
自分探しとか、自己探求などに逃げることはやめよう。
自分の中をいくら探ってもそんなものは見出せない。
「なりたい自分」の姿を明確に描いて、その実現に向かって努力していくなかで、自分が形成され、自分が見えてくるのである。
必要なのは自分作りである。
二十歳を越えてもなお親に依存しているなら、親の元から飛び出そう。
一人で社会にほっぽり出されたら、自分探しなどとのんきなことを言ってはいられない。
幸福になるための人生のビジョンをしっかりと描いて、それに沿って行動することである。
急がないで一歩ずつ
自転車に乗ることでも、スポーツでも、練習しないとうまくできるようにはならない。
考えること、探求することでできるようになるものなど存在しない。
身体的技能では、これは当たり前のこととして認識されている。
ところが、なぜか心理的技能についてはすぐにできるようになる、と思ってしまうことが多い。
「気持ちを切り替えればいいのだ」「決意さえすればいいのだ」と。
そんなものではない。
心理的技能も練習してだんだんとできるようになるのである。
時間をかけて、何回も何回も練習することで、少しずつ上手になっていくのである。
無価値感を卒業するためには、内面自己を大事にしつつ、内面自己・外面自己のバランスがとれた状態で、自分を高めていく地道な努力継続することである。
無価値感の強い人は、自分の持つ能力資源とエネルギーを苦しみのために消費している。
そうではなく、それらを自分で納得出来る幸福な生活を実現するためのエネルギーに転換することである。
そして、一つ一つ成果を積み上げ、自分でそれを誇りとして確認していくことである。
「自分もこんなにがんばれるんだ。がんばっているんだ」と。
がんばっている自分がいとおしくなる。
そして、こうした行動をしていると、幸福とは到達点なのではなく、幸福を作ろうとするプロセスそのものなのだと感じられる。